第14話 自尊心

 午後三時を回ったにも関わらず、屋上には、昨日の雨でできた水たまりがまだ残っている。

 いつもの段差に座って、フェンスにもたれかかる。俺に続いて桃谷も同じ態勢になった。

「何されたんや」

「うん」

 下を向いて、言い出すのをためらうような間をあける。

 しかし、五秒ほどの間尺の後、重たそうに口を開いた。

「朝ね、教室に入ったら山川さんたちにちょっと来いって言われて」

 吐息のような、声の成分がほとんどない声で続ける。

「それで、ついて行ったら、踊り場で、私を壁に追いやるように囲まれて」

 相槌は打たない。打てない。

「最初は、ただ口で責め立てられて、次第にエスカレートしていって……」

 声が震え始める。

 その続きはなんとなくわかる。

「――暴力になって……」

 震える声が、嗚咽に変わる。

「ビンタ、から、始まって、蹴る、髪を、引っ張られる、いろいろ、された。それを、動画に取られて、『もし誰かに言ったら、これ晒すから』って」

 息が上がって、言葉が途切れ途切れになる。鼻をすする度に、苦しそうな声が漏れる。

 そして、顔の横にある髪を後ろへやり、顔をこちらに見えるようにする。

 頬が赤く腫れあがっていた。それは、体温が上がったとかそんな赤みではなく、もっと、外的な要因でできたような、はっきりと暴力の痕だとわかるものだった。

 それを見るや否や、体が勝手に走り出そうと立ち上がっていた。拳は固く握られている。

 俺の意図を悟ったのか、桃谷が大きな声を出す。

「やめて!」

 聞いたことのない声だった。

「私は、暴力で解決したくない。それをしちゃうと、彼女たちと同じになっちゃう」

 聞いて俺は立ち止まる。

 ここまでの仕打ちを受けて、彼女はまだ冷静な心を保っている。いや、違う。冷静がゆえに、何もできないのだ。

「痛みがないと、あいつらは止まらんぞ」

 痛みを知らない者に、他人の痛みを想像することはできない。痛みには痛みで以って対峙するしかないのだ。

「それでも、暴力はいやだ。暴力なんかに頼りたくない。もっと、人として生きたい。此花くんにも、そうあってほしい」

 握った拳と、彼女の言葉が、俺の心の中でせめぎあう。山川たちを殴りつけたい衝動と、彼女の人としてあってほしいという願いがぶつかり合って、混濁とした感情が生まれる。

 自分の中に矛盾が存在することが、すごく気持ち悪い。

「人であることと、桃谷が傷つくことは別やろ。人であるがゆえにお前が傷ついていいわけがない。お前が壊れて、それであいつらが人の顔して立ってるのが許せるのか?」

 言い終えて、言葉の勢いが強くなっていたことに気づく。

 これでは、彼女を助けようとしているのか責めているのか分からない。

「許せる許せないの話じゃない。彼女たちを殴ってこれが終わっても、それは自分を殺したことになる。それなら、このまま終わりを待つ方がまし。それに、殴ったところで彼女たちは止まらないよ……」

 吐き捨てるように、諦観をこちらへ突きつけるようにそう言った。

 それを見て、俺の熱も引いていく。全身の力が抜けて、幽体離脱で魂と身体が分離したように、その場に座り込む。

「もし、終わらんかったらどうすんねん」

 もしこれが終わらないマラソンだとしたら。これまでの我慢が全くの無意味だとしたら。彼女は、どうなってしまうのだろうか。


「――きっと、終わるよ」


 優しい笑顔で言い捨てる。

 その笑顔には、どうしようもない無力さが含まれていて、それ以上、かける言葉を失ってしまった。

 それを最後に、彼女はまっすぐ前だけを見つめて、こちらを一瞥することもなく、俺の横を通り過ぎた。

 風になびいたスカートが頬に当たり、後に残ったものはその感触だけだった。

 俺は動けなかった。


× × ×


 次の日、教室の扉を開けて、真っすぐに、その中で一番存在感の大きいグループの前まで、勇み足で歩み寄った。

「ちょっと話せるか」

 俺の問いかけに対し、山川とその周りの面子は、一瞬驚いたように口を閉じ、すぐさま、それが嘲笑に変わる。

「話ってなによ、ミュージシャン」

 もちろんそれは皮肉だ。嘲るように、右側の口角だけを上げている。

「ここじゃ話しにくいから、ちょっと出てくれるか」

「なにー、告白?それじゃあ、ごめんなさい。お前みたいな陰キャ、全然タイプじゃないんです」

 山川が俺を蔑むようにそういって、取り巻きがそれに笑い声をあげる。

「そんなおもろない冗談いらんから、ちょっとだけ時間をくれ」

「はあ?」

 俺が山川の罵倒を歯牙にもかけずに流すと、それにいらだったのか、こちらをにらみつける。

「それが人にものを頼む態度?」

 ありきたりな反語表現だ。けれど、そんなことを気にしていられる心理状態でもないので、それに俺も乗ってやる。

「お願いします。私と話す時間を作って頂けないでしょうか」

 深々と頭を下げる。

 俺の頭の上から、笑い声が投げかけられる。それでも頭を上げない。そんなプライドは今、重要でない。

「ははは。やればできんじゃん。じゃあ、ちょっとだけ話してやるよ」

 上からものを言う態度に苛立ちを覚えるが、それをグッと奥へ押し込む。

 腰を曲げたまま、頭だけを上げると、にやけ面の取り巻きが3人。それの真ん中で、山川が、まるで女王であるかのような態度で、腕と足を組み、こちらを見下ろしている。

 あくまで自分たちの立場が上だと誇示するような彼女らの目は、品性のかけらもない。

 けれど、怒ることなく、彼女らを先導して、誰も使わない家庭科準備室へ続く階段の踊り場へ誘導する。

 着くや否や、彼女らは慣れたように、俺を壁際へ押しやり、それを囲うようにして4人が立ちふさがる。

「話って何よ」

 イライラしたように、腕を組み、肘のあたりを指でトントン叩いている。

 俺もそれを意に介さず、単刀直入に要件を伝える。

「桃谷をいじめるの、やめてくれへんか?」

 彼女が語った、人として対峙したいという願い。それに背かない範囲での対応策。

 こんなもので彼女らが止まるとは思っていない。

 けれども、彼女らにいくらかの道徳心が残っている可能性に賭けて、俺は対話による解決を試みる。

「なにそれ。別にいじめてないけど?」

 白々しい顔で、俺の申し入れに反抗する。

 しかし、別に喧嘩がしたいわけではないので、より、丁寧な言葉で続ける。

「口だけでそういう嘘をつくのは、もうこの際かまわん。けど、いじめてるという事実は、お前らの中に確固として存在しているはずや。それをやめてくれたら、それ以上は望まん」

 俺の言葉に、互いを見合わせてきょとんとした顔をしている。けれど、中核の山川だけは、依然としてふてぶてしい態度を崩さない。

「ちょっと頭の位置が高いんじゃない?」

 それを言うと、いじめを認めることになると気づいていない。でも、いちいちそれを指摘する気にもならない。

 腰を折って、もう一度、頼み込む。

「お願いします。桃谷をいじめるのをやめてください」

 山川だけの笑い声が聞こえる。他の3人は笑っていない。

「もっと」

 言われるがまま、足を後ろに突き出し、膝をつく。

 そして、正座の形をとり、前に手を添える。

 上半身を倒し、額を地面の直前で止める。

「桃谷を、いじめないでください」

 自尊心の折れる音が聞こえた。

 惨めで、情けない恰好。想像するだけで吐き気がする。

 俺の痴態を受けて、やはり、山川だけが大きな笑い声を響かせている。

「ちょっと、みほ……」

 取り巻きの一人が、山川を制止しようとする。しかし、そんなことでは、この化け物は人の姿を取り戻さない。

「おでこがついてないじゃん」

 プライドは粉々だ。もうこれ以上折れる部分がない。

 言われた通り、地面に頭をこすりつける。

「はははは。人が土下座してるの初めて見た。こんなに面白いもんなんだ」

 悪魔だ。軽薄さと下劣さに飲み込まれてしまった悪魔だ。人の痛みを共感しえない、他人を慮る感覚器官が欠落した悪魔なのだ。

「みほ、もうやめよ?」

「なに?あんたも同じことしたいわけ?」

 きっと桃谷が詰められた時もこんな感じだったのだろう。山川だけが先走り、他の3人はそれを止められない。

 取り巻きには良心が残っているが、山川という君主の前ではそれも意味を成さない。彼女らとて、自分の地位を失いたくない。独裁政権を止められる者はいない。

「私はあいつと遊んでやってるだけ。それが嫌なら、一生あいつに抱きついとけばあ?」

 言いながら、彼女らはその場を後にする。

 

 無力だ。俺はなんて無力なんだ。

 たかが高校生一人の行動さえ変えられない。

 俺には何の力もない。

 助けたいなんて思い上がりだ。自分に何が変えられるというのだ。

 自惚れていた。

 もしかしたら、話せばわかるのではないかと、俺の言葉が彼女らに届くのではないのかと。

 そんなものに何も意味はないのに。

 こんな醜態でさえ、影響を及ぼさないのでは意味を成さない。

 何もできないことが、こんなにも痛い。

 無力であることが、ぎゅっと胸を締め付ける。

 

 ――ガン。


 壁を叩きつける音が、一人だけの踊り場を反響した。


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