第17話 ブルーシンドローム

 遺書と題されたその手紙を読み、俺は駆けだしていた。

 右手には便箋、左手には桃谷の遺したギター。

 何か考えがあったわけではない。

 ただ、自然と身体が走り出していた。

 教室のドアがガンと大きく音を立てたことから、自分の手に思っていたよりも力が入っていたことを知る。

 勢いよく教室を飛び出し、廊下を走り抜ける。

 歩いている奴らに肩をぶつけながら、そんなことは今気にならないくらい、ただ、脇目も振らず、目的地だけを見据える。

 階段を駆けのぼる。

 向きを変える踊り場で、うまく体を回転できず、大きく転んでしまう。

 手をつく拍子にギターを地面に落としてしまう。

 ぼーんと鈍い音を立てて、まだ、微かに息が残っていることを主張するように、横たわったギターが、地面に這いつくばる俺を見ている。

 スラックスの膝が破けている。

 それでもまた立ち上がり、ネックの一番ボディに近い部分を握りしめ、もう一度走り出す。

階段を二段飛ばしで飛び越えて、まだまだ進んでいく。

 途中、出勤してきた教師とすれ違う。

「止まりなさい」と声高に叫んでいるが、もちろん止まらない。

 鳴りだした音楽は、止まることを許さない。

 駆ける。

 スリッパが脱げてしまった。

 それを再び履きなおす時間もない。そのまま走り続ける。

 靴下のまま少し走って、摩擦の少なくなった足元に走りにくさを覚える。

 煩わしい。

 靴下も履き捨てて、はだしでかけていく。

 朝の廊下は冷たい。

 足の裏の感覚もすぐになくなった。

 四角い螺旋状になった階段にたどり着く。

 この上に目指していた場所がある。

 駆けのぼる。

 右足の親指の爪が割れている気がする。

 でも、今は痛みを感じない。

 駆けのぼる。

 ずっとギターを抱えている左手に、もう力が残っていない。

 駆けのぼる。

 息が切れている。うまく息が吸えない。

 ほこり被ったドアにたどり着いた。

 この先にきっと。

 くしゃくしゃになった便箋を握りしめている右手でドアノブをひねる。

 少し開いたところで、ドアを強く蹴り飛ばす。

 

 ぶわっと向かい風に吹かれた。

 思わず後ずさりをしてしまう。

 暗い場所に光が急に差したことで、うまく目が馴染んでいない。

 一つ、瞬きをする。

 もう一度 、目を開く。

 そこに広がっていたのは、いつも通りの景色。

 何もない、錆びたフェンスで囲まれた屋上。

 何もない、鄙びたコンクリートで覆われた屋上。

 いつもと違うのは、フェンスの奥に、風にスカートをなびかせた少女が一人いることだ。

 綺麗に靴をそろえて、照りつける朝日を全身で享けている。

 

 それを見た瞬間、俺の衝動が動き始めた。


 ――ガシャン。


 ネックが折れる。ボディとネックが弦だけを頼りにつながっている。

 少女はそのけたたましい音に、ようやくこちらを振り返る。

 

 ――ゴン。

 

 もう一回。今度は両手で。

 少女は愁いを帯びたその目を丸くする。


 ――ガン。


 すべてを壊すように、大きく振りかぶって。

 少女の目から、一筋の光の線が走る。


「この音が聞こえるか」


 叫びながら、何度も何度も叩きつける。

 飛び散った破片が地面を彩る。

 

「この音が聞こえるかって聞いてんねん」


 まだ、叩きつける。

 もう、元の面影すらない。


「この音が聞こえてたら、返事しろ」


 もう叩きつける部分もなくなり、弦だけがついたネックを投げ捨てる。

 少女の目から落ちる雫に、光が反射して、キラキラと輝く。

 彼女は動かない。

 肩で息をする俺を、じっと見つめている。

 艶やかな髪が風になびき、それを同じ方向に、涙の川が流れていく。

 

「目の前が暗くて、何も見えなくて、動けなくなったら、耳を澄ましてみろ。音があるやろ。この音は聞こえるやろ」


 息も切れたがらがらの声で、叫ぶ。

 声帯が切れてもいい。

 この音が届くなら、声が出なくなってもいい。


「見えてるものだけを信じるな。音はまだ生きてるやろ」


 心臓がドクンドクンと大きく動く。

 この音さえも、彼女に届けばいいと思う。

 少女は左胸に手を当て、クシャっとシャツに皺を寄せて握りしめる。

 そして、顔を伏せ、むせび泣く。

 嗚咽のたびに肩が揺れ、うつむいた顔から、感情の粒が滴り落ちる。

 足元のコンクリートが色を変え、日差しがその部分を鮮明に照らす。


「聞こえる」


 水分が声帯にからんだような、しゃがれた声で、力いっぱいそう叫んだ。


「それでいい」


 俺は入口の裏手に隠しおいてあるギターを引っ張りだしてきて、フェンスをよじ登り、彼女の横に立つ。

 下を見渡せば、登校してきた生徒たちがこちらを指さしながら群れを成しており、教師たちが大声を上げて何かを言っている。

 それを確認したあと、その場に座り込み、胡坐をかいて、膝の上にギターを構える。

 一つ大きく息を吸う。

 そして、人の束をめがけて、大きく声を張り上げる。


「お前ら、聞こえるか」


 群衆がざわざわ音を立て、さらに人だかりが大きくなる。


「俺たちには何もできん。世界一つ変えられへんし、上手に生きることもでけへん。だから、音を出す。音で、お前らを刺す」


 横に立ち尽くす少女を見上げる。

 彼女もこちらを向き、目と目が合う。

 

「ブルーシンドローム、歌えるか」


 鼻を一つ大きくすすり、腹の底から出た声で「うん!」と返事をする。


「いくぞ」


 息をのむ。

 世界から音が消え、俺と彼女、二人のする呼吸の音だけが空間を満たす。


「1、2、3、4……」


 

 声が響く。

 

 ギターの音の上に、彼女の声が流れる。


 直線的で、美しくしなる。


 やわらくて、硬く突き刺さる。


 優しくて、強い。

 

 声が響く。


 俺も負けじとギターを強く爪弾く。


 イントロからAメロにかけては、Ⅱm7、Ⅲm7、ⅣM7のループ。

 三つ目の音がシンコペしていて、自然とグルーヴが生まれる。

 歌の隙間を埋めるように、フィルインのフレーズを入れる。

 それを受けて、彼女も、音を短く切るように、リズミカルに歌唱する。

 Aメロが終わり、サビ前のブレイクが入る。

 小さい音から初めて、盛り上がりをつけるように、徐々に音量を上げていく。

 コードはⅥm7。

 最後の音を力いっぱいはじいた後、一拍の無音。

 その間に、右手の薬指と中指で挟み持っていたいつしかのピックを、人差し指と親指に持ち替える。

 焦らすようにタメた無音を、美しい声が切り裂く。

 

 ギターの音と歌のアクセントがぴたりと重なり、サビの一拍目がきれいに決まる。

 それを契機に、俺のギターも彼女の歌も、その調子を上げる。

 ⅣM7、Ⅴ7、Ⅵm7、Ⅰ、と感情を煽るようにコードが続く。

 一拍目の飛び出した音を強調し、大きくリズムをとる。

 彼女も、アクセントをつける位置をギターに合わせて、二人でグルーヴを作っていく。

 下を見る。

 オーディエンスの肩が、演奏に合わせて揺れている。

 横を見る。

 彼女は、ただ前を真っすぐ見つめて、耳だけをこちらに向けている。

 サビの最後の小節が訪れる。

 ピックを唇で挟み、すぐに指弾きに切り替える。

 メロディの休符とギターの休符が一致する。

 それまでのサビとの緩急で、これがサビの終わりだと観衆に主張する。

 そして、アウトロのオクターブフレーズ。加えていたピックを手に戻し、思いっきり、力いっぱい手を振り抜く。

 長めに音を伸ばし、キュっと弦を上方へスライドし、音を止める。


 再び、下を見る。

 静寂が生まれた。

 音が何もない。

 それまであった俺と桃谷の音がやみ、ぽっかりと穴が空いたように、音がない。

 しばらくの沈黙の後、一人が手を叩く音が響く。

 ――パン、パン、パン。

 それに続くように、一人、また一人と音を重ねる。

 ぽつり、ぽつりとその数が増えていく。

 少しずつ、音が積もっていく。

そして、気づけば拍手の雨が、下から上へと降り上げていた。

 大勢の人々の手を叩く音が何層にも重なり、青い空を満たすように、天高く響く。

 隣を見れば、桃谷が呆然と、その喝采を全身で受け止めている。


「どうや、聞こえるやろ」


 俺の問いかけに対し、彼女はシャツの袖で涙を拭い、きらめくような満面の笑みを浮かべて答える。


「うん!」


 音はやまない。

 ずっと続いていく。

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