第3話 燃える音


「俺と一緒に音楽やらんか?」

 

「――ごめん、それはできない」

 あっさり振られた。彼女はまじめな顔をして、俺の目を真っすぐ見つめて答える。

「そっか、そうやんな。今さっき知り合ったばっかりやもんな」

「いや、それが理由ではないんだけど・・・」

 歯切れの悪い、もごもごした語調だった。

「いや、俺も口が勝手に動いただけで、具体的なことは何も考えてなかったし、気にしなくて大丈夫」

 あれは確かに脊椎反射のような言葉だった。言葉が脳みそを通っていなくて、ただ声帯と心臓だけが動いていた。

「でも、歌、うまいな」

「・・・歌がうまくてもそれ以外がそろってなければ意味ないよ」

 含みのある言い方だ。

「なんかあるのか?」

「う、ううん。なにも、ないよ」

 とぎれとぎれのぎこちない言い方。きっと彼女は嘘がつけないのだ。

「まあ、話したくなったら話してくれ」

「うん。ありがとう・・・」

 気遣いというよりは、聞いても何もできないだろうという諦観が、それ以上の詮索を俺にさせなかった。人は思っているより無力だ。なんでもできるなどとは驕ってはいけない。

「それじゃ、いくね」

 弁当を半分以上食べ残し、手早く片して立ち上がる。

「おう、また歌ってくれ」

「うん。きっと」

 彼女は向こうへ歩きながら手を振る。表情筋は笑っているが、その奥が笑っていなかった。何かを覆い隠すような笑顔。その悲哀に満ちた顔が脳にこべりついた。

 4月の屋上はまだまだ冷たい。握りしめたネックの熱が引いた。ひなびたフェンスが渇いた音を立てる。


× × ×


 予鈴の音に、極上のリスニングタイムを遮られ、重たい身体を引きずりながら教室の前まで戻ってきた。ドアを開けようとしたところ、中から騒がしい声が聞こえる。

「なに、お前。あいつとできてんの?」

「そんなんじゃない。ただ、彼の曲を馬鹿にしたのが許せないだけ」

「やっぱりできてんじゃん。じゃなきゃ、あんな奴の肩もったりしないでしょ」

「あなたたちは惚れた晴れたでしかものを考えられないの?」

「好きぴ馬鹿にされて怒っちゃった?ごめんねー」

 汚い笑い声が聞こえる。その声をかき消すように、ガラガラっとドアを開ける。渦中の人たちは俺を一瞥するや否やそそくさと自分の席に戻っていった。やっぱり俺の話題だったか。

 教室中の人間が俺を意識していることが伝わってくる。こちらを意識していることが悟られないようにあえて見ないようにしようという意識。よどんだ汚い空気だ。気持ちが悪い。

 本鈴が鳴り、先生が入ってくる。ちなみに俺が先生と呼んでいるのは、担任の鶴橋洋二だけだ。

「なんだ、空気が汚いな。まあいいか。はい起立」

 先生は、目は死んでいるのにいちいち鋭い。まあいいかってなんや。

「まずは、毎回恒例、先生の好きな洋楽紹介のコーナー。パチパチパチー」

 ダルそうな声で明るいことを言う。あんな感じだが、一応英語教師だし、音楽が好きらしい。

「今日の曲はこちら。Lauren Spencer-smithで『Flowers』」。それでは聞いてみましょう」

 いつも携帯しているスピーカーを生徒の方に向け、スマホをタップする。

 きれいな丸い音のピアノのメロディから始まり、洋楽特有のリズム感のある歌が続く。節々で韻が踏まれており、耳が気持ちいい。

 曲を通して、シンガーの歌唱力が前に出るようビートはシンプルめ。バラード調の曲で、なんとなく別れのことを歌っているんだろうなということしかわからなかった。

「はいー、いい曲ですね。じゃあ、此花。サビのこの歌詞を訳してみようか」

 そういうと、黒板にすたすたと歌詞を書き始めた。


 『Young people fall for the wrong people, guess my one was you』


「えーっと、『若者はみな間違っている。がたがた言うなら直接言うて来い、あほんだら』ですかね」

「思想強すぎるな。全然違うぞー」

 中身に深く触れず、あっさり受け流す。

「正解は『若者は間違った人と恋に落ちる。私にとって、それはあなただったみたい』でしたー。いい歌詞ですね。君たちもさぞ、誤った恋を繰り返していることでしょう。この人、他にもいい曲いっぱいあるから聞いてみてねー」

 この状況で俺を当てるとか、あの人は性格が悪すぎる。一体、何を考えているんだか。

「じゃあ、授業始めるぞー」

 俺の方をちらっと見る者、半ばねめつけるように一瞥する者。今日も世界は平和だ。流れた曲のメロディが頭の中を駆け巡る。


× × ×


 放課後の屋上は鮮やかなオレンジ。運動部の声が学校中を貫き、吹奏楽部やら軽音部やらの出す楽器の音が青さを演出する。皆がみな自分の居場所を持っていて、それに彼らは気づかない。居場所とはなくなって初めてそれと知ることができ、その中にいてはここが自分の居場所だと知覚できない。居場所とはコーヒーのようなものだ。なくなって初めて、それに依存していたことに気づく。

 俺はというと、缶コーヒーを片手に、たばこをふかす先生とただ沈黙を共有している。

「話って何ですか?」

 ホームルームが終わるとすぐ、先生に屋上へ来るよう言われた。話があるとかなんとか。

「いや、特に話したいこともないんだけどな」

「なんだよ、呼び出しておいて」

「まあ、あれだ。教室の空気、淀んでたろ」

「はい」

「あれ、お前関係だよな」

「多分そうです。詳しくはわからないですけど。みんな俺の前では話題にしないようにしてるんで」

「そうか」

 夕陽に向かって煙が昇っていく。その煙が赤く燃える夕陽に重なり、鮮やかなはずの橙色が少し濁る。

「・・・」

「・・・」

 沈黙が身体を温かく包む。居心地が悪いと感じず、むしろ、これ以上ない安心感さえ覚える。

 言葉だけが会話ではない。空気、におい、音。そういったものもコミュニケーションの一部だ。先生の持つそれらの要素が言葉以上のものを語っている。伝えようとしているのではない。気づかせようとしているのだ。

「音楽は好きか?」

「ん?は、はい。もちろん好きですけど・・・」

「じゃあ、音楽ってなんであんなにも良いと思う?」

「なんでしょう、興奮というか悲しみというか、そういう感情と聴覚が直結してるからですかね」

「そういう要素もあるだろうけど、もっとシンプルなことだ」

 先生はわざと一つ間を置く。

「シンプル?」

「目に見えないからだ」

「はあ・・・?」

 目に見えないから?理解が及ばない。

「目に見えないから、日常に溶け込む。視覚情報が人間の受け取る情報のなかで70%ぐらいを占めるっていうのはよく聞くだろ」

「はい」

「人は目で見て生きてるから、耳でしか聞けない音楽は人の生活に入っていける。日常の行動の裏にあってもそれを邪魔しない。だから音楽はずっとあるんだよ。でも、多くの人はそれを素通りしていく。聞いてるようでも実は聞いていない。耳には入っているが聞こえていない」

「どういうことですか?」

「しっかり耳を傾けろってことだ。本当に聞くべき音は実は聞こえていないもんだぞ」

 本当に聞くべき音。先生が何を指してそう表現したのかはわかりかねる。が、確かに何かを気づかせようとしている。

「答えは教えてくれないんですよね」

「自分の耳で聞け」

 そういうと先生は、携帯灰皿にたばこを圧しつけて火を消した。黒い革靴に灰が落ちている。

そして、「仕事してくるわ」と一言残して、屋上を後にする。

 残された俺は、ただ真っすぐ夕陽を見つめる。焼けてしまいそうな目が痛い。軽音部が演奏するへたくそなモンパチが耳を障る。


× × ×


 事件は翌日起きた。

 あくびをしながら教室のドアを開けると、一人の少女の机を囲んで3人の女子生徒が何やら詰問している。

「だからー、なんだよその口の利き方はって聞いてんの」

「私はただ、間違っていることを間違ってるって言っただけ。そもそもあなたと私は対等な関係。上下関係がなければ、口の利き方もなにもない」

「は?キショ。陰キャのくせに出しゃばってんじゃねえよ」

「それもあなたが勝手に決めた区別。別に私を拘束するものじゃない」

「っとにもう!ああ言えばこう言う。まず、みほに謝れよ」

 座っている少女は桃谷。それを囲うようにして、クラスでも存在感の大きい女子たちがその激昂を彼女に向ける。

「あ、此花来たよ」

「ほんとだ。ねー、このはなー。あんたこいつとできてんでしょ?」

「別にできてないけど。何なら昨日初めて話したし」

「はー、白々しい。ほんとにキショいわ」

「ほんとそれ。陰キャカップルってか。逆にお似合いじゃね?類は友を呼ぶてきな?」

 発想が乏しければ語彙も貧困な罵声に、もはや腹立ちもしない。けど、言われっぱなしも癪だから彼女らが一番言われたくないであろう言葉を刺しておく。

「お前ら、今日の化粧失敗した?」

「「「はあ?」」」

 3人同時に同じ反応をした。ダグトリオみたいだ。

「いや、えらい眉間に皺よってたから。てっきりアイシャドウ塗る場所間違えたんかと思ったわ。それともあれか。ヒアルロン酸足りてないんか。まあ、どっちにしてもごっつい醜いぞ」

 こういう奴らは、自分がかわいいことが至上のアイデンティティで、それを否定されると、いてもたってもいられなくなる。

「マジできもいね、あんた。」

「きもくて結構。あなた方のような見る目のない人間にきもいと仰って頂いて、大変僥倖にございます」

「死ねよ」

 ――バン。腹を立てたそいつは、八つ当たりのように桃谷の机を強く蹴った。机が大きく音を立てながらその位置をずらした。桃谷は一瞬ビクッととして、何もなかったかのように机を元あった位置に戻す。彼女はわかっている。ここで怒りを発露してしまっては、こいつらと同族になってしまうと。感情に任せて何かを言ってしまうと、こんな低俗なやつらと並んでしまうと。だから、歯をかみしめて、心を押し殺す。

 タイミングよくチャイムがなり、女子生徒たちは散っていく。俺はすぐさま桃谷のところへ駆け寄り、声をかける。

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫。机がずれただけ」

「ごめん。なんかいらん事言うてもうたわ」

「ううん、私の代わりに言ってくれてありがとう」

「そんなつもりでもなかったけど・・・」

 そこへ、先生がいつものような腐った目を携えてのそのそ教室へ入ってくる。

「なんだー、揉め事かあ。俺は放任主義だから、絶対に介入しないぞ。自分たちで解決しろよー」

 なんともやる気のない発言だ。ほんとに教師か。

「せんせー。私たちが此花の弾き語り(笑)の“感想”を言ってたら、なんかあいつが突っかかってきてー」

「そうそう。なんか『あなたたちみたいな低劣な人間には彼の曲は理解できないよ』って。ほんと何様だよって感じ」

 桃谷の方を指さし、女子生徒たちは不満を垂れる。

「まじで死ねよ」

 それを聞いた先生は丸い背中を少し正した。

「そうかあ、じゃあお前ちょっと前出てきて」

 そういうと指をくいっと動かし、女子生徒に教壇に上るよう促す。

 女子生徒は首を傾げながらすたすたと歩き、先生の隣に立つ。

「俺の方向いて立って」

「なになに、告白?」

 冗談を言う女子生徒を、黒板に対して横向きに立たせ、先生とは向き合う形で一瞬間を置く。

「なんなの、そんなに見つめて。私に惚れた?」


――ゴン。


 鈍い音が教室中に響く。

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