第8話 小さな音が、確かにその熱を伝える。
ひとしきり泣いて、平静を取り戻した桃谷の隣に座り、ぼーっと空を眺めている。
昼休みの喧噪が学校という空間を満たしている。
悲喜こもごも、学校という音はなんとも不思議だ。
あるものははちきれんばかりの笑い声をあげ、また、あるものは怒号をあげる。それらのすべてが楽器となり、音色となって、調和のとれた学校という音楽を演奏している。
その音楽が表現するのは、歓喜であり、悲哀であり、葛藤である。様々な感情が同時に奏でられ、それが大きな生き物として学校を飲み込む。
ソロを奏でるものがいれば、無限のように思える休符を抱えるものもいて、それらすべてが一つの作品作りの一端を担っている。
この屋上も例外ではない。
二人の間に言葉や音はないが、この沈黙さえ、ここでは音楽として成立する。無音もまた音で、けたたましい騒音に対比するように、静寂という音を奏でている。
聞こえる音だけが音楽ではない。先生はそう言った。その言葉に則れば、今、二人を包むこの凪もまた音楽だ。
何も話さない。
何も話そうとしない。
ただ、いっぱいに膨らんだ胸の中を落ち着かせるように、俺たちは何も話さない。
お互いがそれを厭わず、むしろ、安堵に似た感情を抱く。
先の光景が頭の中に浮かぶ。
『だったら、ちゃんと助けてよ』
彼女が初めて見せた弱さ。その意味。
言葉以上の質量がずっしりと体にのしかかる。
助けて、その一言のために、どれだけのカロリーを消費したのだろう。その一言が出るまでに、どれほどの苦しみを受け入れてきたのだろう。
彼女もまた人だ。決して、機械仕掛けの人形などではない。感情があって、心があって、悩み、苦悩する。電池の抜き差しで動くようなからくりではないのだ。
彼女は強い。それゆえの辛苦、それを堪え抜いた先に出た言葉。それが軽くあろうはずがない。
「一つ、聞いてもいいか?」
「うん」
俺の返答に何か吹っ切れたかのような明るい声で返す。
「先生には相談したのか?」
彼女が受けていたいじめ。それを受けて、先生に助けを請うたことがあるのか、単純な疑問を問いかける。
「ないよ」
きれいな声ではっきりと言い切る。
「それは何か理由があるのか?」
助けを求めない。彼女の性質からすればナチュラルなことなのかもしれない。それでも、ずっとそれを許容できるなんて人間はいないはずだ。
「うん。いつか終わるってずっと思ってた。こんなの一時の遊びだって、飽きたらすぐにやめてくれるって。だから、私が我慢したら、それで済むことだと思ってた。そしたら、何も問題は起きないだろうって」
これは彼女に生まれながらにプログラムされた思考なのだ。自分を捨てて、世の平穏を望む。自分というものをひどく過小に評価している。
訥々と彼女は続ける。
「あと少しで終わる、もうちょっとの我慢だってずっと言い聞かせてた。時間が過ぎればみんなも私なんかに興味なくなるって。けど、違ってた。彼女たちが興味あるのは、私なんかじゃなくて、私を蹴落としている彼女たち自身だった。自分への興味は尽きない。だから、これは終わらない旅なんだって。我慢がすべて解決するなんてこと、絶対にないんだって、やっと気づいた」
終わらない旅。彼女はそう表現する。これが旅なもんか。彼女は放浪しているだけだ、小さな島の中を。それが島だと気づかずに、地平が永遠と続くと思い込んでいる。堂々巡りを繰り返し、最後にたどり着く場所は、果てのない海だ。だだっ広い大海を見て、自分の旅が小さなものであったことに初めて気づく。この終わりのない行脚の先に待つものは、真っ暗な絶望に他ならない。
「お前自身はどうなるんだ。我慢の先に、自己犠牲の先に、お前自身の喜びなんて存在しないだろ」
「私はそれでもいいと思ってた。何も起こらないことが私の望み。ただ、空気のように、波風立てず、存在しないものとして生きたいと思ってた。そう、思ってた……」
突然、声がかすむ。
「今は違うんか?」
「うん。此花に出会って、自分本位なその生き方を見て、妄想してしまった。私もこんな風に衝動で生きられたらって」
衝動。それが彼女には足りなかった。自分を押し殺すことは、すなわち、衝動に逆らうということだ。衝動をかき消した、知性だけの人生、それが、彼女の歩んできた道なのだろう。
「それは褒められてるのか?遠回しにアホって言われてるような」
「はは。褒めてるよ。私にとってそれは最上級の誉め言葉だよ」
少し微笑んでそう言う。
「お、人間らしくなってきた」
「なにそれ、人をまるでロボットみたいに」
「上手に笑えるやん」
「そりゃそうだよ、人間だもん」
「そっか、人間やもんな」
「此花くんこそ、いつもしかめっ面で怖いよ。そうやって笑えるのに、もったいない」
「あの環境に置かれて笑えっていう方が難しくない?」
「そうだよね、あはは」
「なにわろてんねん」
「出た、関西弁のツッコミ。なんかかっこいいね」
「馬鹿にしてるやろ」
「してないよ」
「関西人はお笑いを馬鹿にされることに過敏やからな。気を付けた方がええで」
「ははは」
笑い声が二人の間を満たし、流れる時間を遅くする。
ひびいた笑い声が反射するあてもなく、空へと昇っていく。
そして、それに聞きほれるかのように、また二人に沈黙が流れる。
ただ、呆然と、空っぽの脳みそでフェンスにもたれかかる。
何もない。けれど、それが心地いい。
二人の影が平行に伸びて、格子状のフェンスの影に溶けていく。
足の影が動くたび、彼女が生きていることを実感する。ちゃんと動いている。それは規則的な整然とした動きではなく、気まぐれな不規則な動き。彼女が心をもって動いている。
「桃谷は、これからどうしたい?」
桃谷の影だけを見つめて、そう問いかける。
「私は……」
一瞬、声を詰まらせる。
その一言が、首元で滞っている。
その一言が、彼女の心をせき止めている。
少しうつむき、小さく息をのむ。
けれど、大きく首を横に振り、一つ決心したように、その影がこちらを向く。
「私は、私として生きたい」
彼女の方を向くと、真っすぐな目で、決意に満ちた表情で、こちらを見つめる。そこに、余計なものは何もない。
「よく言ってくれた」
彼女の決心に、もう、迷いはない。
彼女は彼女として生きる。自分の衝動で、自分らしく生きていく。
それが、ずっと彼女が心の奥底に閉じ込めていた願いだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
いや、今から授業が始まる。
彼女の授業が。
「なんか、授業でるのめんどくさくなってきた」
「私も」
「サボっちゃうか」
「うん!」
鐘の音が大きく鳴る。
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