第11話 ちぃちゃんとの思い出、都会の大学生


 ちぃちゃんはライブハウスから地上へと続く階段を早足に登っていく。そのあとを能勢は追いかけた。

 何がどうしてこうなったのだろう。

 初めて会った女性と飲みにいくという非日常感が小さな背徳感をスパイスに、能勢の好奇心を震わせていた。

 ちぃちゃんが歩いたあとには甘い匂いがして、妖艶なその雰囲気に能勢の手には汗が滲んでいた。

 階段を上がりきると、街は夜に覆われていた。居酒屋の提灯には朱の灯がともり、バルからは陽気な音楽が溢れ、派手な電飾が瞬いている。

 ちぃちゃんは、階段を登り切っても立ち止まらずに、路地を右に曲がった。

 能勢は慌ててその後追いかけた。

 路地を、曲がった先には小さな公園があって、ちぃちゃんは公園の入り口のU字を反対にしたような鉄の車止めの上に座って、大きく伸びをしていた。

 能勢が息を切らしながら、近づくとちぃちゃんは屈託のない笑顔を見せながら、能勢の顔を覗き込んだ。

「ごめんね、急がしちゃって。ねぇ、能勢ちゃんはいつもどんなところに飲みにいくの?」

 大きな黒目が能勢を見つめていた。能勢はドキッとして、思わず視線をそらした。

「私は、まだ大学入ったばっかりで、あんまりわからなくて、えーと、そうですね」

 都会の大学生は行きつけの居酒屋やbarがあるのが当たり前なのかもしれない。私はまだそんなもの一つも持っていない。そのことが能勢は急に恥ずかしくなった。

「ね、それなら、私の好みで悪いんだけど、駅前の居酒屋さんに行かない?」

 ちぃちゃんにフォローされているようで、能勢は赤面して俯いた。

「はい。ぜひお願いします」

 都会の大学生はカッコイイ。お気に入りの居酒屋を知っている。

 能勢はちぃちゃんが自分と一歳しか違わないのが不思議に思えてきた。いつか、自分の好みで悪いんだけど……とか言ってみたいと思った。

「じゃあ、行こうか」

 ちぃちゃんは能勢の手を掴むと、引っ張るように歩き出した。

「あ、え、千尋さん」

「ちぃちゃんて呼んで」

 ちぃちゃんは進む足を止めずに首だけ振り返って、能勢を軽く睨んだ。

 睨んだ顔も可愛くて、能勢は心の中で驚いた。

「あの、ちぃちゃんさん」

「ちぃちゃんだけにして」

「えーと、ちぃちゃん」

「なーに?」

「手は握らなくても」

「これから人通りも多くなるし、迷子になったら困るから」

 パッと花が咲いたように笑ったちぃちゃんを見て、能勢はもうどうにでもなっていいと思って反論するのをやめた。

 手を繋いだまま二人は路地を抜け、大通りに出た。狭い歩道に多くの人が行き交い、駅までは長い下り坂が続いている。

 ちぃちゃんは能勢を引っ張るようにして、人混みの中を縫って歩いていく。

 駅が近づくにつれて、商店の光量は増え、人の濃度が増してくる。今まで能勢を引率していたちぃちゃんが歩く速度を落として、能勢の隣に並んだ。

「ねぇ、能勢ちゃん」

 ちぃちゃんは毎回能勢の顔を覗き込むように話しかけてくるので、そのたび能勢はどきどきとしてしまう。

「は、はい」

「駅のガード下のお店とか行ったことある?」

「えーと、」

 大学に入ってからの数回の飲み会を思い出す。いつも駅ビルのチェーンの居酒屋ばかりで、ガード下と言われるお店には入ったことがないというか、ガード下の店ってなんだろう。

「ないです」

「そっか、そっか」

 ちぃちゃんは能勢の言葉を聞いて嬉しそうに笑った。

「初体験だね」

 その言葉は何か違う意味を含んでいるように聞こえた。

 夜が訪れ、活気立つ繁華街。甘い、大人の芳香を漂わせるちぃちゃんの口から聞くと、言葉そのものが艶っぽくなって危ない。

「もうすぐ着くから」

 気がつくと、もう駅は目の前で、二人は大きなスクランブル交差点の横断歩道前で立ち止まった。

 ちぃちゃんは繋いだままの手をぎゅっと握ると、顔を能勢の方に近づけてきた。ふっと甘い香りがした。

「楽しいね」

 お互いの頬が触れるぐらいの距離。

 ちぃちゃんの彼岸花のように赤い唇が何か別の生き物のように揺らめいて見えた。

 交差点の信号が青に変わり、信号待ちをしていた人たちが動き出す。

 ちぃちゃんは顔を離して、能勢の手を引きながら歩き出した。 

 能勢は、突然のことに驚きながらも、手を引かれるままに歩いた。現実と非現実の境界が揺らいでいるような、今能勢の右手を握っているちぃちゃんの存在がどんどんわからなくなっていく。

 ちぃちゃんは、駅の構内へ進んでいく人の流れから外れて、ビルの角を曲がり、路地に入る。

 車がやっと一台通れるぐらいの狭い道の左側にはアーチを組みあわせた煉瓦造りの高架橋が線路に沿って続いている。そのレンガのアーチの下に様々な種類の店が軒を連ねていた。

 やきとり、海鮮、中華、ワインバル、焼肉、大衆居酒屋等々。

 どの店も歩道を超えて屋根が張り出し、ビールの空きケースとベニヤで作られた即席の机と丸椅子が店の前に並べられている。公共の道路と私有地との境がひどく曖昧で、もともとの狭い道幅がさらに半分ぐらいになっていて、店に入りきらない備品や魚を入れていた発泡スチロール、大きなポリバケツなどがその隅に積まれている。

「ね、いいでしょ?」

 ちぃちゃんが振り返って笑った。

「雑多で、汚くて、人の匂いがするのが好きなんだ」

 生臭くて、汚れていて、いろんな音や匂いのすることを能勢自身はそんなに好きだとは思わなかった。でも、高架下が発している人々の不思議なエネルギーに惹かれていた。

「この店にしようか」

 ちぃちゃんは、大きな赤い提灯を下げたやきとり屋を指差した。

 店から外に出ているアルミの煙突からは、白い煙が吹き出し、炭火で焼かれるタレの匂いが辺りを包んでいる。

 ちぃちゃんは木枠にガラスが付けられた引き戸を開けた。

 その瞬間に肉が焼ける香ばしい匂いと、アルコールの饐えたような独特の匂いが鼻腔に飛び込んでくる。

 奥行きのある店内では、そこら中で、笑い声が上がり、狂気に似た活気が狭い空間に満ちていた。

「へい、いらっしゃい!」

 威勢のいい掛け声とともに、黒シャツにエプロン、頭にねじり鉢巻をつけた若いお兄さんが二人の姿を見つけて焼き場から飛び出してきた。

「二名入れますー?」

「ちょっと、待てくださいね」

 そういうとお兄さんは、首を客席の方に向けて空席を探すと

「あ、あそこ二席空いていますね。どうぞ」

 そう言って壁際の小さな席に二人を案内した。

 足元に荷物を入れるための小さな箱が置かれている。

「なに飲まれますか?」

 お兄さんはエプロンから伝票とボールペンを取り出した。

「えっと、能勢ちゃんはビール飲める?」

「は、はい。飲めます」

「じゃあ、とりあえず生二つ」

「かしこまりました」

 お兄さんは、注文を聞くと、大声で生二つと厨房に声をかけると、他のお客のオーダーを取りながら焼き場へと戻っていった。

「何か食べる?」

 ちぃちゃんは能勢の方にメニューを渡しながら、ポケットから新品の煙草を出して、封を開けずにテーブルの上に立てて置いた。

「今、絶賛禁煙中なんだ」

 独り言のようにそういったちぃちゃんは、タバコの箱を愛おしそうに手で撫でた。

 私がメニューを決める前にビールが運ばれてきたので、一旦枝豆だけを頼んだ。

「では、えーと、能勢ちゃんとの出会いに乾杯」

 ちぃちゃんの音頭に合わせて、グラスを軽くぶつけあった。チリンと軽くグラスは鳴り、白い泡が揺れた。

 久々に飲んだビールは前よりも優しい味がして、初めてビールが美味しいと感じた。

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