第9話 凪の空間

 田中は、bar梟から歩いて二十分ほどのビジネス街に働いている会社があると言った。

「吹けば飛ぶような零細企業をやっています」

 田中は、自嘲気味にそう言うと、ウイスキーを一口飲み、ゆっくりと口の中で味わってから嚥下した。

「この人こんなこと言っているけどさ、実は社長なんだよ」

 燐さんが、田中からもらったウイスキーを水割りでチビチビと飲みながら言った。

「え、社長なんですか?」

「いや、そんなたいしたことないんですよ。燐さんも勘弁してくださいよ」

 田中は困った顔をして、タバコを咥えると、燐にもらった、スナック澪と書かれたマッチを擦って火をつけた。

「田中さんの会社って、なんの会社なんですか?」

「出版社だよ」

 田中ではなく燐が澄まして答えた。

 田中は渋い表情をして、煙を吐き出した。

「小さな印刷屋ですよ。それよりも能勢さん」

 能勢の方を見て、田中は言った。

 もう会社の話題は終わりということなのだろう

「ウイスキーはどうですか?」

 田中は自分のウイスキーの瓶を指差して言った。

「お嫌いでなければ、一杯召し上がってください」

「え、いいんですか!遠慮せずにいただきます」

 燐はすぐにウイスキーのボトルを取ると

「飲み方はどうする?」

 能勢に割り方を聞いた。

「え、えーと、炭酸割りで」

 燐はカウンターの奥をごそごそ探り、能勢の前ではなく田中の前にウィルキンソンの瓶とグラスを置いた。

「そういうところは早いんですね」

 田中の言葉を燐は無視して、燐は丸椅子に座り澄ました顔でタバコをふかし始めた。

 田中が葉っぱの形をしたラベルが貼られたウイスキーの蓋を取ると濃厚な森の香りが香り始める。

 ボトルを傾けるとコップに琥珀色の液体が注がれ、光沢と粘性を帯びたウイスキーが、店内の照明を浴びてキラキラと輝いた。

 グラスに氷を入れて、ウィルキンソンをコップの八分目まで入れるとパチパチという 音がして、炭酸の泡が弾けた。

「もし濃かったら言ってください」

 田中はそう言って、そっと能勢の前に炭酸割りのグラスを置いた。

「ありがとうございます」

 能勢はお礼を言うとグラスを持ち一口飲む。明け方のまだ暗い森に漂う、なむせるような樹木の匂いが鼻腔を抜けて香った。

 ウイスキーをよく知らない能勢でも、このウイスキーがかなり上等なものであることはわかった。

「美味しいです。すごくいいお酒ですね」

「どうなんですかね。もらいものなんですけど、私は好きなのでここに持ってきたんですよ」

 そう言って田中は笑った。

 それからとりとめもない話を田中と燐の三人で話した。

 田中は三杯目のウイスキーを飲んだところで、左手の金の腕時計を見て、

「もう、いい時間ですね」

 そう言って、燐に空のグラスを返した。

「そろそろお暇します。燐さんお会計で」

「はい、はい」

 燐は、冷蔵庫の上から、田中の伝票を出した。

「あ、しまった。書くのを忘れていたよ。田中さん何杯飲んだ?」

「私は三杯ですよ。ちゃんとやってくださいよ。それから、能勢さんが炭酸割りで二杯、燐さんがロックで一杯、」

 田中が言ったことを燐は伝票に書き込むと、カウンターの下からそろばんを出して珠を弾いた。

「五千円だね」

 田中は五千円札を燐に渡しながら

「あと、燐さん、能勢さんの飲み代は私につけといてください。明後日にはまたくるので」

「え、田中さん、それは悪いですよ」

 能勢は椅子から立ち上がった。

 田中は、そんな能勢をもう一度座るように促す。

「まぁ、まぁ、お名前を忘れていたこともありますし、楽しかったのでいいんですよ」

「でも……」

「田中さんがそう言っているんだから、いいじゃないかい。おごる側にも見栄ってもんがあるんだからさ」

 燐が能勢に向かって、下手くそなウインクをした。

「それでしたら、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

「いえいえ、ではまた」

 田中は杖をカツカツとついて、店から出ていった。


 エレベーターが動く音が小さく聞こえ、燐はタバコの吸殻を片付け、カウンターを布巾で拭いた。

「平日に田中が来るときは、だいたい機嫌が悪いときさ」

 燐は田中と呼び捨てにしていたが、その声は田中にはもう届くはずもない。

「そんな風には見えなかったですけど」

「ふん、若い女の子に当たるほど馬鹿じゃないさ」

 燐さんは布巾でカウンターを拭くと、能勢の前に田中のウイスキーを置いた。

「奢りだってんだから、好きなだけ飲みな」

「キープボトルを飲むのは、さすがにちょっと」

 能勢は、鍛高譚の水割りを頼むと、お冷をチェイサーに少しずつ啜った。 

 携帯の時計を見ると、すでに日付が変わっていた。

 耳を澄ますと微かに外で騒ぐ人たちの叫び声が聞こえた。

「繁華街の真ん中なのに、ここだけ違う場所みたいですね」

「ん?それは嫌味かい」

 そういながら、燐はニヤニヤと愉快そうに笑った。

「平日なんてだいたいこんなもんさ。閑古鳥の大合唱。来たい奴だけくればいい。うるさい奴は好きじゃないのさ」

 燐は、冷蔵庫横から新聞を取り出すと、堂々と広げて読み始めた。


 能勢は、そんな燐を見ながら、遥か彼方から聞こえるような喧騒をBGMに焼酎を継ぎ足した水割りを飲んだ。ずっとこんな時が続けばいいのに。

 都会から切り取られた世界。

 強要されることも急がされることもない、強風の中にぽっかりとできた凪の空間。

 能勢は指でグラスの中の氷をかき混ぜた。コロコロと楽しいそうな音をたてた。

 明日なんか来なければいい。

 そう思いながら目とつぶると、悲しい現実がぼやけていく気がした。

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