第8話 ber梟
路地を歩いていくと小学校にぶつかるので、そこを右に進むと幹線道路に抜ける。
どこかの家から煮魚の匂いが漂ってきた。
その瞬間にそういえば朝から何も食べてなかったということを思い出し、端能勢のお腹がなった。
何か食べないと思い、途中のコンビニに立ち寄って一割引の肉まんを買った。
一口食べると、溢れ出す肉汁が口の中を満たし、頭の奥にある絡まった思考がほぐれていくような気がした。
能勢は少しだけ元気になって、幹線道路に沿って北に向かって歩いた。
誰もいない公園、暗渠から顔を覗かせる川、息を潜める集合住宅。
ひっそりとした路地裏を抜けると、遠くに赤いネオンの明りが見えた。
夜虫のように能勢はネオンの光に向かって進んでいく。
気づくと煌々とした居酒屋の看板が現れ、人々のざわめきが聞こえてきた。
大きな提灯を掲げたお店からは演歌が流れ、焼き物の香ばしい匂いが周囲に漂っている。
声を張る客引きに、笑いと怒号、注文の掛け声、タバコの煙とアルコールの匂い。
たくさんの音と香りに包まれた大きな繁華街がそこにあった。
スーツ姿の男性たちが大きな声で話しながら、能勢の隣を通り過ぎて行った。
能勢は、繁華街の中心へと人を避けながら歩いていく。
人の密度は次第に増え、一際人の多いスクランブル交差点の手前で、能勢は細い路地へと曲がった。
表通りとは違い、細い路地の両脇に古い雑居ビルが立ち並んでいる。
能勢は黄色い外装の雑居ビルの前で立ち止まった。
入り口には海鮮居酒屋、ライブバー、スナックなど色々な看板が主張激しく、歩道にはみ出して置かれている。
ところどころ塗装も剥げた古びたビルは、華やかな繁華街の中に埋もれてしまっているようだった。
能勢は、そのビルの重たい鉄の扉を押して建物の中に入り、正面に設置されている今にも壊れそうな古いレベーターに乗りこむ。
二階のボタンを押すと、ガタガタと不安な音を立てて、エレベーターはゆっくりと上昇していく。
夜景とも言えない居酒屋と風俗店のネオンが、エレベーターの半面ガラス張りの壁から一瞬見えて、すぐに見えなくなった。
目的の階に着くと軋むような音を立てて、ドアが開いた。
能勢はエレベーターから降りて、右側の短い廊下の奥にある木のドアをノックした。
ドアには立派な金色のドアノブが付いていたが、長い月日によって手が触れる部分だけが銀色にハゲていた。
目線の高さぐらいの位置に「bar梟」と書かれた金のプレートが取り付けられている。
ノックしたドアの向こうからの返答はなかったが、能勢は金のドアノブを回して、中に入った。
「こんばんわー」
ゆっくりとドアを開けると、外の鮮やかな電飾とは違う、暖色の間接照明がドアの隙間から廊下に漏れる。
barというよりも、寂れたスナックのような店内は、全体が薄暗く入り口正面にある小さなカウンターテーブルだけがオレンジの照明を受けてぼんやりと光っていた。
「こんばんは、燐(りん)さんいます?」
能勢がドアから半分体を店の中に入れながら、呼びかけると、ごそごそという音が聞こえてきた。
「はいはい、誰ですかー?」
カウンター奥から声がして暖簾で仕切られた厨房から、白髪混じりの髪を後ろで一つ束ねた初老の女性が出てきた。
丈の短い割烹着のようなスモックを着ている。
「燐さんいるなら最初から出てきてよ」
能勢はホッとして、店に入ると、カウンターの背の高い椅子に座った。
「今日は休みなのかと思って焦ったよ」
「やっていても休んでいるようなもんだけどね」
燐は愉快そうに笑った。
その言葉通り、店内には能勢以外にお客は誰もいなかった。
「それにしても、久しぶりじゃないかい」
そう言いながら燐は濡れていたであろう、手をタオルで拭きて、カウンターの中の丸椅子に座った
能勢は燐の言葉に頷いてから、カウンターの隅に無造作に積んであるメニューを捲った。
「ちょっと、いろいろあってね。とりあえず、エビス。瓶で」
「はいよ」
燐は能勢の前に冷えたグラスを置くと、カウンターの横の冷蔵庫から、エビスの小瓶を出して栓を抜いた。
しゅぽっという音が空っぽの店内に響く。
「人生色々。まぁ、ゆっくりしていきな」
燐はそう言いながら能勢のグラスにビールを注いだ。
トクッ、トクッと音を立てて黄金の液体が注がれ、最後に純白の泡がはじけながらグラスの上部を覆う。
照明の光にグラスが輝いて見えた。
能勢は、グラスも持つと一気にビールを飲み干した。
喉を流れる爽快感と程よい苦味が身体中に染み渡る。
「くーうまい!私生きてんなー」
「大げさなんだよ」
燐が笑いながら、カウンター内の椅子に座り、赤い箱のタバコに火をつけ吸い始めた。
白い煙はエスニックな匂いをさせ、ゆっくりと空中を登っていき、天井にぶつかるとしばらく辺りを漂い消えていった。
揺蕩う煙を見つめていると自然と心が落ちついてくる気がする、
能勢は燐とたわいもない話をしながら、手酌でビールをグラスについでいく。
気づくと瓶は一本空になっていた。
最近お酒を飲んでいなかったせいか、すでにアルコールがすでに体内に回り始めている。
理性のネジが緩み、感情のままに言葉を押し出していた。
「燐さん、私ね、実は大学辞めたんだ」
能勢は、燐をまっすぐに見つめて言った。
「無職になったの。もう何にもないんだ」
燐は、煙草をふかしながら、能勢の視線を受け止める。
繁華街の真ん中でここだけが異世界のようだった。
時間も音もこの空間を侵食することができない。
そんな気がした。
「そうかい、そうかい。まぁ、そういうこともあるわな」
燐は、そう言って棚から勝手に焼酎を出して、飲みはじめた。
「でも、それだけが人生じゃないよ。大丈夫さ、私なんて高校もろくに行ってないだから。なんとなるよ」
能勢を見つめた目の奥が優しく笑っていた。
目の奥が熱くなり泣きそうになって、能勢は燐から目をそらした。
「ビールもう一本ちょうだい」
「あいよ」
燐は、タバコを灰皿に押し付けて消すと、ビールを冷蔵庫から出して、能勢の前に置いた。
よく冷えたビール瓶が、白く曇った。
今この瞬間が何故か世界で一番幸せな気がした。
「燐さんありがとう。なんか元気出てきた」
「そうかい。なら良かったよ」
燐さんは笑うと、新しいタバコに火をつけた。
ビールを三瓶開けて、ハイボールを飲み始めたとき、お店のドアがギギっと音を立てて開いた。
その瞬間、繁華街に溢れるたくさんの音が静かな店内に放流のように流れ込んでくる。
「こんばんは」
向かいのビルの電飾の光を纏い、グレーのダブルスーツを着た老紳士が杖を持って立っていた。
低く響いた声は、どの音とも交わらずに、能勢はその声をしっかりと聞き取ることができた。
「今日は、休業日でしたか?」
老紳士は、中折れ帽子に手を当てて聞いた。
「あー、こんばんは、田中さん。いやいや、客がいないだけで今日もやっているよ」
燐さんは笑いながら、カウンターの奥の席を指差した。
「どうぞ、飲んでってくださいな」
田中は小さく会釈をすると杖をつきながら、店に入り、後ろ手でドアを閉めた。
パタンとドアが閉まる音と同時に静寂が空間を包んだ。
田中は右足を少し引きずるようにして歩くと、カウンター奥の席で、中折れ帽をカウンターに置いて座った。
「何飲むかい?」
「いつものウイスキーを、ロックで」
「はいはい」
燐はカウンター横にある木の棚から、大きな葉っぱ型のラベルが貼られたボトルを取ると、氷を入れたウイスキーグラスに注いだ。
ふっと、森林のような匂いが香る。
田中はその間にポケットから、赤いセブンスターのタバコを取り出して、おいしそうに吸っている。
「このタバコは限定なんだけどね、買い込んでいた会長が、これ以上置いといても不味くなるってくれたんですよ」
誰に向けてでもなく、田中は一人で喋りながら、白い煙を吐き出した。
「あのー、田中さん」
能勢は、一席向こうに座っている田中に、身を乗り出すようにして話しかけた。
田中はちらっと能勢を見て不思議そうな顔をした。
「私のこと覚えていませんか?」
「どこかでお会いした方でしたか」
田中は驚いて、考えるように自身の顎を撫でながら目を閉じた。
しばらくそうしていたが、結局何も思い出せなかったようで、申し訳なさそうに能勢に頭を下げた。
「いやー申し訳ありません。歳をとると、なんでもすぐに忘れてしまいまして。失礼ながらお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「能勢と言います。能勢みなみです」
田中は、また何かを思い出そうと、左斜め上の空間をじっと見つめた。
「あ、いや、そんなきちんと話した話をしたわけではないので、覚えていないのも無理はないと思います。そのとき結構酔っていたし、こちらこそ急にすみません」
能勢は考え始めた田中を止めた。
「本当に申し訳ない。今日はきちんと覚えていきますので、能勢ななみさんですね」
田中は、ウイスキーのグラスを能勢の方に出して、乾杯の仕草をした。
能勢は慌てて、ハイボールのジョッキを持つと田中のグラスに軽く当て、乾杯をした。
そんな二人をカウンター越しに見て、燐は笑った。
「まぁ、仕方ないね。酔っていたらなんでも忘れるさ」
田中苦笑いして、頭をかいた
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