第17話 悲しみのライブハウス
スピーカーから吐き出される爆音の音楽と、多彩に変わる照明。音と光に身を委ねている時間は心地いい。ゆらゆらと夢と歓喜が渦巻くライブホールは、現実や生きづらさを忘れさせてくれる魔法の力がある。
ぼんやりとステージを見ていた能勢は、ボーカルがMCで放った“解散”という言葉で、不意に現実に引き戻された。
観客たちの間に動揺が広がっていくのがわかった。
ボーカルが深々と客席に頭を下げた瞬間に、慟哭のような声が客席から聞こえたかと思うと、怒号と泣き声が瞬く間にホール全体を支配した。
事務所のドアが開いて、店長が飛び出してきた。
「おいおい、どういうことだよ」
店長が呆然と呟く。
騒然とする客席の喧騒を割って、ボーカルが楽曲名を叫んだ。演奏が始まる。音楽がお客の悲鳴を飲み込んでいく。
会場は様々な感情がぶつか合い、激しい混沌の渦が形成されていく。
何人かのお客は早足に会場を出て行った。
壁際では、座り込んで女の子が泣いている。
店長は、照明と音響スタッフに指示をすると、楽屋裏へと走って行った。
能勢は、怒りと悲しみが入り乱れるフロアをただ眺めることしかできなかった。
迸る感情と自棄になったような爆音がステージから降り注ぐ。強烈な感情の放流。
膨張するフロアの感情に飲み込まれてしまう気がして、能勢は目をつぶり、両手で耳を塞ごうとした。
その時、バタンと物が倒れる音が、音楽の間を縫って聞こえた。正確には聞こえたような気がして、能勢は音の聞こえた方に視線を向けた。
客席は照明が作り出す光と陰が混ざり合って、よく見えない。
能勢は目を凝らして、音の行方を探がした。
暗闇を見ているうちに出入り口に近い壁に違和感を感じた。照明の光が当たり、壁際が照らされる。
その瞬間床に寝そべるような格好で誰かが倒れている姿が見えた。
能勢は慌ててドンリンクカウンターを飛び出し、その影に駆け寄った。
近づくと黒い影は女の子だった。
黒いバンドシャツに、細身のデニムのパンツ、近くには小さな肩掛けのポーチが落ちている。
「大丈夫ですか?」
能勢はポーチを拾って、女性の肩を軽く叩いた
「うぅ、大丈夫です。大丈夫です。すみません、ちょっと酔っただけなので」
大丈夫と繰り返しつぶやきながら女の子は苦しそうに呻いた。
「ここにいると危ないので、移動しましょう。立てますか?」
「ごめんなさい。少しだけ、休ませて」
女の子はぐったりとしていて、立ち上がれるような状態ではない。
能勢は、辺りを見回した。
感情のうねりは、まだ収まらずライブホール全体が異様な熱気を放っている。
このまま女の子を寝かせておいたら、踏まれてしまうかもしれない。
能勢は、一度大きくため息を吐くと、女の子の腕を肩にかけ、抱き起こそうとした。
しかし、脱力しきった人間の体は予想以上に重くて、とても能勢一人では起こせなかった。
体の下の潜り込んで背負ってみたり、壁を使って立とうとしたり、能勢が悪戦苦闘していると、
「能勢ちゃん大丈夫かい?」
後ろから店長の声が聞こえた。振り返ると、店長が、受付を担当していたバイトの子と一緒に近寄ってきた。
「店長、すみません。この女の子、ライブ中に倒れてしまったみたいで」
能勢の額から汗が流れ、床に落ちた
「そっか、そっか。とりあえず、そのままだと危ないから、一旦クロークに運ぼう」
三人がかりで女の子の上体を起こし、店長がお姫様抱っこ状態で、受付横のクロークスペースに運んで、空いている場所に女の子を横たえた。
アルバイトの子が自販機から水のペットボトルを買ってきてくれたので、飲まそうと女の子の口に当てたが、寝ぼけて飲むことができず、ただいたずらに服を濡れらしただけだった。
「終演したら、ここも混むな。事務所に場所を作ってくるからそっちに移動しよう。能勢ちゃん、申し訳ないけど、もう少しその子見ていて」
そう言うと店長は、アルバイトの子を連れてライブホールへと消えていった。
能勢は、女の子の横に座って、嘔吐した時のためにビニール袋を広げた。天井の高い位置につけられた蛍光灯が頼りなく光り、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえていた。
防音扉で音楽を遮られたライブハウスのクロークスペースは、日常と非日常の境界線上を揺らめきながら漂っているようだった。
世界で一番孤独な空間が能勢と女の子の周りに広がっていた。
暫くして戻って来た店長は、女の子を抱きかかえて、事務所の端にダンボールと毛布で作った簡易なベッドに寝かした。
右が下になるように寝かせながら、
「上向きで寝かせると、ゲロった時に窒息すする可能性もあるから、横向きに寝かせるのがいいんだよ」
店長は得意げに言いながら、奥から出してきたタオルケットを女の子にかけながら
「まぁ、そうなるまで飲むなって話なんだけどな」
と付け足して苦笑いを浮かべた。
ライブは最後の曲に差し掛かっていた。
女の子は、事務作業をしながら店長が見ていることになり、能勢はドリンクカウンターの仕事に戻った。会場に渦巻いていた激しい感情は、急速にしぼんでいき、悲しみの色を帯びていた。
怒ったり、泣いたりしていた人たちの大半は会場からいなくなっていた。
能勢は人が減ったライブホールを見ながら、終演後にドリンク交換に来る人は一体何人いるのだろうとどうでもいいことを考えていた。
ドリンク交換に来たのはほんの数人のお客だけでほとんどが虚ろに肩を落とし、ため息をつきながら会場から出ていった。
ホールの中央でうずくまる女性を音響や照明を担当しているスタッフが総出で懐柔して退場してもらい、その日の公演は終了した。
ガランとした会場には、悲しみの空気が、まだ横たわっていて、誰かの終わりの合図を待っているようだった。
照明と音響が遠慮気味にステージに上がり、スピーカーやエフェクターを片付け始める。
能勢も一つため息をついてから、ドリンクカウンターの片付けを始めた。ホールの隅ではグラスが二つ割られていて、破片は新聞紙に包んで危険物に分類した。
そのうちに楽屋からバンドメンバーとマネージャーらしきスーツ姿の男性が出て来ると。スタッフ一人一人に挨拶と謝罪をして帰って行った。
ライブハウスのスタッフだけになったホールは、激しい感情のかけらのような寂しさだけが残り続けていた。
「そういえば、倒れた女の子はどうなったんですか?」
ステージ上で音響担当の男の子が、片付けをしながら店長に聞いていた。会場内のゴミを拾いながら店長が大きくため息をついた。
「まだ事務所で寝ているよ。あの女の子一人で来ていたみたいで、知り合いはいないし、店も閉めちゃうからこのまま置いとくわけにもいかないから困っているんだよなー」
「なんか今日は色々めんどうな日ですね。演者も出ちゃいましたし、会場の外に出しときます?」
「いやーでも女の子だからさ、なんかあったりしても嫌なんだよね。そうかと言って救急車呼ぶのも大げさだし、警察を呼ぶわけにもいかないからなぁ。まぁ、閉店までもう少し考えるよ」
店長は困ったようにそう言って笑った。
二人の会話はドリンクの在庫確認をしている能勢にも聞こえていた。
脳裏にクロークで寝ていた女の子の横顔が浮んだ。静かな寝息と、華奢な体。多分自分よりも年下だろう。楽しみにしていたライブでの、突然の解散発表。女の子が受けた衝撃は相当大きかったのだろう。それにあと一時間もすればライブハウスの営業は終了してしまう。店長がなんとかしようとしてくれてはいるけど最後には女の子は外に出させてしまうだろう。見ず知らずの女の子を事務所で寝続けさせるのも難しい。
能勢はライブハウスの外で丸くなって眠る女の子を想像し、胸が痛くなった。
「店長」
能勢はドリンクカウンターから店長を呼んだ。
「能勢ちゃんどうした?」
「私が連れて帰ります」
「ん?何を?」
「事務所で寝ている女の子を、です」
「!?」
店長は驚いて、口を大きく「え」の形にしたまましばらく固まってしまった。
「能勢さん、それはやめたほうがいいんじゃないですか」
店長の背中越しに、音響担当の男の子が言った。
店長の体が影になって、男の子の姿は見ないが、苦笑を浮かべている姿が容易に想像できて少しだけ腹が立った。
硬直が解けた店長が、言葉を重ねた。
「そうだよ、能勢ちゃん。見ず知らずの人を家にあげるなんて危ないよ」
「でも、このままだと外に出されますよね?なんかそういうの見ていられなくて。その女の子のことはよく知らないですけど、私の家は盗まれるものもないし、多分そんなに悪い子じゃないと思うんです」
「いや、でも俺のライブハウスで起きたことだから、それを能勢ちゃんに押し付けるのは」
「いえ、私が連れて帰りたいんです。私もよく泥酔したところをいろんな人に助けてもらってきたので。迷惑かけません。お願いします」
能勢は頭を下げた。
「頭なんか下げないでよ、能勢ちゃん」
顔を上げてあげて、と店長は能勢の肩を叩いた。
「ちょっと、考えさせてよ。能勢ちゃんもさ、少し落ち着いて、ね?」
店長は少し困ったようだった。
なぜそんなに強く女の子を連れて帰ろうとしたのかは能勢自身にもわからない。
このままみんなに見捨てられてしまうのは、あまりにも可哀想だと思ったからだろうか?
その少女に、取り残された自分も重ねたのかもしれない。
よく自分でもわからない。
でもただただ、その女の子を一人にしたくないと強く思ったのだった。
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