第19話 夜が明けての朝食
瞼を突き刺す日の光で目を覚ました。
カーテンを閉め忘れた窓からは、太陽の光が燦々と部屋に降り注いでいる。
直射日光を浴びていた顔が熱くて、能勢は体を起こした。目元をこすると指先に水滴がついた。
不思議に思い、鏡を見ると目元から頬にかけて薄い白い跡が残っている。私は泣いていたのだろうか?
寝ていた時のことを思い出そうとするが全く記憶がない。泣いていたこと自体が恥ずかしくなって服の袖で乱暴に目元を拭いた。
昨日は着替えずに寝たため、体から汗とライブハウス独特の硝煙のような匂いがした。
とりあえずお風呂に入ろう、そう思って廊下のドアを開けると、玄関で眠り続ける女の子が視界に飛び込んできた。
そっか、すっかり忘れていた。
昨日ライブハウスから女の子を連れて帰ってきたのだった。もう日は高く昇っているのにまだ寝ていたのか。
寝続けていることに多少呆れながら能勢は、女の子の隣に座った。幸せそうな顔で眠る女の子の頬を人差し指でつつく。
「うぅう」
女の子が呻いた。今度は肩を軽く叩く。
「あの、もしもし」
「うぅう」
再度のうめき声の後、女の子がうっすらと目を開けた。額に前髪が張り付いている。
「え、あ、れ?おはようごいます」
寝ぼけて焦点が合っていない。女の子はゆっくりと体を起こして、周囲を見回してから、能勢の顔を見た。
「あれー?誰ですか?ここは、どこ?」
ぼーとした顔で能勢に言った。
「昨日のことは覚えてない?」
能勢の言葉に女の子はショートボブの髪を揺らして、何かを思い出そうと天井の隅を見上げた。
「昨日?」
女の子はしばらく天井を見つめていた。
「昨日は、ライブにいって、」
そう口に出した後、何かを思い出したように能勢の顔を正面から見つめたかと思うと、目が周囲を泳ぎ始め、顔色がどんどんと青くなっていく。
「あ、あ、私何していたんだろ?お酒飲んで、バンドが解散って、そして倒れた?あれ?どういう、え」
女の子は髪を何度も手で触り、怯えたように俯いた。体が小刻みに震え始め、呼吸が荒くなり始める。
能勢は慌てて女の子の背中をさすった。
「待って、待って。大丈夫だから。安心して。昨日君はライブハウスで倒れたの。多分お酒の飲み過ぎ」
女の子が怯えたように能勢の顔を見た。
「で、その後ライブハウスに置いておくわけにいかなかったから私の家に連れてきたの」
能勢の言葉に女の子は自分で自分の体を抱きしめ、思いつめたような表情をした。
「見ず知らずの私を、ですか?」
あ、やばい。怪しまれている。能勢は慌てて言葉をつないだ。
「あ、いや、私は別に怪しい人じゃなくて、スタッフ!ライブハウスのスタッフなんだけど、都会の寒空の下に泥酔した女の子を一人置いておくのが、どうしても見ていられなくてね。他に方法がなくて家に連れてきたの。何にもしてないよ!」
能勢は手をひらひらと左右に振って、何もしてないことをジェスチャーで表そうとした。
「ライブハウスのスタッフさん?」
「そう。ドリンクカウンターで飲み物作っていた」
その言葉に少女はハッとした後、ほぉーと長く息を吐き出した。
「お姉さんの顔思い出しました。ドリンク交換で見ました。」
能勢は危うく不審者になるのをなんとか回避できた。女の子の顔色も元に戻っていた。
「そしたら、すみません。ご迷惑かけてしまって」
「ううん。いいの、いいの。私がしたくてしたことだから」
改めて女の子をまじまじと見つめた。幼い顔立ちに、茶色く染めたショートボブがよく似合っている。よく動く大きな目は小動物を連想させた。
「そいえば、名前聞いてもいい?昨日は会話できる状態じゃなかったから、聞いていなくて」
「すみません。私、なつみって言います。鈴音なつみです。」
なつみが小さな会釈をしながら名前を教えてくれた。さらさらと柔らかそうななつみの髪が揺れた。
「なつみ、ちゃんでいいよね?えっと、今何歳?」
「今、大学二年の二十歳です」
「よかった。一個下だ。私、能勢、能勢ななみ。よろしく」
「よろしくお願いします。能勢さんには、ご迷惑かけてすみませんでした」
なつみは、深く頭を下げた。
泥酔の姿と目の前で謝罪の言葉を繰り返すなつみには大きなギャップがあって、不思議な感じがした。
それでもなつみから微かに漂う、アルコールと汗の匂いが確かにあのときライブハウスにいたことを証明していた。
「ううん、本当大丈夫だからさ。それよりもなつみちゃんは体調とかはどう?頭痛いとか、気持ち悪いとかは?」
「体調は大丈夫です。私飲みすぎると眠くなるみたいで、すみません」
「そうなんだ。なら、良かった」
能勢が笑うとなつみも釣られたように笑った。コスモスの花が揺れるような可愛らしい、可憐な笑みだった。
大切な何かを盗み見たみたいで能勢は嬉しくなった。
「なつみちゃんさ、もし時間あったら、玄関先で話すのもなんだから、朝ごはんでも食べていかない?」
そう言って、目でリビングの方を指し示す。
「いや、でも」
なつみは一瞬迷った。
「倒れた理由とかも知りたいし、ライブハウスの店長にも報告しないといけないからさ。」
意中の女の子と一秒でも長くいたい、そんな思春期男子のように、必死の言い訳を畳み掛けて、能勢はなつみに居座ってもらおうとしていた。なんとなくだけど、なつみと仲良くなりたいと思っていた。
「そうなんですね。そしたら、少しだけ上がらせてもらってもいいですか?」
「うん、是非是非」
なつみは、コンバースのスクールシューズを脱いで、律儀に玄関の上がり框に並べた。
育ちがいいのだろう。それなのに、昨日は酔っ払って、ライブハウスで倒れていた。
なつみにいて欲しい口実で口走った泥酔の理由を、能勢は本気で知りたくなっていた。
「お邪魔します」
なつみはリビングに続く短い廊下を進んだ。履いている裾の広がったブラウンのスカートパンツには濃いシワがくっきりと刻まれ、右側には黒く擦れたような汚れがついていた。
能勢は、リビングに入ってすぐのローテーブルにベッドからクッションを取り去り、床に置いてなつみをその上に座らせた。
「ありがとうございます」
クションにちょこんと座ったなつみは、ぬいぐるみか何かのような愛玩さがあった。
「汚い部屋だけど、まぁ、くつろいで」
能勢は、そう言いながら食パンをオーブントースターに入れ、油を敷いたフライパンにベーコン並べて卵を二つ落とした。
昨日、背中に背負った女の子が今、部屋で朝食を一緒に食べようとしているのは、現実離れしすぎていて、心臓がとくんとくんと高鳴る気がした。まるでちぃちゃんと出会ったときみたいだ。
なつみは、ポーチからファンデーションを取り出して、化粧を直しを始めていた。
コンパクトケースについた鏡で顔全体を見て、髪の寝癖を見つけては、恥かしそうに手櫛で必死になんども撫でている。
チンとトースターが鳴って、こんがりと焼けたトーストが吐き出される。トーストをお皿に取盛り付け、じゅうじゅうと焼ける目玉焼きに、大匙一杯の水をかけて蓋をする。
冷蔵庫から母が送ってくれたイチジクのジャムを取り出し、蓋を開けて、バターナイフを突き刺した。フライパンの蓋を開けて、卵の焼き具合を確認し、平たいお皿に取り分ける。
「簡単なものだけど」
ローテーブルにトーストとベーコンエッグを並べた。
「美味しそう!ありがとうございます」
なつみが急いでコンパクトケースをポシェットにしまった。その瞬間にグーとなつみのお腹がなった。
「すみません」
恥ずかしそうに俯くなつみが可愛かった。
能勢は自分が他人を可愛いと思うことが不思議だった。そして、初めてあったのに友達になりたいとこんなに思うことも不思議だった。
思わず笑みがこぼれ、なつみが釣られて照れ笑いをした。
リビングに漂う香ばしい匂いとカーテンを透かして注ぐ穏やかな太陽の光。
柔らかな空気が二人を満たしていた。
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