第10話 bar梟での宿泊。幸せと虚無。

 時間は止まらず、全てに平等に訪れる。楽しい時にも必ず終わりがある。

「ほら、閉店だよ。起きな」

 能勢は体を揺らされ目を覚ました。

 カウンターに座ったまま眠ってしまったらしく、顔を上げると頬に赤い跡がついて、右腕は涎で汚れていた。

 ずっと同じ体勢だったため両足は痺れていて、こめかみ辺りから脳内を叩くような頭痛がした。

「あぁ、燐さん起きる、起きるから、ちょっと待って二日酔いで頭が痛い」

「そんな早く二日酔いが来るのかい?」

 呆れたように燐は言いながらも揺するのをやめた。

「とりあえず、水ください」

 燐は水道水をグラスに入れて能勢に渡す。

 水を飲むと多少頭の痛みが和らいだ気がした。

「ありがとう。飲みすぎた」

「おいおい、もう三時だよ。私は帰って寝るんだよ」

 そう言いながらも燐は能勢の背中を優しくさすった。

 とりあえず立ち上がらないと頭では思うのだが、足の痺れは続き、視界はぐるぐると回っている。

「あーやばい。目が回る」

「何やってんだよ、全く」

 燐はため息をついた。

「じゃあ、もう舞台貸してあげるから、布団敷いて寝ちゃいな。そのあとは朝でも昼でも起きた時に帰ればいいさ」

 燐がカウンターの横のスイッチを押すと今まで暗くなっていた店の奥の席に明りがついた。

 そこには二人がけのテーブル席が数席並び、正面には膝上ぐらいの高さの舞台があった。

 舞台自体は小さいが左右にはワインレッドの簡易的な緞帳があり、譜面台やスピーカーなどが脇に積まれている。

 燐は、能勢に水をもう一杯渡すと、ステージ横のスペースから、一組の布団を出して舞台の上に手際よく敷き始める。

「ほら、あんたの今日の寝床さ。吐いてもいいけど、機材にはかけないこと。ビニール袋の中に吐くこと」

 布団の脇には、二重にして広げられたコンビニのビニール袋が並べてられていた。

 二杯目の水を飲んで、幾分か体調も良くなり、足の痺れも無くなってきた。

 燐に手を引かれながら、能勢は千鳥足で舞台まで進み、段差によろめきながらも、舞台上に敷かれた布団に横になった。

 想像してよりも布団は柔らかく、干したての太陽の匂いがした。

「今日、この布団干したの?」

「そうだよ。いい天気だったからね。それなのに早速酔っ払いに使われるとはね。この布団も私もついてないよ」

 燐は呆れたように呟いた。

「燐さんありがとう」

「宿泊は別料金で田中に請求しとくからね」

 燐は上着を羽織りながら言った。

「明日、午後三時には来るけど、それより前に帰るなら店と、シャッターは閉めて帰ってくれよ」

 死ぬんじゃないよ。最後にそう言い残して、燐は照明のスイッチを切って帰って行った。

 闇に店が沈む。

 もう外の喧騒は聞こえない。代わりに甲高いスズメの声が聞こえた気がした。

 夜というよりも明け方に近い時間。もう数時間で日が昇り、また世界が動き出す。

 私は一体何をしているんだろう。

 アルコールが回った頭では何にも考えることができなかった。

 暗闇の中に寝転がってみて、入口の扉上に非常灯があることを初めて知った。

 緑の人形が白い光の中に逃げていくような図柄。

 人生にも非常口があればいいのに。現実から逃げられる道があればいいのに。

 とりとめないことが頭の中に浮かんでは消えていく。

 緑の非常口を見つめている間に能勢はいつの間にか眠ってしまった。

 

 いつもと違う場所で寝たはずなのに、よく眠ってしまった。

 目を開けた瞬間に、スネアドラムの足が見えたことに驚いたが、すぐに状況を理解することができた。

 私は昨日酔っ払って、ここに寝かされたのだった。

 小さな天窓から明るい光が差し込み、床に四角い模様を作っている。

 能勢は上半身を起こして、枕元に無意識で置いていた携帯を起動させて、時間を見た。

 十三時三十分

 どれだけ寝ているのだろうと自分自身に呆れる。お酒を飲んだからといっても即席の寝床で、午後になるまで寝てしまった。

 能勢は、もうどうにでもなれと少し自棄気味に、布団に再び寝転んだ。

 外はいい天気なのだろう。

 布団に横になり、ぼんやりと店内を見ていると不意に小学校の時に、風邪で学校を休んだ日のことを思い出した。

 平日の昼間、みんなが学校に行って勉強している時間帯に、布団に寝そべっていた小さいときのこと。

 両親は仕事で、家の中には自分一人だけ。コチコチと時を刻む時計の音だけがやたら大きく聞こえきて、枕元にはティッシュの箱と、ビニール袋。そして、常温でぬるいして置かれたポカリスエットには優しさが溶けていた。

 午後の温かな光に包まれて、どこにもいくことができず、ぼんやりと天井を見上げては、ぬるま湯につかるようなまどろみに落ちていく。盛大に甘やかされて、守られていると感じて嬉しかった幼い日。

 今は、状況が違いすぎるが、平日からダラダラと寝ていること、枕元にビニール袋が置かれていることは一緒だなと思うと思わず笑いがこみ上げてきた。

 能勢は携帯で音楽をかけながら、ふわふわと温かい店内でまどろみの中を彷徨った。


 ガチャという音で能勢はまどろみから覚醒した。

 続いて、ガラガラという音がしたので体を起こした。

 bar梟の入り口のドアが開き大きなビニール袋を抱えた燐と目があった。

「おいおい、まだいたのかい」

 呆れ切ったように燐はそう言って、ビニール袋をカウンターの上に置くと、そのビニールの中からバニラの最中アイスを出した。

 最中のアイスを真ん中で半分に割ると、ステージの布団で寝転んだままの能勢の隣に座りアイスを差し出した。

「今日は暑くて、アイスが食べたくなったのさ。どうだい調子は?」

「うん、もう大丈夫。ありがとう」

 能勢はアイスを受け取りながら燐にお礼を言った。ほうばったアイスの冷たさと甘さに脳がやっと目覚め始めた。

「このまま開店までいる気かい?」

 燐がアイスを食べながらニヤニヤと言った。

「さすがに帰るよ。布団ありがとう」

 能勢は両手を伸ばして伸びをした。背筋が伸びて、気持ちがしゃんとした。

「燐さん色々と迷惑かけてごめん。でも元気でた」

「なら良かったよ」

 燐さんは最中アイスの中身のバニラだけを吸うという不思議な食べ方をしながら、目線も合わせずにそう言った。

 最中の皮はふにゃふにゃとふやけてしまっている。

 能勢は自分の持っている最中アイスを二口で食べきると、布団から弾みをつけて起き上がる。

「アイスご馳走様でした。また近いうちにくるね。布団どこに片付けたらいい?」

「いつでも来な。布団はそんままでいいよ。また明日干すから」

 燐はアイスがなくなった最中の皮だけをぽいっと口の中に投げ入れ、笑いながらそう言った。


 Bar梟の入っている雑居ビルから出て表通りに出ると、太陽が青い空の真ん中に偉そうに居座り燦々と輝いていた。

 繁華街には夜のお祭りのような賑やかさは消えて、開店前の仕入れにと店員と業者の車がまばらに行き交っているだけだった。

 新聞を積んだ原付が目の前を走り去って行った。

 ランチ営業をしている店からは美味しそうな香りが匂っている。

 能勢は、やきとり屋の前に撒かれた打ち水の水たまりを飛び越えて、自宅に向かって歩き出した。

 硬い床で寝たため、背中と肩がまだ張っている感じがして、肩甲骨あたりを何度か回す。

 途中でコンビニに立ち寄り、ミネラルウォーターと新聞の隣に置かれたバイト情報誌を若干の迷いと共に購入した。


 帰宅してすぐに、煙草の匂いのついた服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びた。適当なTシャツと短パンに着替え、髪の乾くのも待たずにベッドの横になる。

 先ほど買ったバイト情報誌を横になったままパラパラとめくってみた。

 『初心者大歓迎』『週三日から』『短期間で稼げます』

 夢のような言葉が踊っていて、なんとなく気持ち悪い感じがした。

 能勢はすぐに情報誌を見るのをやめた。 

 さっきまでの高揚した気持ちはどこかへ行ってしまった。

 何がしたくて、大学を辞めて、何がしたくてここにいるんだろう。ずっと考え続けている問いが能勢の頭の中をぐるぐると回り始める。

「私はちぃちゃんに会いたくて」

 それで大学を辞めたの?

「私はちぃちゃんに会いたくて」

 ここに居続けているの?

 大学を辞めたってちぃちゃんには会えないし、ここに居続けたってちぃちゃんは戻ってこないだろう。

 違うそうじゃない。

 大学を辞めたのは、ここにいるのは、

「何にもない。どうしよう」

 天井に向けた言葉はどこにも届かずに消えていく。

 能勢は全部どうでもよくなって目を瞑る。グラグラと頭が揺れるような錯覚に浸りながら、眠りの沼に沈んでいく。

 ちぃちゃんとの思い出を、今日は夢に見るのだろうか。

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