第16話 ライブハウスの熱気、あの日の泥酔
一つのことに熱中してしまうと、周りが見えなくなってしまうのは、悪い癖の一つだと能勢は思う。
「能勢ちゃん、あと少しで開場だからー」
シンクの汚れが気になって必死に落としていた時、事務所から出てきた店長の言葉にハッとして時計を見上げた。すでに開場まで十分を切っている。
「わ、わかりました」
慌てて、掃除用具を片付け。冷蔵庫から冷えたビールグラスとサワーグラスを大量に取り出して、シンク横の小さな調理スペースに並べた。
開場直前はドリンク交換する人が多いため。飲み物を入れるだけの状態でスタインバイしておくのが一番効率が良かった。
「間も無く開場でーす」
PAを担当する若い男の子がホール全体の聞こえる声で叫びながら、ミキサールームに入っていった。すぐに軽快なBGMが流れ始める。
開場直前の緊張と興奮が混じり合ったピンと張りつめた空気がホールに充満している。そのうちに、ホールの防音扉が開けられ、ガヤガヤという人の声が近づいて来る。
「チケット拝見します。こちらはドリンク交換のコインです」
キャッシャーの声とたくさんの足音と話声が聞こえ始めるとホール内に人が入り、ステージ前に向かって流れはじめた。
ライブハウス独特の非日常感と、高揚した空気がライブハウス全体に広がっていく。
浮ついた熱狂の余波に、能勢も自身の鼓動が高鳴るのを感じた。もう少しすると客の入りが穏やかになり、ドリンク交換をするお客が出てくる。
今日を一日を楽しもう。能勢は自身に気合を入れ直した。
何杯目かのカシスソーダを作っている時に、照明が暗くなった。間も無く開演らしい。
ドリンクオーダーをしていたガーリー系の服を纏ったお姉さんは、ドリンクを渡すと慌てて、ステージの方へ戻って行った。
能勢は一息をついて、近くにあった空のビールケースの上に腰を下ろした。ライブが始まればドリンク交換はなくなる。
BGMが小さくなり、パッとステージが照明で照らされた。
ステージの上にはバンドセットが一式用意されていた。上手袖から派手な髪色をした男たちが、マイクで何かを叫んでいる。その言葉一つ一つにホールが歓声に包まれ、客の熱気が高まっていくのがわかった。
男たちはそれぞれの楽器を持つと、
「今日を最高の夜にしましょう」
そこだけ聞き取ることができたかと思うと、すぐに爆音の音楽が鳴り始め、客たちが狂ったように踊り出すのが見えた。
◆
「今日を最高の夜にしましょう」
すぐ近くにちぃちゃんの顔があった。このままちぃちゃんに唇を奪われても悔いはないような気がした。
能勢は視界が歪むほどに酔っていた。
そして多分ちぃちゃんも。
慣れないお酒を緊張のあまり飲み過ぎてしまった。
アルコールで理性が弱まり、普段誰にもできないような話もいっぱいしてしまった。何を喋ったのかは覚えていないけど。
ただふわふわと雲の上を歩くような楽しい感覚だけがあった。そしてその感覚だけを残して意識は遠くなり、気がついた時、能勢は自宅のトイレで寝ていた。
昨日の記憶は途切れ途切れで思い出せない。
玄関の電気がついていたので、見てみるとちぃちゃんが家の玄関でバックの中身を全部床に撒き散らして寝ていた。
込み上げてくる吐き気を我慢して、バックの中身を拾い集めて、ちぃちゃんをゆすり起こそうとするが、一向に起きる気配がない。
仕方なく、ベッドから掛け布団だけを運んでちぃちゃんにかけてあげた。
体がだるく、鈍い痛みが脳に響いて来る。
これが二日酔いなのだろうか。もしそうなら人生初の二日酔いだ。
そう思っていると急に吐き気が込み上げてきて、慌ててトイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐いた。
胃液によって喉が焼けて、ヒリヒリと痛くて涙が出てきた。口の中が苦い。饐えた匂いもする。
能勢はトイレットペーパーで口を拭った。ぐちゃぐちゃと何か大切なものを虐げられたような気持ちになって、泣きながらベッドに向かい、ベッドにたどり着く前に意識を失った。
どのくらいたっただろうか。急に意識が覚醒して、目が覚めた。
部屋の中は真っ暗だった。頭痛は無くなっていたが、まだ少し気持ち悪い。喉が異常に乾いる。
カーテン越しに橙色の大きな夕日がビルの隙間に沈むのが見えた。時刻は午後六時過ぎ。床の上で夕方までずっと寝ていたみたいだ。
水を飲もうと立ち上がり、部屋の電気をつける。
台所でガラスのコップに水を入れた。
ひんやりとした手触りが心地良い。水を飲むと気持ち悪さがなくなっていった。
そこで、能勢はちぃちゃんのことを思い出した。
玄関を見ると昨日のままの姿で寝ているちぃちゃんが見えた。
ちぃちゃんは猫のように膝を抱えて小さく丸まっている。かけたはずの布団は、なぜかちぃちゃんの下に敷かれていた。
その姿がなぜかとても愛おしくて、思わず能勢は笑ってしまった。
お酒を飲んで、休日を一日潰すなんて人生を無駄使いしている。
でも、そんな何にもならない時間が今は大切な気がした。
玄関に向かい、ちぃちゃんを起こした。
「ちぃちゃん、起きて、もう夕方ですよ」
「んん、何?え、あ、能勢ちゃん。あーおはよう」
「おはようございます。実はもうこんばんの時間です」
ちぃちゃんはもそもそと体を起こした。右の頬が赤くなっていて、フローリングの横線の跡がついている。昨日とはまるで別人で、そんなところも可愛いと思ってしまう。
「え、今夕方なの?どういうこと?」
「寝過ぎです」
「あーそっかー。やらかした。能勢ちゃんごめんね。飲みすぎちゃって」
「私も飲みすぎて、今起きたところなんですよ」
「そっかー、お互いに飲みすぎだったね。日曜日が消えちゃった。残念」
ちぃちゃんは、小さく笑った。能勢もつられて笑った。
「お酒って怖いですね」
「うん、怖い、怖い」
そう言いながら二人で声を出して笑った。
怖い怖いと言いながらまたお酒を飲みたいと思っている。ちぃちゃんと一緒にまたお酒が飲みたいと。
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