第7話 これから

 昼休み。

 白いイヤホンの線が風になびいて、服にこすれる音がコードを伝って耳に届く。ポケットでもまれて曲がったままの真っすぐに伸びることのないその丸まった線が、頬にちらちら当たって、煩わしさを感じさせる。

 けれどもそれを元あった形に伸ばそうとはしない。この丸まったイヤホンも音楽の一部で、きれいでない、整然としていないものを通って、美しい音楽が耳をつくのだから気持ちがいい。真っすぐなイヤホンでは感じられない、非常にアイロニカルな甘美さ。この美しさのために、俺はイヤホンを伸ばさない。ていうか伸ばすのめんどくさい。

 昨夕、先生から伝えられた過去、そして今日の奇行。どうにも頭の中がぐちゃぐちゃしている。

 先生は俺に桃谷を助けてくれと言った。しかし、今日はその桃谷をいじめている山川を焚きつけるような行動をとった。

 どうにも矛盾している。先生の言葉と行動には整合性がない。何か考えがあるのだろうか。それとも全くの気まぐれなのだろうか。考えても考えても結論はでない。

 そもそも先生はそれほど向こう見ずな、衝動に身を任せて生きているような人間ではない。もっと、先のことを見据えて、相手の立場を重んじて、自分の感情を押し殺すタイプだ。

 それなのにも関わらず、今日は問題の根本である山川をして、論理的ではない行動をとったのだ。きっと何か意図があるに違いない。ただ、それが何かはわからない。でも、あの人よくわからんんしなあ……。

 みたいな思考が頭の中をぐるぐるしている。

 聞いている曲が入ってこない。そんなことを考えているところに、屋上口のドアが開いた。

 扉の先にいたのは桃谷だった。しかし、その髪は濡れている。

「どうしたその頭?」

 俺の問いかけに対して、「ううん……」と切れの悪い返答をする。

「あいつらか」

 犯人の想像はつく。件の女子連中がまた嫌がらせをしたのだろう。

「うん……」

 震えた顔で小さくうなずく。目はうつろだ。

 彼女の全身を見ると、髪は濡れているが、制服は濡れていない。どうやら、不意を狙って上からバケツをひっくり返されてたとかではなさそうだ。

「何されたんだ?」

 下を向いたまま動かない。言い出すのをためらっているで、ただひたすらに悲しい表情をしている。

 これを話してしまうと、俺が何か奴らに対してアクションを起こすと思っているのだろうか。そしたら、俺は彼女の味方をしているのではなく、むしろ、彼女の障害になっていることになる。

 俺は彼女の心中を最大限推し量って、丁寧な言葉で提案する。

「聞き方が悪かった。もし、それを聞いて俺があいつらに仕返しをすると思ってるんなら、そんなことはしないと約束する。だから、話せる範囲で俺に話してくれないか?」

 彼女は今にも泣きだしそうな顔をこちらに向け、やっと会話をしてくれる。

「わ、私こそ、ごめん。此花くんのこと、変に疑っちゃった」

 一つ、深呼吸を置く。俺は何も言わない。

「今日の英語の授業あったでしょ」

「ああ」

 反抗を見せる山川に対し、先生が爆音で音楽を流した件だ。

「そのことでね、山川さんが腹を立てちゃって。それで、その怒りが私に向いたの」

 ここまではおおよそ予想がついた。先生へのやりきれない怒りを、自分に対して無害である桃谷に向けたのだろう。卑怯で低劣で脆弱な人間だ。

「さっき、私に『この間のこと、謝れ』って言ってきてね。一昨日、先生に脅かされたこと、私のせいだって」

 先生によって貶められた自尊心を、桃谷を使って補おうとしたのだろうか。だとしたら、たちが悪すぎる。桃谷にはいわれもなければ、謝らなければいけない理由もない。

「それで、謝ったのか?」

「うん。私が謝れば、それで気が済むならって」

 彼女は自分の痛みを引き受けることに慣れてしまっている。自己犠牲の果てに平和を保てるならそれでいいと、自分が悲しんでことが落ち着くならそれでいいと。自身と身の回りの平穏との引き換えを等価交換だと思っている。

 強い。確かに強いが、そんなことをずっと続けてしまっては。この先、自分を殺すことが、文字通りの意味になってしまうのではないか。そんな悪い妄想が浮かんでしまう。

「その謝ることと、髪が濡れていることにはどういう関係が?」

 桃谷の謝罪と髪が濡れていることのつなぎ合わせができない。

「私が、頭を下げて謝ったの。そしたらね……」

「頭から水をかけられたのか」

「うん、水筒に入ってるお茶を……」

 怒りが沸々と湧いてくる。

 これほどまでに優しい少女が、その優しさゆえに傷つけられている。こんな不公平な世の中に腹がたつ。

 山川が本来敵にすべきは先生のはずだ。山川を脅したのも先生だし、いいようにやり返されたのも先生だ。しかし、山川は先生にはその手をかけない。暴力という力が及ばないから。先生は打てどひるまないから。

 そこにつけて、自分より力が弱そうで、簡単に壊れてしまいそうな桃谷に標準を合わせている。彼女らは、実は弱いのが自分自身で、桃谷は自分よりよっぽど強いことに気づかない。スクールカーストという外的要因でした自分の強さを証明できないから、心の弱さに気づくことができない。自分より力を持っていない者をいじめることでしか力の存在を表現することができないから、その力が空っぽで脆いことを知ることができない。

 彼女らは桃谷のことを壊れないおもちゃだと思っている。しかし、この世に壊れないものなど存在しない。どんなものだろうと、傷つき、摩耗し、いつかは使えなくなる。桃谷とて例外ではない。ましてや彼女は人間だ。心のある人間だ。壊れない保証などない。

 そして、桃谷が壊れた時に、彼女らは初めて気づく。おもちゃだと思っていたものが、自身のアイデンティティを証明するものだったと。それ以外に何も持ち合わせてはいないことを。

「私は、大丈夫だから。だから、此花くんは何もしないで」

 少女は息交じりの壊れそうな声で言う。

 それは大丈夫という言葉を乗せるには、あまりにも弱い声だった。

「お前は、このままでいいのか。こんなことがずっと続いていいと思ってんのか」

「私が我慢して済むならこのままでいい」

 やはりだ。彼女は自己の犠牲をいとわない。

「いいわけがないやろ」

 このままでいいはずがない。

「でも、何もできないよ」

 問題の解消法などないという意味だろうか。

「でも、何かしないと、何も変わらないだろ」

 言っていて、自分の心臓がズキリと痛む。

「じゃあ、何ができるって言うの?」

 強い語調で、俺をにらみつけるようにして言う。

 核心を突いたようなその言葉に、俺は言い返す術を失った。

 何もできない。その通りだ。俺には現状を変えるだけの力も手立ても持ち合わせていない。

 俺の働きかけが山川たちの行動を止める理由にならないことはわかっている。

 けれど、彼女が痛めつけられることを許容することもまた、俺にはできない。

 俺は無力だ。何もできない。何も変えられない。

「じゃあ、なんでここに来た?本当はわかってほしいんじゃないのか。本当は助けを求めてるんじゃないのか。じゃなきゃ、こんな俺とお前しか知らない場所に来ないだろ」

 声の勢いが強くなっていることに気づく。感情に身を任せているせいだ。

 これでは、彼女を否定しているようになってしまうので、一つ咳払いをして、落ち着いた声で続ける。

「俺には何もできないけど、お前の味方になるくらいはできる。何もできない人間やけど、お前を助けようと努力することはできる。くだらない人間やけど、お前と一緒に傷つくくらいはできる。だから、もう自分を殺すのはやめろ」

「じゃあ、ちゃんと助けてよ……」

 彼女はそういうと、堰を切ったかのように泣き崩れ、冷たいコンクリートに座り込んだ。ため込んでいたものが一気に破裂したように、これまでそれをせき止めていたものが一息に壊れたかのように、涙として、感情が心から流れ出す。

 屋上には、彼女の嗚咽が響く。

 初めて彼女が見せた弱さ。

 これから、物語は始まる。

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