第2話 大学
去年の四月。苦しかった受験勉強を乗り越えて合格した大学の通学路には、満開の桜が咲いていた。
高鳴る胸を押さえ、祖父母に買ってもらった新品のリクルートスーツに身を包んで、能勢はまるで雲の上を歩いているような、落ち着かない気持ちで通学路を歩いていた。周りには同じように慣れないスーツを着た、嬉しそうでどこか緊張した面持ちの新入生たちがいた。
しかし今、同じ大学への道を憂鬱な足取りで歩いている。
周りには大学生と思われるジャージ姿の男子が一人、欠伸をしながら歩いているだけだった。
夢や希望に溢れた輝かしい未来なんてもうどこにもないのだった。
能勢は車止めで仕切られている路地から大学構内に入り、目的の大学の本館へ向かった。
高台に建てられた本館までは緩やかな坂道が続き、坂の途中からは講義棟が見えた。
今まさにその中では、講義が行われていて、もしどこかで未来が変わっていたなら、能勢自身もその講義棟の中で面白くもない教授の話を聞いていただろう。
悲しい気持ちになって、能勢は講義棟から目をそらし、足元だけを見つめて坂道を登った。
たどり着いた本館は、飾り気のない真っ白な壁の建物で、まるで病院のようだと来るたびに思う。正面のガラス扉を押して能勢は中に入った。
外見同様の白い室内には、壁から長い受付カウンターが伸びで、三十人ほどのスーツ姿の職員が働いていた。
職員の机は六席前後がまとまって設置されていて、その集まりごとに「教務課」「学生課」「課外活動課」と部署の名前が書かれたプレートが天井からぶら下がっている。
高校の職員室に入る時のような、妙な緊張感が漂っていて、能勢はこの空間が苦手だった。
それでも今日はどうしてもやらなくてはいけないことがある。
能勢はぐっと手に力をいれて握ると、目的の部署に向かって進んだ。
学生の各種申請書類を扱うその部署は、「学生課」と書かれたプレートがつけられて、本館の一番奥に一番大きなスペースが設けられていた。
能勢はカウンター越しに職員に声をかけた。
「あの、すみません」
能勢の声に手前に座っていた二十代の女性がすぐに気づいて、近づいてきた。
「あー能勢ちゃん!よかったー。遅いよ。もう来ないのかと思っていた。で、どうなりそう?」
友達のようなフランクな口調の女性の声を聞いて、能勢はやっと、息ができるようになった気がして、ホッとした。
「澪ちゃん、ごめんね。やっぱり辞めることにした」
湧き上がって来る罪悪を押し殺し、能勢は女性職員にそう伝えた。澪ちゃんと呼ばれた女性は綺麗に描かれ眉尻を下げ、悲しそうな顔をした。
「そっか、決めたんだね。さみしいな。でも能勢ちゃんが自分で決めたことなんだもんね」
そういって無理やり微笑みながら、カウンターの下の棚から一枚の紙を能勢の前に置いた。紙の上部に「退学・休学について」とタイトルが大きな文字で書かれていて、必要な書類や注意点などがかかれている。
その中に「退学する前にもう一度よく考えてください」と言う文章が、太文字に波線付きで書かれていて、能勢は胸の奥が疼くような気がした。
「前にも渡したかもしれないけど、時間はまだあるからもう一度考えてみてもいいかなとは思うよ。それでももし退学したいときには、後期の授業が始まる前にこの書類に保護者の方のサインと判子を押して持ってきて。もしかしたらその前に担当教官との簡単な面談もあると思うかもしれないけど」
そこまで言って澪は言葉を切り、苦しそうに言った。
「本当にいいの?」
澪は能勢を覗き込むように首を傾げる。
綺麗に刈り揃えられたボブカットが、その首の動きにつられて揺れた。
あ、髪染め直したのだと、本館の天窓から注ぐ陽の光に反射するダークブラウンの髪を見つめながら能勢は思った。
「うん。もう決めたから」
そう言った瞬間、心の疼きが強くなった気がして、なぜか泣きそうになった。
「実はもう両親にも教授にも、退学の話をして書類もサインもらってきたから」
肩掛けの小さなバッグから、透明のクリアケースに入った紙を取り出して、澪の前に差し出した。
藁半紙に印字された書類が一枚だけ。氏名が記載され、赤々とした判子が押されている。
その書類を白いカウンターの上に置くと、藁半紙のねずみ色がよりくすんで見えて、心細い気持ちになった。
こんな一枚の紙切れが、悩み抜いた結果なのか。
能勢はちっぽけな自分の存在を改めて突きつけられる気がして、悲しくなった。
この紙切れのために両親と大喧嘩し、いい加減にしろといつも優しい父親が電話口で怒鳴るのを聞いた。逆に教授は淡々としていて、最近の若い者は我慢がないねと呆れられ、いい教授だと思っていた分、酷く傷ついた。
「本当に決めちゃったんだね」
悲しそうに澪はそう言って、能勢が持ってきた書類を受け取った。
「あとで、最後の意思確認で実家に電話がいくとは思うけど、そのあとでこの書類が受理されれば、それで終わり。一応、今期分の学費は貰っているから、後半の半年分は返却になると思う。能勢ちゃんにも手続きが終わったら連絡するね」
澪は書類の入っていたファイルを能勢に返した。
「でも、もし気持ちが変わったらすぐに連絡して。ギリギリまでなんとかするから。それと寂しくなった時も、いつでも連絡して、大学にも遊びに来てね」
澪はぎゅっと能勢の手を握った。
「これからも友達でいてね」
「当たり前だよ。澪は大げさ」
能勢は笑いながら澪の手をぎゅっと握り返した。
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