Vergessenー4

 目の前に広がる川は一面が茜色あかねいろに染まっている。

遠くで夕方五時を知らせるかねの音が聞こえる。

足元の土の感触も、遠くに見える四つ並んだ煙突も良く知っているものだ。

どれもなんだか懐かしい気分にさせてくれる。

あれ?ここはどこだっけ?

私はここを知っているはずなのに。

思い出せない。いや、思い出したらいけない気がする。

そんなことを思っている内に、私の目の前はゆっくりと真っ暗になっていった。

意識がぼんやりとする。そのせいか視界はぼやけ、体に力も入らない。

それになんだか寒い。ゆっくりと意識が暗闇の中に落ちていくのを感じる。


「・・・・い、・・おいっ! しっかりしろ!」

聞き覚えのない声と頬を叩かれた衝撃で私はハッと目が覚めた。

声の主であろう私の目の前にいる男性は一瞬ホッとしたような顔を見せたが、

すぐに険しい顔で私を睨んだ。

「まったく、こんなとこで昼寝なんてしてんじゃねえよ。

まぎらわしい。死んでんのかと思っただろうが。」

「え・・ええと」

まだ頭がぼうっとしていて思考がまとまらない。

ぼんやりしている私を見て男の人はチッと舌打ちをしたかと思うと

「いつまでもボケっとアホ面晒してんじゃねえよ。

何ともないんならさっさと立ちやがれ」

「なっ・・!」

なんて失礼な人なんだ。初対面の人間に対してそんな言い方する?

私に悪態をついた男は男性にしては少し長い髪をくしゃくしゃとかきながら

立ち上がると、作業着のポケットに手を突っ込みごそごそと何かを探し始めた。

よく見るとこの人、校門前で見かけた変な人だ。

朝見た時は遠くて気付かなかったが、中々整った顔立ちをしているし、

二十代くらいだろうか? 思っていたより若そうだ。

マキちゃんの審美眼しんびがんも中々のものらしい。

しかし、それをかき消すほどのどんよりとした暗い雰囲気が全身からき出ている。

こういうのを負のオーラっていうのかな?

私がそんな失礼なことを考えているのに気付いたのか、

男はまたもや私を睨んできた。

「な、何ですか? 何か用ですか?」

その鋭い視線に少し萎縮いしゅくしながらも問いかけた。

「そりゃこっちのセリフだ。いつまでそこに座り込んでるつもりだよ。

元気で用が無いならさっさと立ち上がってもらえるか。

通行の邪魔になってるんでな」

「えっ?」

そう言われて初めて自分がどこにいるのか気付いた。

私たちのクラスがある本棟ほんとうと違い、

蛍光灯が切れていたり壁に目立つ汚れがあったり、

目に入る色々なところから掃除や整備が行き届いてないことがわかる廊下。

見慣れたこの景色は旧音楽室がある芸術棟の一階の奥の方で、

私が背を預けていたの倉庫の扉だった。

紺色こんいろの作業着を身にまとい、ここに用事がある人間。

なるほど、この人は新任教師ではなく用務員さんだったのか。

その証拠に首から『臨時用務員 坂木』と書かれたネームプレートを下げている。

「すいません。すぐに退きます」

私は慌てて立ち上がり、ドアから離れた。

あれ? でもどうして私はこんなとこにいるんだろう。

さっきまで教室で授業を受けていたはずなのに、ここに来るまでの記憶が無い。

用務員は私が悩んでいることを

気にも留めない様子でポケットからカギを取り出すと、

倉庫のドアを開け中に入り、中を物色ぶっしょくし始めた。

私がそれをなんとなく目で追っていると、目当ての物を見つけたのか、

くるりとこちらを振り返った彼と視線が交わりドキッとした。

顔だけは整っているので不意に目が合うと心臓に悪い。

「授業サボってまですることがこんな汚い所で横になることって、

あんた余程暇なんだな。もうちょっと真面目に生きろよ高校生」

男はそう言ってバタンと倉庫を閉め、歩き始めた。

「・・・・・・はあああ!? 何よそれえ!」

この日、私は生まれて初めて学校で叫んだ。


 私が叫ぶとほぼ同時にチャイムがなった。

芸術棟の廊下に響き渡る鐘の音に

正気に返った私は校舎に備え付けられている時計に目を向けた。

時刻は午後五時を指しており、もう既に放課後だった。

やばい。私学校サボっちゃった。心臓が焦りでバクバクと音を立てる。

一日サボっただけでこうなるとは、私ってこんなに小心者だったのか。

自身の意外な一面に軽く失望しかけた時、私はハッとあることを思い出した。

そうだ、今日は柏木先輩とも約束してたんだった。

まだ待っててくれてるかな。ここからなら旧音楽室の方が教室より近い。

何も言わずに待たせるのも悪いし一旦教室に戻る前に先輩に挨拶に行こう。

そう決めた私は廊下を歩き出した。

心なしか歩調が速くなる。何だかんだ柏木先輩に会えるのが嬉しいんだ。

さっきまでとは違う理由で心臓の鼓動が大きくなる。

なぜあんな所で気を失っていたのか、

その疑問はすっかり私の頭の中から抜け落ちていた。


 旧音楽室は芸術棟の三階にある。

芸術棟は変わった造りをしていて、縦に細長い直線状の建物だ。

上から見ると一本の棒のようになっている。

正門から玄関の下駄箱へ入り、

本棟とは逆方向の廊下を進むと芸術棟の入口が見えてくる。

芸術棟には校舎に入ってすぐ目の前にある階段と

入口から見て一番奥の非常口から外に出ると上れる非常階段の二つがあるのだが、

非常階段の方は老朽化ろうきゅうかが理由で使用禁止となっている。

まあそんな不便な所にある階段をわざわざ使う人もいないのだが。

私が目を覚ました倉庫は芸術棟の一階の一番奥、つまり非常口の目の前にある。

なので私はまずは階段を上るため、廊下を入口に向かって歩き出した。

私が芸術棟の廊下を歩いていると階段の手前の部屋の扉がガラガラと開いた。

「げっ」

出てきた人物を見て思わず嫌な声が出た。

相手も同じ気持ちだったらしく、私を見るなり露骨ろこつに嫌な顔をした。

「げって何だよ。失礼なやつだな。高校生でそんなだと将来苦労するぞ」

用務員の坂木は再会して開口一番、またもや私を嫌な気分にさせた。

「それは失礼しました。これから気をつけますぅ。

私もどっかの用務員さんみたいに性格の悪さが口にでてしまったら困りますもの」

「ほほう。最近のガキにしては度胸があるじゃねえか」

「なにぶんまだ高校生なもので、大目に見てもらえると嬉しいです」

第三者がこの光景を目の当たりにしたら

バチバチと火花が飛び散っているのが見えるんじゃないだろうか。

「ふんっ!」

私たちは互いにそっぽを向いて歩き出した。

用務員の坂木は階段を上がっていく。数メートル離れて私も同じ階段を上る。

「何ついてきてんだよ」

「私もこっちに用事があるんですぅ」

私はしかめっ面を向けて言い返した。

ついついむきになってしまった。普段はこんなことないのに。

いつもの私なら適当に謝って、波風立てないようにしていたはずだ。

どうしてこんな子供っぽいことを・・・・

こんなに感情をかき乱されるのは最近では柏木先輩のピアノを聴いてる時くらいだ。

感情の内容は全然違うが。

そうこうしているうちに旧音楽室がある芸術棟の三階が見えてきた。

前を進む用務員が階段を登り切ろうとした瞬間、

勢いよく人影が彼に向かって飛び出してきた。

影がぶつかりそうになったギリギリの所で彼はその人物を掴み蹴り飛ばした。

「ぎゃふう!」

蹴られた相手は情けない声をあげて、廊下に倒れこんだ。

「てめえ! 危ないだろうが! 階段周りで暴れんな! 

ぶつかって転んだらどうすんだ! ああ!」

用務員が相手の胸ぐらを掴み上げて怒鳴った。

いや今の姿は用務員というよりどこからどう見ても恫喝どうかつするヤンキーそのものだ。

言ってることは正しいはずなのに悪者に見える。

相手の人物は泣きじゃくりながらごめんなさいごめんなさいと連呼している。

というかさっきから上半身を揺さぶられている人って、

「酒井!? こんなとこで何してるの?」

そこには不良に脅され、べそをかいている酒井健二の姿があった。

教室で調子に乗っていた彼の面影はそこにはなかった。

自称していた数々の武勇伝が泣いているぞ。

「なんだ、お前の知り合いか?」

用務員が私の方を向いて確認してきた瞬間、

酒井はその隙を逃さず彼の腕を振りほどくと

階段を駆け下りあっという間に姿が見えなくなった。

「あっ! 待ちやがれ!」

「ちょ! ちょっと! 何する気ですか!

落ち着いてください! 相手は子供ですよ!」

「あ・・・・ああ、そうだな。悪い」

猛獣のような殺気を放つ彼を何とかなだめ、

今にも酒井に向かって投げ出そうとしている工具を取り上げた。

ふうん。素直に謝ることもあるんだ。謝罪の基準が謎だけど。

まあいいやと気を取り直して私は旧音楽室へと向かった。

途中、後ろで「あのガキ・・次会ったら逃がさねえからな・・」と

恐ろしい宣言が耳に入ってきたが、必死で聞こえないふりをした。

「うーん。おかしいなあ」

旧音楽室の前に辿り着いた私は首を傾げた。

扉の前だというのに中からはピアノの音どころか、物音一つしない。

人がいる気配が感じられない。

私は妙だなと思いながらも入口のドアを叩いた。

しかし、部屋の中から返事はない。

「先輩? 柏木先輩、姫宮です。入ってもいいですか?」

またもや返事がない。もしかしていないのか?

でも鍵は開いている。

この部屋は普段使いされていないので、使用者がいない時は施錠されている。

鍵は職員室で管理されているのだが柏木先輩はこっそりと合鍵を作り所有している。

本人曰く、一々職員室まで借りに行くのが面倒だかららしい。

でも多分普通に校則違反だろう。

「せんぱーい! 勝手に入りますよー」

そう言いながら、ガラガラと旧音楽室のドアを開け、足を踏み入れた。

「先輩? いますか? ・・・・えっ?」

結論から言うと柏木先輩はこの教室にいた。

しかし私は目の前の光景を理解できずにいた。

何がどうなっているの? 意味のない自問自答を脳がくり返し続ける。

何が変わるわけでもないのに。

旧音楽室の中には雑多に並べられたいくつかの椅子。

中央には少し古ぼけたグランドピアノが置いてある。

そして・・・・そのすぐ脇に柏木先輩はいた。

「あ・・・・ああああああ!」

彼女の頭から流れ出る液体で作られた赤い水溜まり。

その中に柏木先輩は静かに横たわっていた。

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