第15話 音が消える
一日の授業が終わり、ズタボロになった重たい体を引きずって、いつものように屋上へ向かう。
そこには、いつもと変わらず、先生が一人、たばこをふかしていた。
相も変わらず、ぼんやりと呆然と、ただ、頭の中と手だけが動いている。
「先生」
その言葉だけが口をついた。何かを伝えたかったわけでも、何かを問いかけたかったわけでもない。ただその一単語だけが口からこぼれ出た。
「ボロボロだな」
俺を見るや否や、俺の心の状態をあっさり見抜いた。体に傷はない。先生の意味するボロボロとは、俺の心理状態のことだろう。
「よく見ただけでわかりますね」
一言しか発していないのに、それだけの状況から推測して、それが当たっているのだから恐ろしい。
「言葉が少ない時ってのは、傷が多い時だ」
人間というものの性質をよくわかっている。
本当に痛くて辛いときに、言葉なんて出てこない。わかってほしいのに、それを他者に伝達することができない。そのことがさらに痛みとなって、傷口を広げる。
言葉にできないから、苦しいのだ。
「話せるか?」
先生は問う。言葉にできるかと。
けれど、今、これを他人に伝えられる形にすることは、自分にはできない。音が傷口で歪んで、不快な音になってしまいそうだ。
「今はちょっとできないです」
俺の反応を受けて、先生はゆっくりたばこを吸う。
そして、大きく長く吐き出してから、言葉を置く。
「お前には迷惑かけるな。俺が何もできないばかりに」
たばこを地面に落とし、薄汚れた革靴のかかとで踏みつぶす。
吸い殻の先からたばこの葉が散らばり、それが風に乗って屋上から落ちていく。
それを眺めながら、先生はまた、新しい一本に火をつける。
ライターのカシュっという音が耳に優しく触れる。
「けど、俺はお前を信用してる。期待なんかではない。信頼してる。現状を変えてくれと願ってるんじゃない。現状を変えてくれると思ってる。これがお前に重しとしてのしかかるのかもしれない。けど、これ以上の言葉を俺は持ち合わせていない」
先生は、それが俺の鎖となって複雑に絡みつくことを知っている。しかし、先生があえてそれを言う意味。それを考えれば、その言葉がどれほどの大きさを持っているのかがわかる。
「お前はお前が思っている以上に人だ。赤い血が流れていて、心で考え、頭で生きる。もしかすれば、自分の無力さに打ちひしがれているのかもしれないが、それも含めてお前だ。他人の悪意なんかで、自分を見失うな」
たばこを持つ指が震えている。
それは緊張とか動揺とか、負の方向からくる動きではなく、俺にそれを伝えようとする気概からやってきている気がする。
「何も変えられないとしたら、俺はどうしたらいいんですか」
俺には何も変えられない。悟ってしまった人間は、どう行動すればいいのか。どう生きていけばいいのか。とんと見当もつかない。
「変えるんじゃなくて、変わっていくんだ」
先生はそれまでよりも大きな声で、そこにアクセントを置くように強調してそういった。
「人の意図っていうのは、どうにもその通りに行かないもんだ。けど、意図しないようにならどうとでも変わっていく。自分の描いた青写真がすべてじゃない。考えもしない自分の行動が、結果的に世界を変える。変わっていくんだ」
たばこの香りがツンと鼻の奥に響く。
苦い。ビターで酸っぱくて香ばしい。甘さなんてない。ただ、不快に思う成分だけが凝縮されている。
しかし、それが積み重ねた年月の味なのかもしれない。大人の味。
きっと俺はまだ子どもなのだ。舌も鼻も、心も身体も、大人に成りきれていない。自分は子どもじゃないと思っていても、俺の思い以外のすべてが成長しきっていないのだ。
たばこを吸ってみたいと思った。
けれど、今吸うのはまだ早い。
もっと、苦労を知って、痛みを覚えて、艱難辛苦のすべてを啜った後でないと、その味を心いっぱい味わえない気がする。
もう少しだけ、時間が必要だ。もう少しだけ。
「たばこって美味しいですか?」
先生は俺の問いかけに対し、大仰に煙を吸って見せる。
そして、ふーっと力いっぱい肺にあったものを吐き出す。
「うまいぞ」
にやっと笑いながら、目だけでこちらを見る。
その笑みが、先生の滅多に見せることのない喜びを表現しているように見え、つられてこちらも微笑んでしまう。
「まあ、まだお前にはまだ早いな」
「僕もそう思います」
先生は携帯灰皿に火を消して、地面に落ちた先の吸い殻もそれに押し入れ、ぐっと背伸びをする。
「二十歳になる誕生日にワンカートン贈ってやるよ」
そういうと、俺の髪をわしゃわしゃとかき乱し、春用のコートをなびかせながら、屋上を後にする。
残ったものは、まだ半分傷が残った心と、たばこの香りだけだ。
× × ×
昼休み、いつもの場所でいつもと変わらないように昼ご飯を食べている。
昨日から、思考がずっと、桃谷とその周りのことに支配されていて、日常生活がままならなくなっている。すべての行動に彼女の影がちらちらし、それに対応するように、自分に何ができるのか、何をすべきかという終わりのない自問自答が繰り返される。
また、先生の言葉も同時に鳴り響いている。
『変えるんじゃなくて、変わっていくんだ』
何かしようとする俺の心に相反して、事は思うように運ばないという先生の思想が、どっちつかずな心を生み出している。
一方では何かを変えたいと思っていて、一方では変えたいようには変えられないという考えがある。水の入ったコップに油を注いだような、混じりあうことのない二つの感情が同時に存在している。
空を左から右へ流れていく雲をぼうっと眺める。
その形に、勝手に船の面影を重ねる。
何もない大海原を、ただ真っすぐに進んでいく船。フラッグはない。ただ、波の流れに身を任せ、ゆらゆら揺られていく。目的地はなく、羅針盤もない。あてのないその放浪が羨ましくも感じる。
目的やゴールがなければ、ただ存在しているだけで進んでいくのに。
旅に大義が生まれるだけで、その道は険しくなる。
嵐を堪えなければいけないし、生きることを考えなければいけない。
対して、行く当てがなければ、風に飛ばされることにも、雨に降られることにも、何も感じない。旅から意味を取り除くだけで、こんなにも生きやすくなる。
けれど、人生という果てのない旅の中では、意味を排除するなんてことは不可能だ。
この道を歩く意味を、この豪雨の中を耐えなければいけない理由を、人は探さずにいられない。生きるということには常に意味が付きまとう。なんとも疎ましい。
その疎ましさの中で、俺に残ったものは何だろうかと考える。
心は役に立たない。論理も使い勝手が悪い。
では、後に何が残るだろうか。
手段として手元にあるものは何だろうか。
いくら考えども、答えは出ない。
そもそも、答えを探そうという作業そのものが間違っているのかもしれない。
逡巡は止まらない。
頭の中は、どこまでも巡り巡る。
抽象的な思考を続けていると、屋上の出入り口が開く。
桃谷が重苦しい表情と共に、こちらへ近づいてくる。
その顔が、俺に声を出さずにいることを許さなかった。
「どうしたんや」
明らかに何かがあった人物へ対してかける言葉の中で、一番いいものがぱっと浮ばない。もっと心に寄り添える言葉が欲しい。
「ちぎられちゃった……」
そういいながら、ストラップ部分の二つにちぎれた猫のぬいぐるみを胸元に掲げる。顔の部分の生地が毛羽立ち、腹のあたりに爪か何かの痕がある。
真っすぐにこちらを見つめる桃谷の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「あれ、なんでだろう。涙が、出てくるや」
自分でもそれを意図していなかったのか、震える声に驚きが滲んでいる。
涙は右眼から始まり、それに数秒遅れて、左眼からも平行に水の線を引く。かと思えば、二条の筋は枝分かれを生み、濁流となって、輪郭を伝い、顎の先から地面に落ちる。
それを受けた俺も、無意識の内に、地面を強く殴っていた。
「すまん。俺はまだ、それを解決する手段を持っていない。ほんまに申し訳ない……」
何もできない自分に、改めて腹が立つ。
無力さに苛立ちを覚える。
「けど、もうちょっとだけ待ってくれ。きっと終わらせるから。もうちょっとだけ待ってくれ」
俺の言葉に、桃谷はさらに涙を流し、ぐちゃぐちゃになった顔を拭う。
「ううん。大丈夫。すぐに終わるから。明日にはきっと終わってる」
彼女の意味していることは分からない。混乱して冷静な考えを失ってしまったのか、諦めからくる投げやりな言葉なのか。
ただわかるのは、彼女の涙は止まらない。
「俺のやつあげるから、今はそれで我慢してくれへんか?」
わかっている。同じ形のものでも、もうそれは代替不可能だということを。それが、彼女にとって替えの利かないもだと。
「いいの。私のは壊れちゃったけど、此花くんのが生きてるなら、それでいい」
鼻をすすりながら、切れ切れの声でそんなことを言う。
「此花くんのは私のにはならないよ。私のは、もう、壊れちゃったの」
呼吸が荒くなっている。
俺には何も言えない。どんな言葉も、彼女の心をすくい上げるには、あまりにも軽薄だ。
無音が屋上を包む。
時々、彼女が鼻をすする音が聞こえるだけで、それ以外の音は何もない。空も風も喧噪も凪いでしまった。
立ち尽くす少女と、座り込む少年。それ以外に、何もなかった。
翌日の朝、教室は嫌に騒がしかった。
音の中心を見ると、机の上に遺書と書かれた白い封筒が一つ、椅子に立てかけられたエレキギターが一本。
桃谷の席だった。
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