第6話 自宅
「黄色い線の内側までお下がりください」
プラットホームに駅員のアナウンスが響く。
すぐに橙色のラインが塗装された電車が風と一緒に滑り込んで来て、乗車口の印に合わせてピタリと止まった。
数名のお客さんが降りるのを待って、能勢は電車に乗り込んだ。
「ご乗車頂き、誠にありがとうございます」
ゆったりとした車内アナウンスが流れたかと思うと電車はすぐに加速し、大学の最寄駅から遠ざかっていく。
窓から入り込む陽の光に電車内はぽかぽかと温かく心地よい。
まるでずっと夢見ていたような気持ちになる。
能勢は出入り口に近い席座り、外の景色を見つめた。
車窓にはしばらくコンクリートのブロック壁が続いていたが、急に視界が開けた。
スクランブル交差点が見え、多くの人が歩いている。
スーツ姿の男性が早足に通り過ぎ、旅行者らしき外国人が大きなトランクをひきずりながら笑っている。
その間を縫うように、四角いバックパックを背負った自転車が駆け抜け、飲料水メーカーのトラックからは配送員が自販機に缶ジュースを補給している。
みんな何かしらの役割を持ち、今この場所に存在している。
大学を辞めて、学生の肩書きがなくなったことへの不安が強くなる。
どこにも所属せず、少しの風で何処かへ飛んで行ってしまいそうな、自分のことが能勢は怖くなった。
深く息を吐くと、窓ガラスが白く曇った。
これから何をすればいいのだろう。
各駅停車をしながら、数時間前に能勢が乗り込んだ、自宅の最寄りの駅に到着した。
ドアが開くと、強い風が車内の暖気を押し出すようにして吹き込んでくる。
暴れる髪を抑えながら能勢は電車を降り、自宅に向かってとぼとぼと歩きはじめた。
道のあちこちにあった水溜りは、半分ぐらいの大きさになって、干上がって消えてしまったものもあった。
足元の赤いレインブーツは、そんな街に不釣り合いで寂しい。
能勢は、電線の間から見える狭い空を見上げた。
透き通るような青い空。飛行機が白線を描き飛んでいる。
これからどうすればいいのだろう。
どこに行けばいいのだろう。
漠然とした不安に手が震えた。
まっすぐ家に帰えるのが怖くなって、普段はあまり通らない住宅地と寺院の間の狭い道を選び、遠回りをすることにした。
急勾配の階段を転ばないように階段の中央に設置された手すりを握りながらゆっくりと降りていく。
住宅地からは、夕飯の揚げ物や焼き魚の匂いがした。
家の窓からは、シャンプーの匂いが香ってくる。
階段を下った先で、どこからかピアノの音が聞こえてきた。
拙く、途切れ途切れのメロディーは何を弾いているかわからなかったが、その音を聞いているとなぜか少しだけ悲しみが薄れるような気がした。
能勢は元気を取り戻して、自宅に向かって続く道をまっすぐ進んだ。
しばらく歩くと目の前にコンクリート打ちっ放しの四階建てのマンションが見えてきた。
父が、バブル期に購入した中古の四階建てマンション。
マンションと呼ぶには少々見劣りはするが、元々は個人向けの貸事務所だったものを、改装をして賃貸住宅にしたものだった。
しかし、入居する住人が毎回トラブルを起こしたため、今は、企業向けの貸し倉庫、貸し事務所として使われている。
そのうちの空いている一室を能勢は住居として使っていた。
玄関のタッチパネルで暗証番号を入力すると、カチッという音がしてドアが開いた。
無駄にオートロックで防犯が整っている。
エントランス正面には小さなエレベーターが備え付けてあって、三の数字を押すと静かに上昇しいていく。
三階に着いたエレベーターから降り、左に曲がった先の角部屋が能勢の住居だった。
能勢はドアの鍵を開け、玄関でレインブーツを脱いで靴箱にしまった。
短い廊下の途中にトイレとお風呂。
突き当たりのすりガラスのスライドドアを開けると、寝室とリビングを兼ねた少し大きめの部屋がある。
二つ部屋の大きな窓があり、側面の窓のない方の壁には、貸事倉庫に使っていた時の名残で大きな業務用のメタルラックが部屋を圧迫するように設置されていた。
部屋の奥には隠れるように小さなキッチンがあるが、ガスコンロはなく、IHの簡易的なクッキングヒーターが設置され、隣には中型の冷蔵庫とその上に鎮座する電子レンジ。
部屋は窓から太陽の光を取り込んで緩く温まっていた。
能勢は上着を床に脱ぎ落として、掛け布団が足元の方に丸まったままのベッドに倒れこむ。
小さな埃が空中に舞った。
起きた時と変わらない天井。
変わったのは、能勢自身の肩書きと心情だけ。
能勢は足元の布団を頭まですっぽりと被り、膝を抱えて丸くなった。
このまま熊のように冬眠してしまいたかった。
寝続けたら、何もかもが新しくなっている。
そんな絵空事を考えながら、能勢はいつの間にか寝落ちてしまっていた。
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