第4話 僕らは

 

 ――ゴン。


 鈍い音が響いて教室が静まり返る。黒板の前には、こぶしを黒板に強く圧しつけた先生と、ひどく怯えた顔をした女子生徒。教室から音が消えて、皆が一つの方向を驚きと恐怖に満ちた目で見つめる。

「死のうとしたこともないやつが、『死ね』なんて言葉、軽々しく人に向けるな」

 先生が手をおろした。黒板には、手汗で滲んだ跡がある。こぶしは女子生徒に当たっていないらしく、そのことがようやく皆理解できたようで、教室中が安堵に似た不思議な空気で包まれた。

短く切られたスカートの下から、女子生徒の震えた膝が見える。顎をがくがくさせ、うまく出ない声で何かを言おうとしている。

「こ、こ、こんなことして、ゆ、許されると思ってるの?」

 必死で出した言葉には勢いがない。

「許す許されるの問題じゃない。これは教育だ。生徒が過ちを犯したら、それを正すのが教師の仕事。お前もわかったら早く席につけ」

「き、教育委員会に言いつけてやる」

「教育委員会が怖くて教師なんかやってられるか」

 いつもの声のトーンを取り戻した先生の声は、それまでとは一転して、その恐ろしさを消した。いつものけだるげな声。先の行動をとった人とは思えない。

「それではホームルームをはじめまーす」

 何もなかったかのように先生は日常を始める。その変わりようが、さらに仄暗さを演出した。

 女子生徒は恐怖と怒りが混ざった表情で自分の席へ戻っていく。道中、桃谷の方を睨みながら「あんたのせいだ」と吐き捨てた。

 ただの脅しだったとはいえ、あれは大丈夫なのか。

 その日は一日中、教室が静かだった。


× × ×


 屋上。ギターを取りに来たら、先生がいつものようにたばこを吸っていた。

 背後から静かに近寄り、驚かすように声をかける。

「あれは大丈夫なんですか」

 先生はぴくりともせず、ただ一点を見つめている。

「ん。まあ大丈夫だろ。なんとかなる」

「なんとかなるって他人事やなあ」

 先生の楽観性にはあきれる。

「一回壊しておかないとな」

「何のことですか?」

「いや、何でもない」

 いつもこの人は言葉が少ない。

「ていうか、何の用だ」

「別に要はないです」

「そうか」

「放課後にここでたばこふかした先生と話すのが日課になりつつあります」

「褒められたことじゃないな」

「受動喫煙で早死にしそうです」

 言ってから気づく。今朝の先生の行動の引きがね。

「あ、すいません」

 先生は怒るでもなく、たばこを一吸いする。

「まあ、なんであんなことしたのか、自分でもわからん」

「教育とかなんとか言ってたじゃないですか」

「それは後付けの言い訳。本当は体が勝手に動いた」

「意外ですね。先生はもっと行動のすべてに思慮深い人だと思ってました」

「人の本当の姿なんて、他人にはわからんよ」

「はあ」

 燻る紫煙が風に傾く。

「その様子じゃ、まだ本当の音が聞こえてないな」

「昨日言ってたやつですか」

 昨日の先生の発言を思い出す。『しっかり耳を傾けろってことだ。本当に聞くべき音は実は聞こえていないもんだぞ』。

「俺が原因で教室の空気が悪くなってること?」

 それは火を見るより明らかなことだ。

「・・・30点ってとこだな」

「難しいな」

「まあ、答えを急ぐな。時間はいっぱいある」

 先生が何かを意図していて、俺に何かを促していることはわかる。ただ、それがいったい何なのかはまだ分からない。

「たばこ吸ったらわかりますかね」

「子どもにこの味はわからん」

 にやっと口角を挙げて、不敵に笑う。いつもの先生だ。日常が返ってきたことに安心し、ふっと小さく笑みがこぼれる。

「もう大人に片足つっこんでますよ」

「まだまだ子どもだ」

 まだ半分以上残っている一本を銀色の携帯灰皿の中にぐりぐり圧しつけながら、「まあ、頑張ってくれ」と一言残し、屋上を後にした。

 先生の言葉は文字数にすれば少ないが、文字の多さ以上の重みがある。軽薄な冗談も大切な話も、いつも俺の心にずっしりと居座って、先生の存在を大きくする。

 残ったたばこの匂いが地平に消えていく太陽になじんで溶けて、一日の終わりを遠回しに示唆する。ふと階下を見遣る。桜の木が緑の葉をまばらに設えて、地面を埋め尽くす花弁が風にわき立つ。それが自分と地面との距離を存外遠くないものと錯覚させ、夕に蕩けた身体の力が抜ける。

 ふらっとフェンスに向かって倒れこんでしまう。ハッとしてフェンスにしがみつき、自分が世界に存在していたことを思い出す。シャツが錆で汚れ、ふわりと風が吹く。午後5時。チャイムが鳴った。


× × ×


 SNSの件があってからギターを弾きながら歌っていなかったので、体がなまらないように歌おうと、家の近くの公園に来た。

 4月の午後6時はまだ明るいが、いつもより人通りは少ない。歌うには絶好のロケーションだ。ここは大きな公園ゆえに近隣住民の気を遣う必要もないし、何より、変な人が多々徘徊しているので、一人少年が歌っていようがさほど目立たない。

 濁った池に向かうかたちで芝生に座り込み、ギターを取り出す。手になじむアコースティックギター。チューニングもせずにはじくGM7が、どこか間抜けな響きを感じさせ、これはこれで乙だとさえ思ってしまう。ローファイな空気があたり一面を覆った。

 初めのチューンは七尾旅人で『サーカスナイト』。メロウな温度が宵の口を淡い色で包む。グルーヴ感に酔う。


× × ×


 朝、教室にて。

今日更新された漫画をひとつずつ読みつぶしていく。もちろん、教室の喧噪のなかでは、得られる情報量は半減してしまう。けれども、話す友達がいない、読書なんかして変な目立ち方をしたくない俺にとっては、こうして聞き耳を立てながら漫画を読むという、何者でもないという主張を伴った行為が、最適な時間のつぶし方だ。

 ファンタジー系のザ・少年漫画を読みながら、聴覚から得られる教室の情報を拾っていく。

「みほー、おはよう」

 ――ガン。

「おはー。昨日のストーリーみたよ」

 ――ガタン。

「そうそう、あいつマジで歌上手くてさー」

 ――ガン。

 不可解な音のなる方を見ると、桃谷が座っている席が数人の女子生徒によってずらされていく。通りすがりに身体を当てる、後ろ向きで蹴る、明らかに故意的に行われるその行動に、彼女らはさも何も起こっていないように会話を続ける。

「だれかさんよりよっぽどうまいじゃん」

 まだ不快な音は続く。

「だよねー。歌手になれるんじゃね?」

 ――ガタン。

「お前ら、地元おもんないんやろ」

 我慢ができなかった。

「こ、此花くん、大丈夫だから。大丈夫だから……」

「俺の地元やったらそんなんで誰も笑えへんけどな」

 別に助けようとかそんな大義ではない。

「は?なんのこと?全然わかんないんですけどー。絡んでこないでくれる?」

 ――ガシャン。思い切りこいつらの机を蹴飛ばしてやる。

「何よ急に!あんたには関係ないでしょ!」

「や、やめて、此花くん。ほんとに、大丈夫、だから……」

「俺の気が済まんねん」

 その瞬間、ドアが開く。

「なんだー、久々に早く出勤したら喧嘩か」

 先生が珍しく、チャイムが鳴る前に教室にやってきた。

「これ以上はお互いやめておこうか。仕事増やすな」

 昨日の件があったためか、女子連中はそそくさと教室から出ていく。

「此花、昼休みちょっと話そうか」

「……はい」

「桃谷さんも来てくれるか?」

 小さくうなずく。

「わ、わかりました」

 暗い。ただ暗い。俺の行動が、彼女の表情を暗くしていく。


× × ×


 ちょっと話そうかとは言われたが、場所を伝えられていなかったのでとりあえず屋上に来た。なお、先生はいない。

 いちいち職員室に行くのもめんどくさく、先生を探し回るのも嫌なので、ここで待つことにする。

 適当におにぎりを口へ押し込み、ただ、ぼーっと空を見つめる。10分たっても先生は来ない。

 そこへ、屋上口のドアが開く。

「こ、ここにいたんだ」

「……おっす」

 桃谷が重い足取りで歩いてきて、よそよそしく少し俺との間隔をあけて座る。

「朝は悪かったな」

「いいの、大丈夫」

 その「大丈夫」が、本当に大丈夫な人のそれではなかった。一瞬、沈黙が走る。

「俺がきっかけでああなったんか?」

「うーん、始まったのはもっと前。去年の冬ごろ」

「去年?」

「そう。私、こんな性格だから、間違ってることははっきり間違ってるって言っちゃうの。それで山川さんを怒らせちゃってね」

 山川とはあの陰湿な行為をしていたグループの代表格だ。

「運悪く今年も同じクラスだったのか」

「うん」

「でも、俺関係でもめてなかったか?」

「うーん。男子たちが此花くんの動画見て、馬鹿にしたように真似してたから『キーが違うよ』って突っかかっちゃって。その男子が山川さんと付き合ってる人だったみたい」

 坦々と話す。

「それは災難やったな。俺のためにすまんな」

「ううん。いいの。私が言いたくて言ったんだし」

「そうか……。去年からあんな感じなのか?」

「いや、去年は小言を言われてたくらい。あそこまで露骨になったのは最近かな」

「やっぱり、俺が原因か」

「此花くんのせいじゃない!これは私が悪いの」

「いやでも……」

「ほんとに私の問題だから。大丈夫。きっと大丈夫」

 消え入りそうな声でそう言う。

 彼女はきっと強いのだ。強いゆえに、我慢することに慣れてしまっている。自分を犠牲にすることに抵抗がなくなってしまっている。

「俺が、何とかする」

「え?」

 俺の音楽を肯定してくれた、こんな優しくて強い人が虐げられていていいはずがない。何はどうあれ、俺が原因でことが大きくなったのは事実だ。自分のケツは自分で拭く。彼女を悲しませていい理由は存在しない。

「俺が何とかするから」

「どうにもならないよ」

 寂しそうに言う彼女の顔には諦めが浮かぶ。

 言葉が出なくなった。

 お互いの距離以上に二人を遠ざける沈黙が走る。

 彼女には彼女の正しさがあって、俺には俺の正しさがある。それは理屈なんかでは分解できない。すべては衝動だ。衝動が人を突き動かす。

「そういえば、先生来ないね」

 沈黙を割ったのは彼女の声だった。この話を終わらせようと、別の話題を提示する。

「そうやな。なんやあの人は」

 俺と桃谷が二人で話すよう謀ったのだろう。憎い人だ。

 また、静寂が二人を包む。

 話したいことはあるのに、それを遠ざけるように、ただ何も話さないようにしている。

 昼下がりの空は青い。僕らは。

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