Ch.2 黒猫失踪と国会議員外患誘致事件

経営戦略の方針転換

Ep.14 茉莉花探偵事務所への帰還

 郊外の目立たない奥地にぽつんと佇んでいる茉莉花心美の探偵事務所へと、およそ1週間ぶりに無事帰還することができた俺たちは、久々に味わう平穏な自宅の雰囲気に漸く安心感を覚える。


「いだぁ! 痛いよ心美!」


「五月蠅いわね! もうちょっとこっちに寄り掛かりなさいよ!」


 俺は中国から遣わされた殺人スパイ・ジミーから受けた銃弾の傷も癒えないまま、長期入院することもなく、意識を取り戻した翌日には帰宅することに決めた。いつまでも病院に滞在していては、高額の治療費を栄泉リゾーツに負担してもらうことになる。そして何より、俺の居場所は心美の隣だけだからだ。


 心美はアルビノという特異体質によってメラニンと呼ばれる色素が薄く、日光による紫外線に対する耐性が極端に低い。夏の強い日差しの下で満足に活動できない彼女は、左手に日傘、右手は負傷中の俺の身体を支えるために塞がっている。心美はわずらわしそうに俺にもっと近くに寄るように言うが、それは壮絶な人生を歩んできた心美が男女としての距離感を理解していないからであり、俺の倫理観はこれ以上彼女に近づくことは許されないと警鐘を鳴らしている。


「ほら堅慎、一旦離れて! 家の鍵が開けられないでしょ!」


「分かった! 分かったから押さないでくれ! また意識が飛びそうなくらい痛いんだ!」


 死の危機に瀕する俺を見て人目を憚らず大慌てしていた心美は今更になって恥ずかしくなったのか、近づけと言ったり離れろと言ったり矛盾した言動を取りながら、照れ隠しするように俺のことをぞんざいに扱う。俺は大人しく心美から離れて家の鍵を開けてもらい、日傘を閉じて傘立てに入れた心美にもう一度肩を貸してもらって玄関の敷居をまたぐ。


「全く……。今日から食事とかお風呂とか、生活面に色々と不安が残るわね……。」


 探偵事務所兼自宅の広い一軒家で、俺と心美は数年前から生活を共にしている。だが、天才的頭脳と見る者全てを魅了する容姿を持つ心美は生活能力が極端に低く、炊事洗濯に始まり、事務所経営の裏方に至るまで雑事は全て俺の担当だ。そんな俺が重傷を負ってしまった今、彼女は1日と持たず音を上げるだろう。


 俺の身体をゆっくりとソファに降ろしてくれた心美は、夏の燦々と降り注ぐ日の光に当たらないために、昼間は必ず長袖を着用しなければならない。茹だるような暑さとねっとりとした高温多湿の空気が充満した部屋の不快感に耐えかねた彼女は、エアコンの風量を最大に設定する。


 心美の趣味で取り揃えられたアンティーク調の家具に囲まれた一室の片隅に置かれた大きめのソファに座る俺の隣に姿勢良く腰掛けて、ゆっくりとひとつ溜息を吐く彼女は、黙っていれば本当に絵になる美少女だ。そんなことを考えながら心美の横顔に見惚れていると、当の彼女は何か思慮を巡らせるように顎へ手を添えたまま黙り込む。


「どうした……? 具合でも悪いか?」


「違うわよ。武田さんから今回の報酬として貰ったのは結局100万円だけ。無闇に浪費することはできないから、外食は控えなくちゃと思って。」


 まさか──その3文字が脳裏を過った俺は、得も言われぬ嫌な予感に苛まれ、背筋に冷や汗が流れ落ちる感覚を味わう。


「よし決めた! 今日から私が堅慎に代わってご飯を作るわ!」


「待った! それだけはダメだ!」


 心美はこの世の誰よりも頭がキレるくせに、誰よりも料理が下手くそだ。というのも、きちんとレシピを確認した上で手順までしっかりと理解していることを、何故か自らの手で再現することができないのだ。そんな彼女は以前、俺に任せ切りでは悪いからと言って料理の練習をしたことがある。だが、その時のことは「茉莉花探偵事務所全焼未遂事件」として、未だ俺たちの記憶に深く刻み込まれている。


「忘れた訳じゃないだろ! お前がキッチンに立ったらまた家が燃えるぞ! そうなったら100万なんて修繕費だけで吹っ飛ぶ!」


「五月蠅い! 私だってもうすぐ成人なのよ? あの頃とは違うってこと、分からせてあげるわ!」


「そんな! つい一昨日、一緒に死線を乗り越えて事件を解決したばかりじゃないかよ! こんなつまらない死に方は嫌だ!」


「失礼ね! じゃあどうするってのよ!」


 帰宅して早々に冗談を交えながら言い合う俺たちだが、まだ完全に冷えていない部屋で長袖のまま過ごしている心美は次第に息を切らしながら辛そうな表情をしている。


「だ、大丈夫か……?」


「えぇ。ちょっと暑くて……。」


 そう言うと心美は、何と俺の目の前で服を脱ごうとする。俺は咄嗟に目を逸らして、彼女の汗に濡れた煽情的な艶姿を視界から消し去る。


「馬鹿! 着替えるならここじゃなくていいだろ!」


「何を慌ててるのよ。下着は着てるから大丈夫。」


「そういう問題じゃない!」


 心美は着替え終わると、大量に汗を吸った長袖を洗濯機に放り込んでぽちぽちとスイッチを闇雲に押している。


「堅慎! この洗濯機ってどうやって使うの!?」


 ──俺は事務所の健全経営の心配をする暇もなく、前途多難な今後の私生活の行く末を憂うのだった。



 §



「ふぅ……。漸く落ち着いたわね……。」


 帰宅してから色々な後片付けを済ませシャワーを浴びた心美は、風呂に入れない俺の身体をウェットタオルで丁寧に拭いてくれた。その後、動けない俺に代わって、俺の助言通りに淹れた冷たいジャスミン茶を飲みながら優雅なひと時を過ごしていた。


「俺が不甲斐ないばかりに、迷惑かけてすまないな……。」


「そんな、堅慎は何も悪くないわよ。生きててくれただけで本当に良かった……。」


 ソファに寝そべる俺にぱたぱたと近寄ってきて傷の具合を確かめてくれる心美に、俺は何だか申し訳ない気持ちが芽生えてきた。


「まだ痛むかしら……?」


「かなりな……。特に足が酷い。座っていようが、寝ていようが激痛だ……。」


 俺は病院から処方された痛み止めの錠剤を、ジャスミン茶と共に心美から手渡される。


「こういうのって、水じゃないといけないんじゃないか?」


「仕方ないわね……。」


 心美はコップに残ったジャスミン茶を一気に飲み干すと、そのコップに水道水を並々と注いで俺に寄越す。


「あ、ありがとう……。」


 コップを受け取った俺は、痛み止めを一気に飲み下した。


「はぁ。思ったんだけど、これまでは私が犯罪者たちから命を狙われるようになって、世間の注目から逃れるように重要案件しか依頼を受けないようにしてたけど──」


 神妙な面持ちで話を切り出す心美の言葉に、思わず首を傾げて続きを促す。


「これからは小規模案件も積極的に募集した方が良いんじゃないかしら……?」


 そんな心美の提案に、俺は直ちに賛同できなかった。


「確かに、中国のスパイ組織とやらに居所も割れた上にメディアが茉莉花探偵の現役復帰を持てはやしまくってるけど、出来るだけ大人しくしているのに越したことはないと思うんだが……。」


「私もそう考えたわ。でも、どうしたって衆目を躱し続けるのは限界がある。それに、私たちの事務所経営というか、生活を続けていく上で安定した収入源の確保は急務よ……!」


 事務所自体の存続と俺たちの生活の安定に向けて金を稼がなければならないと主張する心美の考えは、至極真っ当だ。だが、心美の身の安全を預かる身としては、異議を唱えざるを得ない。


「なぁ、俺は心美さえ良ければ、もう探偵業からは足を洗ってどこか人目につかない田舎でのんびりと過ごすのも良いかと思ってるんだ……。」


 俺はあくまでも心美と一緒に居たいというだけで、探偵として働く彼女を支えるのはそのための1つの手段に過ぎない。だが、彼女は頭を振ってこう答える。


「堅慎、私ね。こんなことを言うとまた貴方を怒らせてしまうのは分かってるんだけど、本音だから、正直に話すわ……。」


 何処か物憂げな表情で、心美は俺の顔色を窺いながら恐る恐ると喋り出す。


「私は小さな頃から誰にも愛されない、必要とされない存在だった。そんな私に同情して今までずっと支え続けてくれた貴方に対して、何か恩返しがしたいの。」


「そのために私は、堅慎に何不自由ない生活を送ってほしいと思って、探偵としてお金を沢山稼いで地位も名誉も築き上げてきた。そのうちに、こんな私にも人助けが出来るんだって、生き甲斐を見出すことができたの……。そのきっかけを作ってくれた貴方には、まだ何の恩も返せてないから──」


 俯きながらぽつりぽつりと心境を吐露する心美の震える手を握るため、俺は痛みを押して彼女の傍へと身を寄せる。


「全く……。あのな、まず、俺が心美と小さい頃からずっと一緒に居るのは、俺が好きでやってることだ。同情なんかじゃない。分かるだろ……?」


「っ……。」


「それにだ。心美が俺に恩を感じてくれているように、俺もお前に返し切れないほどの恩があるんだぞ……?」


 父親による家庭内暴力の影響で母親が一家心中を企てたことによって、祖父母は既に逝去していたために天涯孤独となった俺は施設に引き取られた。だが、人との付き合い方を忘れた俺は施設の職員や他の子供と一言も交わすことなく、空虚な人生を送っていた。そんな退屈な時間の中で、俺の人生に再び彩りを与えてくれたのが心美だった。


 ある日の学校帰り、幼馴染の心美の親が失踪したことを風の噂に聞き、彼女の自宅を訪れたことが全ての始まりだった。同時期に親を失くしたという似たような境遇に置かれた俺たちは、今まで以上に意気投合して苦楽を共にするようになった。俺は唯一の理解者を見つけたと思った。彼女の笑顔がなかったら、今の俺は確実に存在していない。


「お前が傍に居てくれなかったら、俺は今この世に居たかも分からない。お互いに、持ちつ持たれつでやってきたんだ。今更恩がどうとか、水臭いこと言うな……。」


 俺が全てを言い終わる前に、心美は涙を流していた。ありがとう──そう譫言のように繰り返しながら。


「お、おい。泣くなよ……。で、どうするんだよ?」


 俺はこの一言に、あくまで茉莉花探偵事務所の方針に関する最終決定権者は心美であるから、彼女の判断に全てを委ねるという意思を込めた。


「っ、うん。やっぱり、私は探偵として人助けも続けたいし、沢山稼いで堅慎を幸せにしたい……。だから、今後は浮気調査だろうが飼い猫探しだろうが、どんな小口の案件も積極的に受注して、まずは事務所の経営を安定化させましょう。」


「あぁ、仰せの通りに。」


 俺たちは、もう一度ここから探偵稼業を再出発させることを誓い合って、身を寄せ合うように眠りに落ちた。

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