第15話 バイト先のライブハウス


 週末、待ちに待った土曜日が来た。

 十六時からのバイトだったが、余裕を持った準備をしたくて、能勢は午前十時にアラームをかけた。

 しかし、起きた時はすでに昼の十二時。住宅街に響く正午のチャイムを聴きながら、大きくため息をついた。

 そこからシャワーを浴びて、昨日の残りのスパゲッティをもそもそと食べた。

 簡単にメイクをして、黒のスキニージーンズに白のバンドTシャツに着替えた。

 小さなウエストバックには必要なものだけを詰め込み靴はぺったんこのオールスターのスニーカーを履いた。特に服装に指定はなかったが、動きやすく、汚れもいい格好であることがライブハウススタッフの基本だった。

 まだ出発するには早かったが、能勢は家を出ることにした。

 週末の住宅街にはゆったりとした時間が流れていて、そのことが少し不思議だった。

 能勢は家から駅までの坂道をゆっくりと歩いた。

 途中で、楽しそうにじゃれ合う小学生ぐらいの男の子たちに追い抜かれた。

 こんなに心が満ち足りて、余裕があるのは予定が決まっているからなのだろうか?

 心は凪のように静かで、安定している。

 目的のライブハウスはここから五駅先にある。

 坂を登りきった先の駅前は、都市部ほどではないがたくさんの人や車が行き交い、雑踏が乱暴に混ざり合っている。

 ふぅと無意識にため息が出た。

 足を早めて、混沌とした音たちをやり過ごし、タイミングよくホームに入ってきた電車に逃げるように乗り込んだ。

 車内は人がまばらで、能勢は空いている席を見つけて座った。

 また、自然にため息がこぼれていた。なぜか少しのことが大変に感じてしまう。

 こんなのでライブハウスは大丈夫だろうかと若干不安になりながらも、電車はバイト先の最寄り駅へと近づいていく。

 能勢は車窓を流れる風景を見つめた。降り注ぐ日差しは電車の窓ガラスをキラキラと輝かせ、流れていく土曜日の街並みはどこか淡く。ぼんやりとしていた。

 大きな公園、走り回る犬、駅前のビル群、無機質な人の群れ、輝いている小川、モザイクアートのような集合住宅。大きく息を吐いて、自分に言い聞かせる。

 大丈夫。ここは来たことのある街なのだ。不安になることなんかない。

 五つ目の停車で、能勢は駅名を何度も確認して電車から降りた。

 駅のホームから見える風景が懐かしい。しばらく来なかっただけでこんな気持ちになるとは思わなかった。

 能勢は駅を出た先にあるアーケード街に向かって歩き出した。アーケード街の入口の屋根には「商店街にようこそ」という古い看板が、塗装の剥げたまま設置してある。

 ライブハウスはこの商店街のはずれに建てられている。。

能勢は昔の記憶を頼りに進んでいった。「大安売り」というポップがひしめいている激安スーパーを左にまがり、突き当たりの古本屋を右、そこからしばらく道なりに歩くと見知った赤い提灯をぶら下げた中華屋が見えてきて、思わず安堵のため息が漏れた。

 たった数ヶ月前の場所に行くのに、道に迷ってしまうのではないかと不安だった。もう来ないと勝手に決めつけていたことも悪いのかもしれない。ちぃちゃんとの思い出がここにはいっぱいあったから。

 ちぃちゃんのことを思い出しそうになって能勢は頭を小さく振って、思考を振り払った。

 中華屋の横には地下へ続く鉄製の螺旋階段が続いていて、その入り口にはオレンジの電飾で「LIVE Vacant Land」と文字が書かれている。

 能勢はゆっくりと螺旋階段を降りた。階段の壁には無数のステッカーが貼られていて、ライブに出た出演者は記念に自作のステッカーを貼っていくのが一つの伝統になっていた。中にはドームツアーやホールツアーを行うようになった有名なアーティストのステッカーなども混じっているという。

 能勢が狭い階段を降りきると、その先には重そうな鉄の防音扉があった。扉には 「Close」と書かれた札が下がっているが能勢は気にせずに扉を押し開ける。

 開けた先は狭い廊下があって、右側をコインロッカー、左側には能勢の腰あたりの大きさの長方形の机が、壁際に並んでいる。狭い廊下の先には、もう一枚防音扉があって、今はその半分が開いていた。

 能勢は、半分の開いている方を通り、更に奥へと進んだ。

 入ってすぐ正面に能勢の肩ぐらいの高さのステージが見えた。ステージ上では黒のTシャツに黒のスキニージーンズを履いた二十歳ぐらいの若い男がマイクチェックをしている。

 準備の邪魔をしたくなくて能勢はそっと、ステージから一番遠い壁際を進み「STAFF ONLY」と書かれた黒いカーテンをくぐって、ライブハウスの事務所の中に入った。

 事務所と言えば聞こえがいいが、そこは物置のような部屋で、六畳ほどのスペースに事務机が二つ並び、機材や楽器が壁に押しやられるようにならんでいる。事務机にはそれぞれ古いiMACのディスプレイが置かれ、その一つに大きな熊のような男が座っていた。

「こんにちは」

 能勢が挨拶をすると、熊のような男がパソコンから顔を上げた。黒ぶちの小さな眼鏡をかけている。男は一瞬能勢を睨むように目を細めて見た後に、

「あぁ、能勢ちゃん!よく来てくれたね」

 男は満面の笑みを浮かべて、立ち上がった。

 椅子が後方に滑って、壁にぶつかり鈍い音を立てた。

「いやー助かったよ。バイトの子が急に辞めちゃって、困っていたんだよ」

 ハハと男は笑うと、能勢の肩を軽く叩いた。

「店長も元気そうで、ご無沙汰してしまってすみません」

「学生も忙しいから、仕方ないさ。時間あったらいつでも来て欲しいよ」

 学校を辞めたことをまだ店長は知らないんだ。そう思うと、少しだけ心が重くなったが、今でも能勢を必要としてくれている人がいるのは嬉しかった。

「早速で悪いけど荷物適当に置いたらドリンクカウンターの準備お願いしてもいい?細かい打ち合わせは後でまたするから、わからないことがあったら、いつでも声をかけてくれたらいいよ」

「わかりました」

 能勢は荷物を壁際の音楽雑誌の束の上に乗せると急いで、事務所を出た。店長が前と変わらずに優しくて、このまま話していると泣いてしまいそうな気がした。

 能勢は、潤みかけた目を拭い、ドリンクカウンターの中に入った。人が一人歩けるだけの横に長いスペースが、ひどく懐かしい。

 壁側にはドリンクグラスや様々なシロップ類やお酒が並んでいて、足元には製氷器が設置されている。一番奥には業務用の冷蔵庫が置かれていた。

 とにかく気持ちを落ち着けたくて、過去のルーティーンを思い出すことにした。

 まず在庫の確認が必要だ。

 在庫の確認表を探すと、前と同じで冷蔵庫の横にマグネットで貼り付けられていた。

 それだけで心の揺らぎが治っていく。

 グラスや、リキュール、シロップの在庫を見ながら、置いてある場所を把握していく。もし新しいドリンクがあれば店長に聞いておきたいし、開演までに掃除もしたい。

「よし、やるぞ」

 小さく呟くと、能勢は自身の仕事スイッチを入れた。

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