第5話 火が灯る
赤く燃え上がる太陽は、グラウンドを鮮やかに染め上げ、ちぎれんばかりの声を張り上げてボールを投げて打っている生徒たちを克明に照らす。
木々が冷たい風に揺れ、新緑の青さが夕陽の色に対比して浮かび上がり、葉の隙間を通って地面に落ちる光が萌える。
放課後の夕景を眺めながら、先生はいつものように、たばこを一吸いしてはぼうっとして、また一吸いしてはぼうっとしてをただ繰り返している。
燃えカスがコンクリートの上に舞い落ちて、その鈍色に順化する。
「知ってたんですね、桃谷のこと」
あんな謀をしたくらいだ。当然知っていたんだろう。知っていて、俺のことを彼女に差し向けたのだ。
「おう」
いつもより少し深い声で小さく答える。たばこを持つ手以外は体を動かさず、声だけで俺の問いかけに返答した。
でも、不思議だ。先生は、仕事への意欲はないにしても、もっと、生徒たちのことは考えている人だ。その先生が、桃谷のことに関しては何も手を挟まない。頑として介入しないようにしている。先生の性格に照らし合わせると整合性のない状態だ。
「なんで何にもしてやらないんですか?」
俺の質問に対し、たばこを口につけてから煙を吐き出すまでの間隔が長くなった。じっくり吸って、肺を大きく膨らませる。ゆっくりとしたその所作が、どうにも心の平静を保つ行為に見えた。
「してやれないんだ」
長い間をあけてそうつぶやく。
先生の瞼が落ち、見える眼球の面積が小さくなる。
首を傾け、口の端は少し吊り上がっているが、目は笑っていない。アンニュイな表情。諦観という感情が顔に浮かび上がり、力が抜けているのがわかる。
普段、決して見せることのない表情に、かける言葉を見失ってしまった。いや、何も問いかけることを許さない雰囲気に恐ろしさを覚えたのかも知れない。
何も聞くな。この一線は超えるな。言葉さえないが、そういうことを言外の空気が伝えてくる。それを超えてしまえば、まるで先生の中にある大きなぬかるみに足を取られそうな、今後、先生を真っすぐ見つめることができなくなりそうな、そんな重み。
けれど。その線を踏み越えないことが、自分の人生において大きな後悔になりそうな、そんな気がする。何が起きるとかそんな長期的なものの見方ではなく、その線をまたがないことが、大きな傷となって、未来永劫、心を蝕んでしまいそうな。
「何があったんですか」
声になるかはわからなかった。けれど、俺の心がそれを音にしてくれた。
知ってしまう恐怖は消えない。同時に、知らないでいる恐怖も存在する。その二つの恐怖のせめぎあいの末、知らないままでいることにより大きな恐怖を覚えた。
「ちょっと、長くなるぞ」
たばこの火を消して、俺の方を向く。いつものような腐った色ではなく、目の奥には恐怖、悲哀、決意、さまざまな色が交錯していた。今にもそこから涙がこぼれてきそうな、ひどく弱った色。
ひなびた汚いフェンスに背中を預け、先生は座り込む。俺に同じことをするよう促す意味で、顎を少し上げ、合図を送る。
それを受け取った俺も先生と同じ態勢になり、フェンスにもたれ、冷たいコンクリートに腰を下ろす。
少しの間をおいて先生はようやく声を出す。
「俺が教師になって3年目、初めて担任をすることになった年だ」
枕は時系列。丁寧な話出しに、この話が相当な重さを持っていることに気づかされる。
俺は相槌を打たない。先生の発する言葉を、体をぴくりとも動かさず、心の器で受け取ろうと決めた。
「その時はまだ、今と違ってバイタリティにあふれる、若くて青い新米教師だった。教師という可能性を信じていて、本当に生徒に良い影響を与えるかっこいい先生になりたいと思っていた」
苦しそうな顔をしながらも、先生は続ける。
「もうわかるだろうが、俺がこんな感じになったのは、今から話す出来事がきっかけだ」
俺に語り掛けるが、こちらは見ない。ただ、虚空を見つめている。
「その初めてのクラスは、真面目な奴こそ少なかったが、笑いの絶えない、明るいクラスだった」
少し笑っている。楽しい思い出を想起した老人のような優しい笑顔。それが、後の暗さを暗示しているようにも見えた。
「そんな明るいクラスにも、一人だけ、ずっと一人でいる女の子がいた。誰とも話さずつるまず、空気に溶け込むように過ごしているような子だった」
おそらくキーパーソンになるであろう少女。
「学生の全員が輝かしい青春を享受すべきだと考えていた俺は、その女子をどうにかクラスの輪の中に入れてやれないかと思い始めた」
ゆっくりと、記憶の断片を繋ぎ合わせるような話し方。声音は暗い。
「いろいろやった。休み時間に一人でいる彼女に話しかけて、他の女子グループとの仲立ちをしたり、メールアドレスをクラス全員で交換させたり。けれども、俺の行動の効果が現れることは一向に無かった」
だんだんと話す速度が遅くなっていく。
「頑なに一人でいる彼女に疑問を持った俺は、ある日、彼女をこの屋上へ呼び出して話を聞いてみることにした10月のことだった」
空が暗くなってきた。
「俺の問いかけに対し、彼女は『なんでもない』の一点張り。それ以上もそれ以下も語らない。内側を決して見せないといった頑健さがあった」
夕陽に雲がかかり、辺り一面に影が落ちる。
「そして、最後に一言、『もうやめてください』そう言って、その場を後にした」
木が風になびく。
「そこでやっと気づいた。彼女は一人でいるんじゃなくて、一人にされているのだと。好き好んで一人でいるのではなく、クラスの輪から故意に外されているんだと。気づいた時には、もう問題は深く根を張っていた」
声がより一層、トーンを下げる。
「クラス全員から聞き取りをして、どうにか問題を解消しようとした。けど、誰も何も言わなかった。全員が口をそろえて『何も知らない』。それもそのはずだ。だって、彼女はクラス全員からいじめられていたんだから」
ドクンと心臓が大きく動いた。それと同時に、先生の話も動き始める。
「いじめは俺の目に入らないように上手に行われていて、俺が決定的な瞬間を見る機会は無かった。ただ一回を除いて」
先生の呼吸が荒くなる。
「それは、いつものようにここへたばこを吸おうとやってきた時だった。扉の奥から数名の女子生徒の声がする。何人かの笑い声と、一人の悲鳴。考えるまでもなかった。扉をけ破るようにして、怒号交じりに開けた」
夕陽はもう半分以上その姿を地平の奥に追いやっている。
「そこにいたのは、俺のクラスの中核をなしている女子生徒が4人。制服を脱がされて、下着姿の女子生徒が一人」
鼓動が速くなる。
「一人を囲んで、4人が服を剝がしている。携帯で動画を撮影しているような者もいた。それを見た瞬間、声が出るより早く、俺は4人を殴りつけていた。それも全力で」
息ができない。
「俺が殴った一人が頬から血を流しながら一言、『何も見えてなかったくせに、ヒーロー気取りかよ』。俺に向かってつぶやいた」
そして、世界の時間が一瞬止まる。
先生は深く息を吸って、吐く。
そして、しばらく動かしていなかった手をようやく上げ、たばこに一本、火をつける。手はぶるぶると震え、ライターの位置がうまく定まっていない。一呼吸空け、前後左右に右往左往する火がようやくたばこの先を捉え、煙が上がる。
細かく細動する身体を落ち着かせるように、先生は深く深く煙を吸う。
そして、煙と共に、物語のクライマックスを吐き出す。
「その瞬間、下着姿のまま、彼女は屋上から飛び降りた」
先生の口から告げられた物語の結末。
俺は一瞬、受け止めきれずに思考が止まる。空間から音がなくなった。色もなくなった。あるのは暗さだけだ。
太陽は四半分だけをのぞかせて、こちらを見ている。けれど、その光はここまで届かない。
カラスの群れが通り過ぎる。
「飛び降りる寸前、『さよなら』と一言だけ残した。人が飛び降りる瞬間を目撃した女子生徒たちは阿鼻叫喚。あるものは叫び、あるものは嘔吐し、あるものは逃げ出し。俺も頭が真っ白になって、何をすることもできなかった」
野球部がグラウンドを整備している。
「やっと思考が戻ってきて、彼女が飛び降りたところを見下げると、コンクリートに打ち付けられた頭から血が噴き出し、鈍い赤色で一面が染まっていた。四階分の高さからだと、詳しい情報は得られなかった。ただ、血が、この目に飛び込んできた」
夕陽があと1ミリで落ちる。
「後日、警察の捜査が入り、彼女の死因の究明が行われた。結論はもちろんいじめ。警察側はそれを公表したが、学校側はいじめの事実を否定した。SNSのなかった時代だったこともあり、その隠蔽が問題になることもなく、たったの数週間でそのほとぼりは冷めた。俺は学校に対し、事実を認めるよう訴えかけたが、そんな事実はなかったと押し通され、努力もむなしく、何も変わることはなかった」
一番のキーポイントを話し終えた先生は、肩の力が抜けたように、訥々と話す。
やっと声を出すことが許されたような空気が生まれ、俺は一つ、疑問を先生に投げかける。
「その女の子は死んだんですか?」
先生はその一言を避けていた。遠回りをして表現し、その言及はしないよう注意していた。
「ああ、死んだ」
先生はうつむく。自分を顧みるよう、顧みて後悔を真っすぐ見つめるよう、目を閉じて顔を下げる。
「教師は、何でもできるようで何にもできない。何でも知っているようで何も知らない。俺たちができることは限られている」
声はなお重い。
「だから、此花。お前が桃谷を救ってやってくれないか。いや、俺からのお願いだ」
そういうと先生は立ち上がり、襟を正した。
かと思えば、俺に向かって深々と頭を下げてこう続ける。
「桃谷を助けてください。お願いします」
聞いたことのない大きな声で、見たことのない綺麗な背筋で、そう告げられる。
先生が人に頭を下げることの意味を、俺は知っている。
彼が救ってほしいのは、桃谷と彼自身だ。
過去の後悔の檻から、自分を連れ出してほしい。言葉こそ違えど、言葉以外のものがそう訴えかけている。
桃谷は教室という牢獄に閉じ込められている。それと同時に、先生も過去という大きな牢屋から出られない囚人の一人だ。
彼は牢屋から出たい、そこから脱出して、光を見たい。けれども、自分にはなすすべがないことも知っている。
負の鎖に頑強に絡みとられ、動けなくなってしまっている。それが先生の痛みとなって、今、再び姿を現してしまった。
この傷が簡単に消えることはない。そう理解していても、癒えない傷から早く逃れたい。いや、救われたいという願いが、俺に伝えられた。
何も自分のことを話さない先生が、こんなにも心の一番奥にあることを話してくれたのだ。その思いの強さは考えるまでもない。ましてや、言葉を整えて、頭まで垂れている。その覚悟、その決意、計り知れないほどの感情が彼の中で渦巻いているのだろう。
それなら、俺は。
俺には何ができるのだろうか。
何をも持たざる者に、できることはあるのだろうか。
救われたことがない人間に、他人を救うことができるのだろうか。
自問自答は止まらない。止め方もわからない。湧き出る言葉、思考が、先生の願いに対して、適切な答えを与えられるのか、考えても、考え尽くしても、その答えは出てこない。どれもが正しくて、どれもが間違っている。先生の長年の苦しみ、それを考えると、論理では解きほぐせない。
それならば。
考えを尽くしてもろくな答えが出てこないのならば。それならば、論理の一切を放り投げて、衝動に心を託してみようと思う。
「ライター、貸してください」
論理ではない。
「ん?い、いいけど……」
理屈ではない。
「ほら、先生は新しいたばこくわえて」
すべては衝動だ。
「……深く吸ってください」
そして、火が灯る。この火が、俺と先生を照らす。
「このお返しは、俺が二十歳になったらください」
先生はにやりと笑って、いつものけだるげな表情に戻る。けれど、その眼はくすんでいない。
「洒落たことしてくれるじゃねえか」
「いつも先生ばっかりカッコつけてるんで、今日くらいは僕が」
日は落ちた。
喧噪もなく、ただ暗がりが広がっている。
しかし、この一点だけは、確かに赤く燃え上がっている。
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