第五章 呪鬼滅殺
「嘘、でしょ……?なんなのよ……」
三笠は後退りした。
渦を巻く黒影は、緑色の液体を流しながら三笠に近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。その遅さが、逆に三笠の恐怖心を掻き立てた。
「やめて、来ないで、嫌だっ!」
〈コロス……コロス……〉
三笠の背中が何かにぶつかった。瞬時に振り返ると――ブロック塀だ。しかも、自分の家の。
黒い影の目と、三笠の目が合う。
〈コロス……コロス……〉
影は、三笠の方に寄りながら、自分の傷口を修復しているようであった。だんだんと、緑色の液体の量が減っていく。そして―――すぐに、黒い影はまた元の円形の渦へと変化した。
三笠は、その様子をただ見ていることしかできなかった。もう、足が動かない。全身を恐怖が支配する。
「やめてよ、来ないでってば……」
〈コロス……コロス……〉
再び、闇の中から手が伸びた。今度は八本。それが、三笠へと伸びる。
〈オシマイダ〉
恐怖。
(もう逃げられない―――っ!)
三笠は思わず目を瞑った。
しかし、いつまで経っても黒い影は来ない。代わりに、何かを斬る音がした。そして、聞こえるあの悲鳴。
〈ギャアアアアアアアアアア〉
「え……?」
三笠がうっすらと、目を開けると。
「……ハル、くん?」
明るめの短い髪が、街灯の光に照らされている。なんと、三笠の前にはクラスメイトである賀茂晴が立っていたのだった。
「ミカサ。怖い思いをさせて、ごめん」
彼は、そう言いながら左手に持っていた“紙”を右手に持ち替えた。
「でも、もう大丈夫だよ。俺たちが来たから」
「ハルくん……それはどういう」
三笠が訊ねようとしたそのとき。
また、別の声が聞こえた。
『ハル、行くぞ』
「おう」
それに応えるハル。三笠の目が見開かれた。
(この声は……アキ、くん……?)
ハルの双子の兄・賀茂明だ。なぜ、双子がここにいるのか。そして今から何をしようとしているのか。
何もわからないまま、三笠はただ呆然と、二人のなすことを見ていた。
『大八島(おおやしま)を神代(かみよ)より守りし神々よ』
二人の声が合わさっていく。
『天空に君臨する我が祖先神よ』
二人の言葉は、不思議な旋律を持っていた。まるで、神社で聞く雅楽を奏でているかのような、音色。それが今、ハルの持っている紙――お札に吸い込まれていく。
『世の安泰を乱す悪鬼呪魂を祓う御力、我らに貸し給え』
道の向こうから、アキも歩いてくる。そして、ハルとともに、その黒い影を挟みうちにする構えを取る。
『護神九字――臨兵闘者皆陣烈在前!』
二人の両手が、妖しく動いた。
そして、その呪文を唱え終わったとき、ハルは“跳んだ”。
「“呪鬼”は死ねぇぇぇぇ!」
光るお札が、ハルの右手から放たれる。それは、まっすぐに飛んで影の渦へと貼り付く。
そして――――
〈ギャアアアアアアアアアガアアアア〉
影の断末魔が空気を揺らし、
『呪鬼滅殺。』
“それ”は跡形もなく、塵となり消え去った。
ハルが、シュタッと静かに地上へと降り立つ。しばらく、静寂が場を支配した。ブロック塀に背中を預けていた三笠はというと、足の力が急に抜けたのか、ヘナヘナと地べたに座り込んでしまっていた。
沈黙を破ったのは、アキ。
「天乃三笠」
眼鏡のフレームに手を当てながら、三笠の方を見る。
「驚いたか?」
こっくりと頷く三笠。それを見てハルが笑った。
「ミカサ。驚いたっていうより、怖かったんじゃない?」
――図星だった。三笠は道路に座り込んだまま、涙を流し始めた。
「ハルくん、アキくん、あれ、なんなの?怖いよ、怖かったよぉ……」
「ごめん、でも俺たちが退治したから大丈夫だよ」
慌てて慰めようとしたハルを、アキが横目で見る。
「おい、言葉で慰めるより手を貸せ」
アキは三笠に向かって手を伸ばした。ハルも、ようやく気づいたというふうに手を伸ばす。そう、天乃三笠は地べたに座ったままだったのだ。
「せーのっ」
二人で三笠を引き上げる。
「ほんとに、すまない。怖かっただろう」
眼鏡の奥の目で、優しく笑うアキ。
「ミカサ、ほんとにごめん。でも間に合ってよかった」
ハルも安堵の息をつく。
三笠は涙を袖で拭いながら、二人に訊いた。
「あれは……あいつは、何者なの?」
あの、黒くて禍々しい、緑色の血のバケモノは。
「ああ、あれは、『呪鬼』」
「ジュキ……?」
「そう」
ハルが三笠の目を見て言った。
「よかったらそれについて、ミカサに話したいんだ」
アキが続ける。
「明日の放課後、教室に残っていてくれないか?」
三笠は戸惑いながらも、心を決めて頷いた。
「わかった。私もアイツ――『呪鬼』について知りたい」
「ありがとう」
双子は少し笑った。
「じゃあ、また明日、学校で」
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