Vergessenー2

 「あっ! 姫宮!」

下駄箱でくつえていると

聞き馴染みのある声に呼ばれた。

振り返ってみるとそこには背の高い長髪の女性が立っていた。

凛とした表情と堂々とした立ち方から、

制服を着崩きくずしているのにだらしなさは感じられない。

私は声の主に気付いた瞬間、思わず笑顔がこぼれた。

柏木かしわぎ先輩! おはようございます」

柏木菜摘かしわぎなつみ先輩。私の二学年上の先輩でこの学校で、

いや私が出会った全ての人の中で唯一私が心の底から尊敬していて、

唯一大好きな人だ。

「早いですね。今日も朝から練習してたんですか?」

「コンクールも近いからね。家だと近所迷惑になっちゃうからさ。

ほら、ピアノの音って結構響くんだよねー」

柏木先輩はピアノがすごく上手だ。これは私の欲目ではなく、

世間的に見てもその通りで、

卒業と同時にヨーロッパの音楽大学に進むことが決まっている。

「コンクールって来週でしたよね。私先輩が優勝する姿、絶対観に行きますから!」

「おいおい優勝って、そんなに簡単にいかないよ。

大人も出場するようなコンクールなんだから、

私のピアノなんてまだまだ未熟なんだし・・・・」

「そんなことありません!私は先輩の弾くピアノが一番すごいと思ってます。

聴いていてすごくあったかい気持ちになりますし、

ずっと聴いていたくなるくらい素敵です。私は先輩のピアノが一番好きです!」

「あはは、そこまで言われるとさすがに天才の私も照れるなあ」

柏木先輩は冗談っぽく笑いながらも少し赤くなっていた。

そこでようやく柄にもなく熱弁していたことに気付いた私も頬が熱くなってきた。

これは決してお世辞ではなくて、私は柏木先輩と先輩の弾くピアノが好きだ。

その心地よさに浸りたくてよく先輩が練習している所にお邪魔しに行っていた。

先輩もそんな私を邪険に扱うどころか、ことあるごとに私を呼び出しては、

演奏についての感想を求めてきていた。

「まっ可愛い後輩にここまで言われちゃったら私も頑張らないとね」

そう言うと先輩は私の方をポンと軽く叩いて歩き出した。

「どこ行くんですか?そっちは教室と逆方向ですよ。」

「どこってピアノの練習するために旧音楽室に行くんだよ。」

柏木先輩はむしろ何でそんなことわざわざ聞くんだ。とでも言いたそうに答えた。

「ええっ。もうすぐ一時間目始まりますよ。」

「おいおい姫宮。逆に言いたいんだが、

あんな熱い言葉を貰っておいて、

練習せずに授業なんて受けられると思うか?

むしろピアノ弾く以外何するっていうんだよ」

柏木先輩はうんうんと頷きながら語りだした。

「いやでも授業は出た方が・・・・」

「ていうかそもそも私の心に火をつけたのはお前だからな?

これは責任を取ってお前も私の練習に付き合うべきじゃないか?」

「なんでですか! 私は普通に授業を受けます」

「ふふん、そんなこと言っていいのかな? 

今なら朝から昼休みまで、私の生演奏を独り占めして聴き放題だぞ?」

うっ、そう言われると心が揺れる。正直に言うとめちゃくちゃ聴きたい。

でも人のピアノを聴くために授業に出ないのは

普通じゃないしどうしたらいいんだろう。

・・・・いや、こんな悩みは無駄だ。そもそも私は悩んですらいない。

「ごめんなさい先輩。友達に教科書を見せる約束していて。私は授業に行きます」

「そっか、まあ気が向いたら聴きに来てよ」

マキに教科書を見せるなんていうのはただの言い訳だ。

結局私は普通であろうとすることからは逃れられない。

普通の人間であり続けなければいけないんだ。

この呪いからは決して逃げられないんだ。

「そうだ、ペアルで今日からかき氷出すんだってさ。

学校終わったら一緒に行こうよ」

柏木先輩が突然思いついたように提案した。

ペアルは学校の近くにある喫茶店だ。

老夫婦が個人で経営されているお店で、人気のチェーン店カフェのような華やかさはないが落ち着いた雰囲気で私は気に入っている。

先輩とも何度かケーキを食べに行ったことがある。

「えっ・・・・でも先輩、練習があるんじゃ」

「いいって一日くらい。

それにあそこのかき氷は本当に格別なんだから、食べなきゃ損するよ。

じゃ決まりね。学校終わったら旧音楽室で待ってるから迎えに来てね」

ケラケラと笑いながら、先輩は手を振って芸術棟へと走っていった。

相変わらず強引な人だ。でも私にはそれがいつも何だか心地よかった。

私が思いつめたような顔をしていたから、先輩は気を使ってくれたのかな。

何だか申し訳ない気持ちと今日また先輩に会えるという嬉しい気持ちの

両方を抱えながら、私は自分のクラスへと足を運んだ。

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