第22話 bar梟の宴
なつみを駅に送ってから、買いもしない洋服のネットサーフィンに熱中してしまい、気づくと夕方になっていた。
なつみからは、昨日のお礼と今度ご飯行きましょうという趣旨のメッセージが送られてきて、来週早々に会うことが決まった。
橙色に染まる空を見ているとなんとなく、このまま一日が終わるのが惜しくて外に出たくなった。そうだ、燐さんに会いに行こう。
能勢はそう決めると、軽くメイクをして、大きめの伊達眼鏡をかけた。
ビッグサイズの黒パーカーにカーキのロングスカート、使い慣れたランニングシューズを履いて、夕暮れの街に繰り出した。
雑居ビルの三階。相変わらず不安定なエレベーターを降りると、bar梟のドアが開け放たれていた。店内からはガヤガヤとした人の喋り声や笑い声、アコースティックギターの音が漏れている。
「こんばんは」
能勢は恐る恐る呟いて、そっとドアから中を覗き込んだ。
いつも閑散とした薄暗い店内に、今日は天井からスポットライトが舞台を照らし、大勢の人で賑わっていた。
スポットライトの光の下で中年の男性二人が、パイプ椅子座りアコースティックギターを弾いている。
片方は首からハーモニカを、針金ハンバーのようなもので空中に固定している。ハーモニカはスッポトライトの光を反射して。ピカピカと輝いていた。
ステージ前に並べられた椅子とテーブルには、様々な年齢の男女が座って、お酒を飲みながら、熱い視線をステージに注いでいる。
「おぉ、能勢ちゃんじゃないかい。」
燐さんがカウンターから能勢の姿を見つけて手招きをした。
「飲みに来たんだろ?そのまま入ちゃって良いよ」
能勢は軽く会釈してから店内に入り、カウンター隅の空席に滑り込むようにして腰を下ろした。
「今日は、お得意さんが定期ライブしているのさ。」
燐さんは笑いながら、メニューを差し出してくれた。店内には不思議な熱気が満ちている。
「とりあえず生で」
「はいよ」
燐さんは景気良く返事をして、冷蔵庫からジョッキを取り出しビールを注いだ。
見事な七対三の黄金比のビールが能勢の目の前に置かれた。ビールは店内の灯りに照らされ、琥珀色に輝き、グラスはうっすらと汗をかいている。
燐さんは、奥から透明の液体(多分焼酎)が入ったビアタングラスを持って来て、能勢のビールジョッキに軽くぶつけた。
「お疲れ様。乾杯」
「お疲れ様です。乾杯」
チリンと涼しげな音が鳴った。
能勢はジョッキを傾けビールを飲んだ。苦味と酸味が、パチパチと弾けながら喉を下っていく。
「あー美味しい」
全身に爽快感が駆け抜けて、アルコールが頭をめぐる。今生きているんだと強く感じた。
そんな能勢を燐さんが面白そうに見つめた。
「今日は顔色がいいね。良いことでもあったかい?」
「そう?なんでもないよ」
とぼけながら、ミックスナッツを注文する。
いいことがあったとすれば、なつみと会う約束ができたこと。それ以外は何も生産しない怠惰な一日を過ごしてきた。
すぐに能勢の目の前に、ミックスナッツが入った白い小皿が置かれた。
燐さんにお礼を言いながらビールを一口飲んで、ステージを見ると、いつのまにか中年の男性ではなく、真っ白なブラウスを着た若い女性が「戦争に行こうよ」とつなない手つきで、アコースティックギターを弾いて歌っていた。
「あの子の歌はいいね」
燐さんはそう言って、煙草に火をつけた。赤い火の玉が煙草の先で燃え、白い煙がゆらゆらと不安定に天井に登っていく。
「実はね、燐さん。私友達ができたんだ」
まだ、友達になれるかなんてわからないけど、能勢はなつみのことを友達と言ってみた。
「お、そいつはいいね」
燐さんは嬉しそうに笑う。
店内に、女性の歌う「月月火水木金金」の声が響き、ステージ前の席からは歓声が上がっていた。
「まぁ、楽しくおやりよ」
燐さんは、口から煙草の煙を吐き出した。
「短い人生だからさ。失敗も成功も、別れも出会いも、全部楽しみな」
燐さんは能勢に向けて話していたけど、視線はどこか遠いところを見ているようだった。
「燐さんは人生楽しい?」
能勢は、思わず聞いてしまった。聞いてから、少し踏み込み過ぎた質問のような気がして後悔した。
「私かい?そうだね、色々あったけどさ、全部まとめれば楽しかったかもね」
燐さんの瞳は、不思議な光を宿して、マーブル模様に揺れていた。
「あとは死ぬだけだから気楽なもんだよ」
はははと声を出して、燐さんは笑う。
能勢は、大汗をかいてテーブルを濡らしているビールを飲んだ。喉を滑る液体は、言葉に出来ない混沌とした思いを胃まで押し流した。
幸せって何だろうか?生きるってなんだろうか?
客席からバラバラと拍手が起こり、ステージでは戦争の歌を歌っていた女性が、はにかみながら、舞台袖にはけていくところだった。代わりに、テンガロンハットをかぶった初老の男性たち数名が出てきて、洋楽のロックソングを奏で始めた。
何人かの客が手拍子をして、拳を振り上げている。
その光景を眺めながら、ビールを口に運ぶ。
人生を楽しめているのだろうか?
能勢は自分自身に問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。
でも本当は、もうわかっている。そんな気が能勢はしていた。
言葉にならない思いは脳内をめぐり、音楽とアルコールによってドロドロと溶けていった。
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