第17話『剣の極地』

 付喪神紫雲は、その日名刀『雨切』に宿り、それと同時に『雨切』は妖刀に成った。

 そこに至るまで約百年、既に長い時が経っていた。

 ゆえに紫雲は己を作り出した刀鍛治も、妖刀以前の使い手も知らない。

 だが、妖刀となって初めて『雨切』を握った人物なら記憶に深く刻まれている。


 最初で最後の、『雨切』の使い手のことを。


「この刀、妖刀ですよ。あまり近寄らないでください」と、一人の男。


 和風な服装で、頭には笠をかぶっている。腰には刀を携えて、いわゆる武士というものであった。


「ほぅ?妖刀、妖刀ねぇ……いいじゃないか。私に見せてみなさい」


 そう言って、少しいい着物を着ているもう一人の男が『雨切』を手に取った。


「……ふむ。特に禍々しい気配はないな。それよりも、非常に軽いぞこの刀。まるで羽毛のようだ。もつか?」

「いえ……遠慮させていただきます」


 顔を引き攣らせながら、一人の男が一歩下がる。店の中に置いてあった小物に当たって、がちゃんと音が鳴った。


「だが、妖刀というのに何もないというのは妙な話だな。おぅい、店主さんや。少しこの刀を試したいのだが、いいかね?」


 そう身振りの良い男が聞くと店主は承諾した。外にちょうどいい太さの木がたくさんあるから、それで試すといいということなので、男は外に出て刀を振ってみることにする。

 しかし、結果は意外なものだった。


「ぬ?全く斬れないな、この刀」

「……珍しい妖刀ですね。使用者の寿命が短くなる代わりに、切れ味がとてつもない刀、なんてのは聞いたことがありますけど」

「逆に斬れない妖刀か。うぅむ、そんな刀があるのか?」

「実際、ここにあるじゃないですか」


 そんな話を道端でしていると、小雨が降ってきた。


「雨、降ってきましたよ。雲行きも怪しかったですしね。中に戻りましょう」

「そうだな」


 そう言うと、刀を鞘にしまって店に戻った。

 店主に刀のことを聞くと、どんな人が使ってもなまくらになる妖刀、とのことだった。そう聞いて、身振りの良い男はじっと刀を見つめる。


「気になるなら、譲るよ。ウチに置いていても誰も買わねぇからな。持ってけ持ってけ」


 そう言うことなので、ありがたく刀を頂戴することにした。


「……でも、そんなもの、どうするんですか。何も斬れない妖刀だなんて」

「いいや斬れるさ。私の勘がそう言ってる」

「先生の勘って、当たりましたっけ?」

「……今回が初めて当たる」

「……そうですか」


 雨脚が強まる中、二人は最寄りの宿に向かって走っていた。


「待て、いい羽織を着ているそこの男」

「む?」


 振り返ると、そこには小柄な、少女のような人がいた。長い銀髪に彩度の低い着物と草色の羽織。迷った子供かと思った。


「その刀、振るうてみい。斬るものがないと言うのなら、わしが相手になろう」

「……私は子供を斬る趣味はない。馬鹿なことは言ってないで帰りなさい」

「わしはお前らよりも年上じゃよ」


 そう言うと、そいつは傍に立つもう一人の男に接近する。


「悪いが、ちと借りるぞ」


 そう囁くと、腰から刀を抜き取った。


「……!この子供……!」

「ほれほれ、返してほしくばわしとやり合え。もちろん、そのなまくらを使うてな」

「はぁ……わかったよ。だが一回だけだ。それで返すんだ」

「了解した」


 互いに刀を構える。ほんのわずかでも動いたのなら、激しい剣戟が繰り広げられるだろう緊張感。

 その戦いの合図となったのは、雨が強まり雨音が強くなったその瞬間だった。


 甲高い音が響く。互いの刀が衝突して、鋼が響く。


「なっ……何っ!?」


 そう驚いたのは、後ろで見ていた男だ。驚くのも無理はないだろう。

 だって、目の前にあるのは——


「やはり、この刀は……」

「おやおや、わしの負けかのう?」


“子供のもつ刀を両断した、なまくらがそこにはあった“。


「け、けれど一体なぜ!?さっきは木の枝一本へし折ることもできなかったのに!!」

「まさか、雨か? さっきまでまるで斬れる気がしなかったのに、雨脚が強まった瞬間、絶対に斬れると言う確信が湧いてきた……この妖刀、まさか……」


 そう男たちが呟いていると、先ほどまでいたはずの子供が消えていることに気がついた。


「いつの間に……」

「なんだったんでしょうかね。あの子供は」


 その日は、それっきり何もせず、宿でゆっくりと休むことにした。

 そして翌日、また強い雨が降り、男たちは宿から出れずじまいでいた。


「先生ぃ! どうしたんですか急に!」

「いやぁ……ちょっと、試し斬りを……」

「だからってこんな雨の中!?」

「雨だから、かな。私にもよくわからないんだ。無性に刀を振るいたくてたまらない」

「まるで狂人じゃないですか!!」


 ——と言うわけもなく、雨の中を突っ走っていた。しばらく走って森の中で足を止めたかと思うと、すぐさまなまくらを引き抜く。

 構えて、大きく横なぎ一太刀。それだけで、大木を両断してみせた。


「……なんです、その刀。やっぱりおかしくないですか?」

「やはり、雨の時だけ切れ味が異常に増すらしいな。ならば、この刀には『雨切』という名が妥当だろう。店主も名がわからないと言っていたことだし、私が付けてしまっても構わないだろうしな」


 それが、初めてその妖刀に『雨切』と言う名がついた瞬間だった。

 それからと言うもの、その男は雨が降るたびに森に向かって、刀の素振りをしている。何度も何度も何度も、特に木を斬るというわけでもなく、素振りをしているだけだった。


「先生、いつまで素振りしてるんですか」

「ん、素振りじゃないぞ。ちゃんと斬ってる。それに、私はこの刀を“完成“させたいんだ。だから、まだこいつを振り続ける」

「………?」


 その言葉の真意がわからず、首を傾げることしかできなかった。

 それから数年、男は雨が降るたびに森で刀を振り続けた。雨が降れば外に行き、止んだら帰って火にあたる。そんな生活を続けていた。教え子の男は、気が障ったのかと心配になったが、本人はいたって正常で正気だとのことだった。見ていても、雨の日に刀を降る以外はさして普通だったのであまり気にしなかった。


「先生、今日も素振りですか」

「だから素振りじゃないと言っているだろう」

「じゃあ何を斬っているんです?」

「雨だよ」


 そう、男が返した。


「今なら、雨を斬れる。私にはわかるんだ。この刀が雨の時だけ切れ味が増すのは、雨を斬るための刀に決まっている。そんな予感もする」

「先生の勘って、当たりましたっけ」

「一度当てたろう」


 そう言って刀をみせた。


「……そうですね。なら、本当に斬れるのでしょうか」

「あぁ斬れる。なんせ、この剣術はもう完成間近だ」

「剣術?」

「あぁ、見ていろ。私が編み出した『雨切』に許された剣術。この軽さと切れ味に許された神業を」


 体の正面に刀を構える。両手でしっかりと握り込んで、静かに息を吸う。

 雨音だけが、あたりに響く。


「剣術——」


 ◆◆◆


「——“霞時雨一刀流“」


 そう呟いた紫雲の手にある雨切は、音を発さずに動く。

 切っ先が滑り、その空間にあるすべての雨粒に剣戟が放たれる。

 一瞬かつ静謐。芸術の域にまで達する自然に溶け込み、自然を断ち切る剣技。


 ——ほんの数秒、雨が止んだ。


 あまりに密度の高い斬撃。あまりに速い太刀。あまりに静かな剣戟。

 雨は、斬られたことにすら気付けない。


「——『滝落とし』」


 リッチーの放った魔術全てが消滅する。

 妖力なんて使っていない、異常な魔力もない。ただただ、剣術のみで魔術を斬った。

“雨を斬る“——斬れぬものを断ち切る神業が、魔術に勝った。

 その技が終了するまで一秒未満。激しい斬撃が空間を切り刻んだにも関わらず、空気を切る音一つ聞こえない。

 あまりに静謐。雨を霞にまで切り刻み、その霞すら斬ることで雨を消し、時雨のごとく一時的に雨を止ませる。それが、“霞時雨一刀流“だった。


『…………は?一体、何が』

「初代妖刀雨切を持った人間の編み出した剣術よ。森羅万象を斬り伏せる、自然に理を見出す技じゃ」

『馬鹿を言うな……ただの剣術で、魔術を斬る道理がどこにある!!』

「魔術も、自然の一種じゃろう」


 静かに、しかし圧倒的な雰囲気を纏って紫雲はリッチーを見据える。


「魔力は、今やこの世界に満ち溢れている。そしてやがて人間にそれは宿り、“自然界で限りなく起こり得ない現象を再現したのが魔術じゃろう“。あくまで可能性が果てしなく低いと言うだけで、魔力の満ちた自然界で起こりえる現象を扱うのが魔術じゃからな。この剣術の解釈の範疇よ」

『そんな話、聞いたこともないぞ……!』

「それはもう、生きている年が違うからとしか言いようがないな。わしは魔力のない世界に生まれ、魔力の起源から魔術の成立。魔術界の歴史全てを見てきた。文献にもない事柄も、わしならこの目で捉えておる」


 根本的な知識の差でさえも、紫雲が上回っている。

 もはや、リッチーには目の前の存在がただの妖力を使い果たした妖怪とは思えなかった。むしろ、最初よりもずっと恐ろしい、化け物にしか見えない。


「霞時雨一刀流——」

『っ……!最上位合成魔術——』


 同時に技を放とうとする。しかし、着弾に差が生まれる。


『——『白炎撃……』

「——『雷雨』」


 紫雲の方が、早かった。音速の居合術。雷ごと雨を斬り伏せる。それが『雷雨』。例え相手がリッチーだろうと、詠唱中だろうと超高速で斬りかかる技。リッチーには、視認することすらできなかった。


『ぐっ……上位合成魔術——『隠者の口寄せ』!』


 そう言って、リッチーは互いにその魔術を発動する。リッチー自身は距離を取るために、紫雲には、空中に浮かせるために。一度やってみせたように、空中では紫雲といえど満足に刀を振るうことはできない。


『最上位魔術同時展開——『聖者の弓』『愚者の矢』!』


 鋭い閃光と共に、無数の弾幕が展開される。空中に放り出された紫雲には、その魔術たちに対抗する術はない。仮に霞時雨一刀流という剣術を持ってしても、地面がないのではあの静謐な剣戟を繰り出せない。それが、リッチーの見立てだ。


「霞時雨一刀流——『村雨』」


 すべての魔術が消失する。もはや何が起こったのか理解するのも難しいほどの高速の剣。“予備動作から動作の終了までの全てを省略した“技、『村雨』。その、一瞬だけ降る雨を断ち切るため編み出された剣技は、例え紫雲が頭から地面に向かって落下している状況でも絶大な効果を放った。


『クソ……ならば、これだ……!』


 そう言って展開する魔法陣は、かなり単調な模様だった。

 しかし、オルタには何か心当たりがあるようで、小さく絶叫する。


「あの魔術は……!」

『合成魔術——『模倣』』


 そう言いながら、リッチーが手に握っているのは“氷の剣“。魔術で作ったもののようだ。


『“霞時雨一刀流“——』

「霞時雨一刀流——」


 互いに、技を放つ。


『「——『滝落とし』」』


 結果は完全相殺。リッチーが使用した魔術、『模倣』によって紫雲の動きを予測し、トレース。そして放たれた“模倣された霞時雨一刀流“によって、氷の剣と紫雲のもつレヴィの剣が激しく衝突する。

 無論、同じ動きをしているのだから、すべての剣戟がぶつかり合って止まる。

『模倣』は、魔術師相手に使った所で、ただただ互いに魔力を消耗するだけの不毛な時間が流れるだけだが、剣士に限ってはまるで違う。相手の攻撃をすべていなしながら、術者は同時に魔術で追撃できる。


『ダメ押しだ。上位炎魔術——』

「霞時雨一刀流——」


 そして追撃の詠唱の途中、紫雲が割り込んで技を放った。


“姿が消える“。


 すうっと消える——ならまだいい。“いつの間にかそこにはいなかった“。ふと、目を離した瞬間に逃げられた?否、断じてそんな単純な話じゃない。もはや“無意識の世界に滑りこむ芸当“。知覚の死角、そこに潜り込まれた感覚。


(……姿が見えない。せめて、技を相殺する必要があるな)


 そう判断したリッチーは、再度『模倣』の魔法陣を展開する。これで、紫雲の動きを予測したのちトレースし、そっくりそのまま技を合わせることができる。


『……がふっ』

「——……『秋雨』」


 紫雲の剣は、リッチーの核を貫いた。

 彼の口からはドス黒い血のような液体が溢れ出ている。攻撃を受けると同時に、治癒魔術を発動し、損傷した核を再生する。


『なぜだ……? ワタシは『模倣』を展開していたはず……』

「認識できないものをどう模倣できる。『秋雨』は、誰にも気取られぬ必殺の剣じゃ。音を殺す、気配を殺す、息を殺す。そんなみみっちぃものじゃない。穏やかに降る雨に溶け込み雨を斬る剣技じゃよ」


『秋雨』——しとしとと降る雨を斬り伏せるために編み出された剣技。その技は相手の無意識に入り込み、認識を許さない。それが例えリッチーであろうと、『模倣』の魔術であろうと、その存在を捉えることはできない。


(知覚できないステルスの技か……なら……)

『最上位合成魔術——『隠遁瀑布』』

(こちらもステルスで対抗してやろう!)


 そうして発動するのは水属性を主軸としたステルスの魔術。紫雲が『秋雨』で無意識からの攻撃を仕掛けたように、リッチーも紫雲の死角に入り込んでしまえばそもそも斬ることができなくなるというわけだ。


「霞時雨一刀流——『雨声』」


 しかし、それすらも両断される。


『馬鹿な!?』


 雨音を斬るための剣技、それが『雨声』だ。見えないものすら斬るその太刀は、問答無用で隠遁魔術をも断ち切った。続けて、紫雲が接近する。


「霞時雨一刀流——『村雨』」


 また、予備動作なしの剣技。振る瞬間すら知覚することができない最速の剣戟。

 再び、リッチーの核に傷をつける。


(っ…………しかし、まだ妖刀の入った結界は守っている。これさえ守り切れば、やがてこいつの体力も尽きるはず……!)


 そうしてリッチーは一定の距離を保ちながら、逃げ続ける。それを紫雲が追い、リッチーが応戦。その繰り返しだった。

 しかし、戦況に変化が訪れる。


「……………………ふむ」

『やっとか』


 呟くリッチーの視線の先にあったのは、紫雲の持つ剣——“それが、錆びて崩れていく姿だった“。

 そう、リッチーが逃げていたのは単に攻撃を回避するためではない。ずっと、紫雲の剣を狙っていた。

 いくら剣術や使い手が優れていると言っても、持っている剣は所詮人間の女剣士が使っていた至って普通の片手剣。魔術で気づかれぬように酸化を促進させてやれば、やがて剣は錆び付いて使い物にならなくなるというわけだ。


『これでワタシの勝利だ。貴様には、既に戦う術は残されていない。妖力も使い果たし、刀は奪われ、なけなしの片手剣は今無くなった』

「そうじゃな」


 未だ表情を歪めない紫雲に、リッチーは薄寒さを覚える。


「じゃが、まだ手は残されている」

『……何を言っている?言ったろう、貴様には何も残されていない。まさか仲間にでも頼る気なのか?この、囚われた女剣士と、魔術を封じられた魔術師にか?だとしたらやめておくんだな。女の方には衰弱の魔術を施してある上、そこの男もまだ魔術は使えない。だから——』

「誰が、何も残っていないと?」


 そう強く言って、紫雲は地を蹴る。手にあった剣の柄は捨て、両手を自由にする。


(なんだ、まだ何か……? いや、ハッタリだ。これ以上、奴にできることはない)

『……上位炎魔術——『火炎重砲』』


 念のためと、牽制に魔術を放つ。案の定というか、拍子抜けというか、その魔術は紫雲に直撃し、小さく悲鳴が聞こえるのを確認した。


『声も上げられなかったか。哀れなやつよ。まさか本当に虚勢だったとはな』


 完全に気が緩んだ瞬間だった。


「霞時雨一刀流——」

『なにっ!?』


 炎に包まれたはずの紫雲が一瞬にして距離を詰める。既にリッチーは魔術を放てるような距離ではない。上位の魔術を使った瞬間に自爆してしまう。

 それ以上に、動揺していた。虚をつかれた行動に、リッチーは何もできないでいる。


「——『空梅雨』」


 そして放たれる“一閃“。

 降らぬ雨を斬り伏せるために編み出された無刀の剣技。その、空想の刃がリッチーを守る結界を斬り伏せる。


『そんな、馬鹿な……!?』


 衝撃を受けるリッチー、しかし、さすがは戦い慣れしているというべきか、立て直しも素早かった。

 すぐさま結界を張り直そうとする。そして手元の刀の入った結界に意識を集中する。こちらが割られてしまっては元も子もないからだ。


 しかし、紫雲はニ太刀目を放つ。


『空梅雨』は本来虚をつくための一度きりの剣。しかし、それをもう一度振るう。紫雲も限界を超える。


(結界が——!?)

「返してもらうぞ。わしの刀」


 ——その一撃は、届いた。

 刀の入れられた結界が割れる。同時に、その中に詰められていた妖力が溢れ出るのを感じる。すぐさまそれに蓋をしようとリッチーが魔力を走らせるが、もう遅い。既に紫雲は刀を掴んでいる。


『っ!! 零位魔術——『虚々刻々』!』


 代償を伴う零位魔術を、今度は躊躇せずに発動するリッチー。まだ、刀を掴んだ瞬間に止めた今なら。刀の妖力が紫雲に流れ込んでいないと考えるのが妥当だった。

 妖力がなければ、時間停止に対抗する術はない。紫雲は刀を掴んだ姿勢で止まっている。


『ふ、ふはは……! 間に合ったか。流石のこいつと言えども、妖力のない状態では——』


 言いかけたところで、その刀から炎が出ているのに気がついた。

 段々と大きくなっていき、心に焦りが生まれたその瞬間、呼応するように炎の火力が大きく増した。


 当然、妖力の炎に当てられた者は動けるようになる。


「妖力解放——『狐の嫁入り』」

『この状態でも、動けると言うのか……紫雲!!!』


 叫ばれた紫雲のもつ『雨切』には、不気味に揺れる炎を纏っている。

 頭には狐の面、手足には紫に揺れる炎、そして薄紫に輝く瞳。完全に妖力をフル稼働させている証拠だった。


「霞時雨一刀流——『滝落とし』」


 その炎を纏った刀を振るい、強制的に時間停止を解除。空間を切り刻み、魔術を終了させる。

 代償を伴う大魔術だとか、概念系に干渉して時間を止めるだとか、そんなものなどまるで鼻で笑うかのように斬り伏せる。

 正常に動くようになった時間の中で、紫雲は目一杯に炎を大きくする。

 言うなれば火柱。天を貫くほどに大きく燃え盛るソレは、見るだけで気を悪くするような禍々しさを放っている。


 別の方向から、聞こえる声があった。


「最上位風魔術——『風神』」

「グレイブ流——『絡み蛇』」


 動いたのは、衰弱させていたはずのレヴィと魔術を使えないはずのオルタ。

 なぜ動けるのか?そんなことを言いたげにリッチーは目を見開いていた。


『……今の火柱か!!』


 かろうじて結界を展開しながら、そう叫ぶリッチー。

 ご名答と言わんばかりに、刀を片手に持つ紫雲がニヤリと笑う。


 戦況が悪化していた最大の要因は、オルタの魔術が封じられたところにある。

 そしてその原因となっているのは、リッチーが放った魔術による作用。つまり“魔術が起因している障害“なのだ。

 それならば、紫雲の妖力でその魔術を破壊してしまえば、オルタが自由になるのは道理。

 瞬時に治癒魔術を使ったのち、レヴィの衰弱を治療。同意に身体強化の魔術を施すことで、一気に戦況をひっくり返した。


 これでリッチーにとって、状況は最悪なものになる。異常魔力に覚醒したレヴィ、魔力が万全な状態になったオルタ、何より、依代である『雨切』を取り戻した紫雲が厄介だった。

 既に敗北が確定したようなものだ。魔術は全てレヴィか紫雲が斬り伏せ、遠距離からはオルタの攻撃。

 零位魔術を使ったところで、紫雲に突破されるのがオチだ。それも、最初に使った時とは違って、今の紫雲には妖力が潤沢にある。枯渇することは見込めない。


『……なら、最後の手段だ』


 そう呟くと、リッチーは瞬間移動し、上空に立った。


『…………最上位合成魔術同時展開——』


 そしてポツポツと展開されていく魔法陣の数々。その数は、段々と増していき、止まることを知らない。

 やがて空を埋め尽くし、大小、複雑か簡易かなど関係なく入り混じる“魔術の空“。


『——同時展開数限界……百二十だ』


“今ある全ての魔力を以て、一撃で全てを無に帰す“。それが、リッチーに残された唯一の勝ち筋だった。

 空一面に展開された魔法陣一つ一つから、凄まじいほどの魔力の奔走が起こっている。まるで台風の中にいるかのような錯覚に陥るほど、激しい風が吹く。

 迎撃のため、レヴィが跳躍しようとするが、この風の中では満足に姿勢制御などできるはずもない。オルタに引き留められた。だからと、オルタが魔術を放つが、リッチーを起点として巻き起こる激しい魔力の渦に飲まれてしまう。こんなことは普通ではあり得ない。リッチーの持つ魔力が、強大かつ莫大だからこそ起こる現象。


「くそ……まずいぞ。俺でも対処できないとなると、あの馬鹿げた魔術の雨を防げない。逃げようにも、今からじゃ衝撃波だけで天国までいけるだろうよ」

「だが、私ではアレは防げんぞ……いくら私の魔力と言っても、限度がある。アレだけのエネルギーを伴った攻撃では、どうしようもない」


 そこで、二人が紫雲を見つめる。


「わしか。まぁ、わしだったらこの程度全て斬れるな」


 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、紫雲は、一歩前に出ると同時に“纏っていた妖力を全て消した“。

 それすなわち、魔術に対する特効を自ら投げ出したのと同義である。


「な……!? 何してる紫雲! まさか妖力なしであれを斬る気か!?」

「あぁ、そうよ。そんな力なんぞいらん」


 ぶっきらぼうに返事を返して、リッチーのいる場所の下まで向かう。


『……なぜ妖力を使わない。ワタシのことを舐めているのか?』

「どいつもこいつもうるさいのう。……なら、貴様に一つ聞くぞ。崇高なる偉大なる親愛なる天才なる魔術師である貴様にな?」


 同じ質問を投げられたことに、心底不愉快そうにする紫雲だったが、それでもリッチーをしっかりと見据えた。


「——貴様、気にはならんのか? 魔術の極致と剣術の極致、どちらが上なのかを」

『……………………………………なるほどな』


 満足そうに、リッチーは魔力を集中する。


 ——魔術の極致リッチーと、剣術の極致紫雲。本来ならば、決着など見えていて当然の勝負。レヴィが過去痛感したように、剣術は魔術を上回ることはないのだから。

 だが、その場にいる誰もが“魔術が上に決まっている“とは思えなかった。かといって、“剣術こそが上である“と思っているわけでもない。

 もはや単純な勝敗以上の意味が、その戦いには込められていた。


“一体、どちらが上なのか“。


 そんな単純で、幼稚で、わかりやすい感情だけが胸を支配する。

 きっちりと、そしてはっきりと白黒つけるために、リッチーの準備が終わるまで紫雲は佇んでいる。その出立にはどこか頼もしさがあって、自信に満ち溢れている。


 もう、二人の間に対話など必要ない。あとは実力で語るだけ。背後に控えていたオルタやレヴィも、そこに横槍を入れるような野暮なことはしなかった。


 やがて、放たれる。


『最上位合成魔術——『失楽園』』


 全ての魔法陣から必殺級の魔術が放たれる。数百二十。どれか一つにでも当たれば無事では済まない。回避しようにも周囲数キロメートルを焦土にする『失楽園』を逃れるには相当な距離を疾走する必要があり、防御しようにもそう容易くできることではない質量なのは確か。

 死の象徴、災害そのもの、そう言わしめるほどの災厄。


“ありとあらゆる魔術の混沌“ “百二十の魔術を一として放つ奥義“。


 それがリッチーの『失楽園』だ。


 対抗して、紫雲も構える。


「素晴らしい。これが“魔術“か——俄然、斬る価値がある」


 互いに悟っていた、次の一撃がこの戦いの幕引きになると。リッチーは『失楽園』を発動したことで、魔力が完全に空になる。そうすれば、もう戦うこともできないし、核を傷つけられた時再生ができなくなる。

 ゆえに、終わりなのだ。これが互いの限界、互いが引き出せる能力の全て。

 敬意を払いながら、刀を振るう。


「霞時雨一刀流“奥義“——」


 低く構える。猪のように、低く低く疾走する。リッチーの真下まで走り、高く跳躍。紫雲が『失楽園』と衝突する瞬間、その技は放たれた。


「——『天斬』」


 何も音が鳴らない、霞時雨一刀流の奥義。ただ単純に、刀を振り上げる。上空へ向かって、斬撃が放たれる。

 そう、霞時雨一刀流は“雨“を斬る剣術。その根幹には、“雨“がある。


 ——空が裂ける。


 全ての雨を切り刻む。全ての雨に斬撃を浴びせる。やがてその刃は、空高くにある雨粒にまで届く。

 一刀両断。それがその剣術が生んだ答え。


『素晴らしい……これが、これこそが、“剣術“か……』


 そうして、『失楽園』は両断された。

 剣術が、魔術を上回った瞬間だ。


 □□□


 晴れた空が広がる。先ほどまでの異常な魔力の嵐はどこにいったのか、呆れるほどにのどかな景色が広がっていた。

 その空の中心に、一人の魔術師が浮かんでいる。

 やがて、その魔術師は地面に向かって落下した。何も力が残されていないと言った具合に、重力に抗うことなく墜落する。


『見事だ。もう、ワタシに悔いはない』


 その魔術師を見ると、左脇腹から右肩に向かって、胸にある核が斬られていた。強力な治癒魔術が使えると言っても、既に魔力は枯渇している。再生の余地などなかった。

 だがその魔術師は満足そうだ。もう消滅が始まりかけているというのに、笑っていた。


「愉しかったぞ、リッチー。そして美しかった。まるで芸術のようだな、魔術は」


 そう言いながら近づいてくるのは、紫雲だ。

 刀を鞘に収めて、リッチーの横まで進むと腰を下ろした。


『ワタシの魔術は、気に入ったか?』

「あぁ、十分じゃ。見たこともない、最高の魔術じゃったよ」

『ふふ、ありがたいな。その言葉』


 どこか遠くを見つめるように、リッチーは呟く。


『もしかしたら、ワタシは自分の魔術を誰かに認めてもらいたかっただけなのかもしれないな。凡人だったあの時から、ワタシの魔術は誰にも認められなかった。誰もが、ワタシを否定した』


 哀しそうに、だが、懐かしそうに話を続ける。


『だから死後も魔術を極めた。……まぁ、皮肉なことにこうして魔物になってしまった訳だがな』

「ククク、わしからすれば人間と大差ないわ。わしより幼稚で、斬れるのだからな」


 もう、リッチーの体は完全に消滅する寸前だ。手足は黒い霧になって完全に消滅している。

 薄れゆく意識の中で、彼は最後に紫雲の言葉を聞いた。


「——次まで待ってやる。だから、次はせいぜいわしに勝てるようになることじゃな」


 一体何年生きるつもりだ、そう言ってやりたかったが、それすら叶わない。

 リッチーは、今、ここで消滅した。

 最後まで凡人のままでいた魔術の極致の終わりは、とても満足そうなものだった。


「おい! 大丈夫か!」


 するとすぐに、後ろからオルタとレヴィが追ってくる。『失楽園』の嵐が消失したため、自由に動けるようになったらしい。


「終わったぞ。ほら、そこにあやつのローブだけ残っておるじゃろう。消えてしまったよ、霧のようにな」

「欲を言えば、俺が仕留めたかったんだがな」

「命があるだけマシだろう……私は生きた心地がしなかったぞ」

「それに、あやつを仕留める実力がないだろう、貴様」

「これから伸びるんだよ」

「そうかいそうかい、それならいい」


 嘲るように、紫雲は言った。


「じゃが伸びるのは——死んでからかもしれんのう?」


 生きているうちにあの“魔術師“にたどりつけるわけがなかろうと、小馬鹿にするように紫雲はいった。


 ——剣術と魔術、互いに互いを認めて放った究極の一撃は、剣術によって一刀両断された。

 それが死後百年以上にも渡って積み重ねられた魔術でも、関係ない。

 この魔術の蔓延る世界でも、刀一本で十分。


 それが紫雲、剣術の極致だった。

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