Vergessenー3

私が教室に入るとほぼ同時に、

教室の奥から男の怒号と何かが倒れる大きな音がした。

驚いて音の出どころを見ると、いくつかの机と椅子が倒され、

一人の男の子が複数の男子生徒に囲まれ、

その中のリーダー的な男に胸ぐらをつかまれていた。

「山田! てめえ、もう一回言ってみろ! 誰が噓つきだって!」

胸ぐらをつかんでいる男が教室中に響き渡る声で叫んだ。

「ちょ、ちょっと何があったの?」

私は巻き込まれないように静かに自分の席につき、久美ちゃんに声をかけた。

「酒井たちのいつもの山田いびりだよ」

「それにしてはなんだか様子が変じゃない?」

叫んでいた男は酒井健二さかいけんじ

酒井は日頃から悪ぶっていて、ことあるごとに自分の悪行自慢あくぎょうじまんを周りにしていた。

やれ一人で暴走族を潰しただの、やれ暴力団からお金を強盗しただの、そのどれもが眉唾まゆつばなものだ。

私はこの酒井という男が好きではない。むしろ大嫌いだ。

なぜなら・・・・

「本当だよ! 柏木先輩は恋人はいないって言ってたし、

今は誰とも付き合うつもりはないって・・・・

本人から聞いたんだから酒井君が先輩と付き合ってるはずないんだよ」

「てめえ! よくもそんなペラペラと適当なことが言えるなあ!

俺と菜摘は相思相愛なんだよ! 昨日だって、俺らは二人でデートしてたんだぞ!」

今のでなぜ私が酒井健二という男が大嫌いなのか分かってもらえたと思う。

もちろん柏木先輩は誰とも付き合っていないし、

昨日は進学先の音大の卒業生との交流会が遅くまであったから

デートなんてしているはずがない。

要するにこの男はただの噓つきなのだ。

しかもあろうことかこの男は私の尊敬してやまない柏木先輩と付き合っているなどと

周囲にほざいているのである。これは本当に許せない。

「しかし、山田のほうも空気が読めないっていうか、

バカっていうか、黙って聞き流せばいいのにねえ。

あいつのホラ吹きなんて今に始まったことじゃないんだし」

久美ちゃんが呆れながらつぶやいた。

囲まれている男子は山田晃希やまだこうきのようだった。

彼はおとなしい性格だが場の雰囲気を読み取るのが苦手なようで、

場違いな言動が多く、クラスで少し浮いていた。

そのせいで酒井たちのグループに目を付けられいじめられていたが、

自分が面倒ごとに巻き込まれるのを嫌って、みんな見て見ぬふりをしている。

なるほど、なんとなく状況が読めてきた。

いつものように酒井が友人たちに柏木先輩との

捏造恋愛トークを披露していたのだろう。

朝から本当に不愉快な奴だ。

その嘘に山田が食ってかかった。

当然、酒井はみんなの前で恥をかかされて激昂げきこうつかみかかった。

まあそんなところだろう。

私が頭の中で状況を整理していると教室のドアが開き、

スーツ姿の男の人が入ってきた。

「こら、何騒いでんだ。もう授業始めるから静かにしろ。」

「あー! ハッシー! 今日もかっこいいねえ」

マキちゃんはクラスの騒動などすっかり忘れて、

教壇きょうだんに立った数学教師に夢中になっていた。

マキちゃんだけでなく、

教室にいる女子の半分以上が彼に熱っぽい視線を送っていた。

橋本裕太はしもとゆうた先生はこの学校の教員の中でも特に若く、

モデルのようにスラっとした体型でその上、端正たんせいな顔立ち。

さらにユーモアもありつつ、

数学教師なだけあって知的で大人の落ち着きを兼ね備えている。

子供っぽい同級生か、中年太りしているおじさん教師としか異性との関りがない

女子高生には刺激が強く、こうなってしまうのも無理はない。

でも私はちょっと苦手だった。

「おう、伊藤は朝から元気だな。

だが、ハッシーじゃなくて橋本先生だぞ。

ん? 後ろの四人、机ひっくり返して何してるんだ?」

橋本先生はいつものようにマキちゃんの求愛を軽く流しながら

当然の疑問を酒井たちに投げかけた。

「い、いやあ、なんでもないです。相撲を取ってただけです。すぐ片付けます」

酒井たちはばつが悪そうにいそいそと席に戻った。

暴走族を潰した男はどこ行ったのよ。

橋本先生は少し訝しげな眼差しを向けていたが、

軽く息を吐くと教壇に置いていた資料を手に取った。

「・・・・そうか。じゃあ全員教科書を開いて。

前回のつづき42ページの問3からやっていくぞ」

「ハッシー! 教科書忘れましたあ!」

マキちゃんが元気に手をあげた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る