第13話 雨と静けさ

 授業の開始を合図するベルの音が重たい。

 いつもより低音の嫌な帯域が体中にどっしりと響いてきて、その度に心臓が揺らされる感覚を覚える。高音もそのキンキンした部分が嫌に耳につき、脳を直接触られているような感触がある。

 外を見ると、打ち付ける雨粒に木々が重々しくしなり、窓に残る水滴が視界にモザイクをかけるようにその風景をぼかす。

 ざあざあとしきりに鳴るノイズに、時々、パチンパチンと水たまりに落ちる雨が甲高いアクセントを添える。

 閉め切られた窓越しに聞こえるその音たちは、高音も低音もうまく響かず、中音域のもこもこした部分だけが耳に届く。

 曖昧模糊とした空気。酸素は薄く、呼吸が上手くできているのか分からない。なんだか頭がぼやける。

 教室を見回すと、皆が一様に、平静よりも気力がないように見受けられる。いつもの喧噪はなく、雨に降られた世界を疎むように、逆に、雨が作る重たい空気に呑まれるように、静けさを受け入れている。

 ふと、桃谷の方を見遣ると、いつものように、いつもと変わらず、本に意識を集中させている。

しかし、その姿が、無理やりいつもと同じ行動を取ろうとしている意思に見えた。いつもと変わらないことを自分に強制させているような、いつもと同じにすることで、何も考えていないことを演出しようとするような、そんな意図を勝手に感じた。

 虚ろな妄想だと言われればそれで一蹴されそうな主観的な感覚だが、確かにそう感じた。感じざるを得なかった。

 昨日のことを思い出す。にぎわう道を振り返った時に見えたあの目。確かにこちらを見ていたあの目。何かを伝えるようで、同時に、それ以上の詮索を許さないといった目。あの目が、脳裏にこべりついて、肥大して、俺の脳内を埋め尽くす。いくら考えないようにしようとも、記憶がそれを許さない。勝手に浮かび上がっては、四十、俺の思考の一切をせき止める。

 あれから桃谷とは会話をしていない。

 そもそも、話すようになったのがここ数日のことだし、元来、教室でもたくさん話すような間柄ではなかった。

 思い返せば、俺たちの関係を表す言葉もなかった。恋人でもなければ、友達と呼べるほど親交も深くない。知り合い以上、友達未満。そんな中途半端な関係。

 戻っただけだ。元あった形に戻っただけだ。流れ星のように、一瞬煌めいて、また遠くへ消えていった、ただそれだけだ。

「此花―、物思いにふけるなあ」

 先生の呼びかけにふと我に帰る。

 先生はチョークで黒板をカツカツ叩きながら、こちらを見ていた。

「すいません……」

「じゃあ、罰としてこの文、訳してみようか」

 先生はことあるごとに俺に和訳をさせようとする。はなはだ迷惑だ。

 先生をにらみつけるように黒板を見上げると、『What a drag to love you like I do』と書かれた文章。

「全然わかりません」

「諦めがいいね!じゃあ教えてあげましょう。『私の恋はドラッグみたいなものだった』です。直訳じゃないけどね。いい感じの日本語にしたらこうなります。意味は各々で考えてください」

 なんていう文章を紹介するんだ。教育の場で出てきていい単語じゃないだろ。

「それでは授業を始めていきます」

 気が済んだように、先生はいつものようにやる気のない声で掛け声をする。

 ドラッグのような恋。

これが恋だったらどれほど楽だっただろう。

 雨が強く窓を叩く。不規則な音の並びは、なんだか不気味だ。


× × ×


 終礼が終わり、人がまばらに教室を後にする。

 イヤホンを耳につけ、俺もそろそろ帰ろうかとドアの方へ歩き出すと、肩が誰かとぶつかる。

「あ、すんません」

 小さい声で謝って、肩の当たった主を見ると、眉間に皺を寄せた山川が立っていた。

「きしょ」

 そう吐き捨てて取り巻きのいる方へ帰っていく。

 あれだけ露骨に他人に悪意を向けられるのも、もはや才能だ。俺には到底できない芸当。尊敬の念さえ沸き上がる。あれだけ、自分の悪意を肯定して生きられたら、さぞ生きやすい事だろう。道徳も義理も人情も捨て去って、内から湧き出る心のすべてを肯定出来たら。そんなないものねだりをついしてしまう。

 もやもやした気持ちと共に、教室を出る。

 今日は雨が降っているから、屋上でゆっくりしていくこともできない。仕方なく、まっすぐ帰ることにする。

 廊下を歩く。練習着に着替えた野球部が駆けながら俺の横を通り過ぎる。彼らの顔には曇りがなく、常に晴天に照らされているかのような晴れやかな顔をしている。

 窓を見ると、くすんだ顔の少年が一人。しばらく見つめて、それが自分だったと気づく。明るい野球部の表情に相対して、暗く淀んだ顔だ。苛立ちと無力さが常に混在しているような、醜い顔。そんな自分の顔にまた苛立ちが増える。

 見ていられなくて、また進行方向へと目の向きを戻す。

 湿気でつるつるした床が、歩くたびにキュウっと音を出す。普通に歩いているだけなのに、地面を引きずっているような音を立てる。足が上がっていなくて、擦って歩いているような音。自分の意識ではそんな感覚を持っていないが、音がそうであるように伝える。

 不快な音を響かせながら、昇降口までたどり着く。

 傘から落ちた雨水で至るとこに水が溜まっていて、それをいちいち避けて歩くのが面倒に思う。大股で跨ぎ、横に逸れる。真っすぐに歩けない不満が、イライラを掻き立てる。

 自分の下駄箱には何もない。みな、教科書を入れていたリ、きれいに飾っていたり、それぞれの色があるのに、俺のものには何もない。それが逆に自分のものであることを強く主張している。無色であることが自分であると。何色でもないことが、何にも代えがたい自分であると。そういう意固地な意思表示をしている。

 靴を履き替え、駐輪所に来る。

 雨のせいか、いつもより停まっている自転車の数が少なかった。いつもは数十台並んでいるスペースに、今日は6台。寂寥感を思わせる。

 傘を差しながら、自転車を操作する。

 条例だか法律だかで禁止されている気がするが、学校もいちいちそんなことを注意しない。教師たちも、注意する方が面倒だと感じているのだろう。ルールは言葉ではなく、空気で決められていく。

 雨は時間を経るごとに強さを増す。視界もままならない。マンホールの上でタイヤが滑り、思わずこけそうになる。けれども、地面を強く蹴り、何とか態勢を持ちこたえる。転びそうになっても、自分で地面をける。体は傾けど、地面をける力があれば、また漕ぎ出せる。


× × ×


 翌日は晴れた。

 地面に残る湿気と、木々から落ちる朝露が、昨日の残り香を漂わせる。

 昨日と今日は続いているのか、と思う。日が変わるたびにリセットされ、また一から日常が始まるのではなく、ずっと続く時間の上に、一日という区切りがあるだけで、それは断続的な物ではなく、一つにつながった、連続的なものなのだと気づく。

 今日は突然始まるわけではない。昨日から、一か月前から、一年前からずっと続いているものなのだ。

 そんなことを思いながらドアを開けると、昨日とはうって変わって、教室は騒がしさを取り戻していた。

 3、4人のグループがまばらに位置取り、その隙間を縫うように、一人でいる者が余白を埋める。

 その一人でいる者の中に、桃谷の姿を見つける。

 彼女は相も変わらず読書に勤しんでいるが、その顔に生気がない。ひどく暗い、影で大きく包まれたような表情だった。

 数日前の彼女の言葉が蘇る。


 『ちゃんと助けてよ』

 その言葉が動力となって、俺に声を出させた。

「なんかあったんか」

 俺の声に、一瞬驚いたような顔をする。そして、うつむいて、思考をめぐらしている。言っていいものかどうか悩んでいるようなそぶり。けれど、ゆっくり口を開く。

「ここでは言えない。あとで絶対に話す。絶対に……」

 語尾にかけて力が弱っていった。デクレッシェンドしていく声に、彼女の心中を慮らざるを得ない何かを感じた。

 彼女が話すと言ってくれたんだ。それを信じて、「おう、じゃあ後でな」と一言残し、俺は自分の席に着く。

 信頼も対話だ。相手を信じることが、対話することに意味を持たせる。

 彼女の背中を見る。

 それが厭に遠く感じた。

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