第3話 部室棟
それなのになんでだろう?
本館から出ると、能勢は大きく息を吐き出した。
澪が心配してくれたことの嬉しさと誰かの期待に応えられなかったことへの自己嫌悪が渦巻いている。
能勢は小さく舌打ちをしてから歩きだした。
退学届を出した今、学校にいる理由はなかったが、胸の奥につかえた不快感を消したくて意味もなく大学構内を歩き回った。
実験室や研究室が集まる東館、数回しか来たことにない西館、カフェテリア、購買、中庭……。
知り合いに鉢合わせして、あれこれ事情を聞かれるのは面倒なので、講義棟は迂回して、図書館、資料室、温室と今まで行ったことのない施設を見て回った。
少しずつ胸の不快感は消え、代わりに懐古心のような気持ちが湧き上がって来る。
最後の思い出にサークルの部室に行こうと思った。
部室は大学の中心施設から少し離れたところに建てられていた。部室棟とも呼ばれる旧校舎の中にあった。
元々は講義棟だったらしいが、長年の雨風で、外装にはヒビが走り、いつ作られたのかわからない手作りの「第一学習校舎(部室棟)」と書かれた看板はペンキが剥がれ落ちていたが、それを直そうとする殊勝な学生なんて誰もいなかった。
能勢は、部室棟の正面玄関ではなく右端にある通用口に回り込んだ。
通用口には「関係者以外立ち入り禁止」と描かれた札が、ドアに貼られている。
能勢は、構わずドアを開けて中に入ると、右手側から伸びる階段を登った。
部室棟の中はしんと静まり返っていて、能勢が階段を上がる度にペタペタと言う靴音だけが壁に反響して大きく鳴っている。
窓から入る陽射しは、周囲に生えている木々に邪魔されて、建物の中に淡く差し込むばかりだった。
そのため部室棟全体が薄暗く沈んでいるようだった。
いつきても陰気臭くなる建物だ。
能勢は二階分の階段を上がりきり、正面の扉を開けた。
どういう作りになっているのかは詳しくは知らないが、開けた先は直接部室につながっていた。
左手の大きな黒板には音響研究部という飾り文字が書かれていて、すぐ横のメタルラックにはミキサーやアンプ、様々なエフェクトやコード類が置かれて、その周りに大小様々なスピーカーが山積みになっている。
能勢はドアをそっと閉めて、黒板の向かいにある革張りのソファー(先輩が卒業時に放置していった)に座った。
ぎしっと少しソファーは軋んで、能勢の重みに合わせてクッションが沈んだ。
音響研究部と名前だけは厳ついが、内情は軽音と学祭実行委員を足して二で割ったような、よくわからないゆるい音楽系のサークルだった。
大学でのイベントのステージ設営と音響、新入生歓迎会の放送、学校説明会でのパフォーマンス披露などの学校の行事を担当していたかと思うと市内祭りの音響、軽音サークルの手伝い、ライブハウスのヘルプなどにも駆り出されていた。
ただその活動に能勢がしっかりと参加したのは半年ぐらいで、それ以外は音響の勉強と称してサークルのメンバーでライブを見にいくことがメインになっていた。だから音響機材の使い方には一切詳しくならなかった。
能勢はソファーに体を預け、天井を見上げた。白く塗られた天井には雨漏りをした跡があり、黒くシミになっていた。じっと見つめていると、黒いシミは人の顔に見えてくる気がして、能勢は慌てて目線をそらした。
そらした先に壁がけのカレンダーがあった。
カレンダーの第一金曜日に大きな赤い丸が付けられ、「課外勉強」と書かれている。部員が独断と偏見で選んだ音響の勉強と称してライブを見に行く日だ。
どのライブに行きたいかは、月初めのサークルの集まりで決められていた。
数人が行きたいライブを選出して、そのあとサークル内全員の多数決よって決まる。と言っても、まずきちんと出席してくるサークルメンバー自体が少なかった。
もしかしたら、あの日のカレンダーにも、大きな赤丸がついいていたのかもしれないと。
能勢は1年前を思い出した。
入学したての夢に溢れていた一年生の春の日。
先輩の無料でライブが観られるという言葉につられて能勢はインディーズバンドのライブを見に行った。
あの日のライブは学生が主体となった合同ライブで、バンドはただうるさいだけで、面白くもなんともなかった。
一緒に来ていたはずの先輩も途中からいなくなり、能勢はぼんやりとステージを眺めていた。
今思えば、出演していたバンドに先輩の彼氏がいて、ライブ動員の一人として連れて来られただけだったのだろう。でも私にとっては、あの日は大切な日だった。
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