第2話

どうしてこんなことになったんだろう、と私は呆然としていた。

夜。

目の前にはメガネをかけた、優しそうなご婦人が困り顔で私を見つめていた。

「このこ、今日の撮影にいたコですよね?」

ご婦人は、傍の誰かに聞くでもなく呟いた。

どこかのんびりと聞こえる声はやわらかい。

「そうですね。忘れられてますね」

たまたまご婦人の隣にいた人がチラリと私を見て答えると、またそそくさと作業に戻っていく。

周りには、たくさんの人が机を運んだり、棚を移動させたりして、それなりに賑わしいのだけれど、私が知っている顔が全然いない。

まさかとは思っていた。

さっき、新卒カメレオンが「では、私どもはこれで失礼させていただきます。ありがとうございました!」と元気に挨拶するものだから、そこからこちらへ来て抱き上げてもらって私も一緒に帰るのかと思いきや、私は机の上に座らされたままになっていた。完全に、見送る側になっていた。


なんてこと。

新卒カメレオンは、私を有隣堂に忘れていってしまったのだ。


わたしのこと忘れてるよ!と声さえあげられればこんなことにはならなかったのに、そう、私には声がない。

さっきのブッコローさんの言葉が蘇る。

「仲良くしたいんですけどねぇ…喋れないスよねこの子…」

喋れない。

今日ほどそのことが辛いと感じたことはない。急に胸がぐっと詰まるような感覚がする。

そんなわたしをよそに、目の前のご婦人は後ろを振り返ると、誰かに声を掛けている。

「この子、どこに置いておきます?わたしが持って帰りましょうか?」

「ちょ、ザキさん!」

のんびりと提案する朗らかな声に、誰かが焦ったような声を掛けている。

「それ、カドカワさんの忘れ物ですよ?店舗で預かってもらって…」

「でも、それじゃあ先方にまた御足労いただくことになってしまうでしょう?」

お店の他の商品に紛れちゃっても困ってしまうし…と丁寧な言葉遣いで返す"ザキさん"。

「それならイクさんに預かってもらいましょうよ」

とまた別の声がかかる。

「それには及びません。わたしが明日、カメレオンさんにお持ちしますので。郁さんはお忙しいでしょうから、私が行きます」

「…それってザキさんが持って帰りたいだけじゃないんですか?」

最初に返ってきた声が、少し間をおいて突っ込むと、"ザキさん"は

「そんなことは…ないですよ」

と、こちらもまた少し間を置いて返している。

怪しいなあ、ほんとですかという声がさらに続いて聞こえてきたけれど、"ザキさん"は気にした様子もなくくるりと私に振り返ると、にっこりと笑いかけてくれた。なんだか安心しちゃう笑顔だ。

「ふふふ。私は有隣堂書店の岡崎弘子、と申します。トリちゃんって呼んでいいですか?…今日は私のお家で泊まってくださいね」

ふふふと笑う岡崎さんの肩の向こうで「だれかイクさんに連絡つかないの〜?」と声を上げている人がいた。


「ここで今日は寝ましょうね〜」

ザキさん改め、岡崎さんが、自分のものであろうお布団の隣に、座布団の上にタオルを重ねてくれた寝床を作ってくれた。私を横たえると、そっと毛布をかけてくれる。ふわっと、お日様の匂いと、薄く残る洗剤の香りがする。

結局、私は岡崎弘子さんのお宅にお邪魔することになった。撮影、と岡崎さんが言っているのが、さっき私がブッコローさんと出会った場であるらしい。帰りの電車の中で、岡崎さんは私を鞄の中に入れてそっとささやいた。

『今日は撮影で遅くなったから、おうちに帰ったらすぐに寝ないとね』

岡崎さんは、私をショルダーバッグに入れてくれた。おかげで私は岡崎さんの小脇にすっぽり収まるようにして、電車の中でほかの人とぶつかることもなく、あったかい鞄のなかでぬくぬくしながら、岡崎さんのお宅までたどり着いた。ただいまあ、と岡崎さんが言いながら家の中に入るので、わたしも声はないながらお邪魔します、と言う。岡崎さんはそのまま、奥の方まで入っていくと、私の入っている鞄と手提げ袋を置き、お布団を敷いた。

そして、私を寝かせてくれたのだ。

「知らない場所に連れてこられて、気が張って疲れたでしょう。今日はここでゆっくり休んでくださいね」

岡崎さんはそう言うと、少しだけ毛布から飛び出してしまっている私の羽先と額をなでてくれた。指先の感覚が気持ちよくて、私はついうとうとと目を閉じてしまいそうになる。

「明るいと眠りにくいけど、真っ暗じゃこわいでしょう?ここだけ明かりを点けておきますね」

そう言って、岡崎さんはお布団の枕元にあるライトを点けると、部屋の天井の照明から下がっている紐を引いた。カチカチ、と音がして、部屋全体が暗くなり、代わりに部屋の底に橙色の明かりが広がる。

「おやすみなさい」という岡崎さんの声がして、ドアの開閉の音が続いた。隣の部屋から差し込んでくる明かりが、毛布の上で太くなって、細くなり消える。

しん、と静寂が下りてくる。

部屋のほとんどが暗くて見えないのに、なぜだかほっとしてしまい、だんだん瞼が重くなってくる。多分、岡崎さんの家だからなんだろう。おうち全体に、岡崎さんのふんわりとした空気が漂っている気がする。

隣にそびえる棚を見上げると、ガラス戸の向こうにたくさんの小さな瓶が並んでいる棚があった。その一つ上の棚には、細長くキラキラ光る、魔法の杖のようなものが並んでいる。部屋の中で一つだけ灯っているライトの柔らかい光を受けて、瓶も杖もキラキラと輝いていた。

あれは、ガラスペンだ。


いつか、新卒カメレオンがPCの前で見ていた動画の中で、ブッコローさんと女の人、そうだ、あれは岡崎さんだ。岡崎さんとブッコローさんが話していた、ガラスペン。そしてインクだ。

『いろんな色があって、思いを伝えるのにいっちばんふさわしい色を選べるんだ』って、ブッコローさんが言っていたっけ。

岡崎さんはインクとガラスペンが大好きで、お手紙を書くのに使うんだって…。

動画の中の岡崎さんは、ガラスペンの音も好きだと言っていて、確かにその特徴的な、カリカリともサリサリともいえる音は耳に心地よい。


カリカリという音で私はハッと目を覚ました。いつの間にかぐっすり眠りこんでいたらしい。見上げると、部屋全体はまだ暗く、枕元の明かりの向こうでもう一つ、ひときわ明るい光が点いていて、窓辺の文机の前に座った岡崎さんが、真剣な表情で手を動かしていた。時々手を持ち上げると、カリカリという音が止む。

断続的なそのカリカリという音と無音のリズムを聞きながら、ぼーっとしていると、インク瓶とガラスペンの棚が目の端に像を結んだ。見ると、ガラス戸が開いている。岡崎さんがガラスペンで何かを書いているんだ。カリカリという音が止まるのは、ガラスペンのペン先ををインク瓶に浸しているのだろう。もう一度岡崎さんを見ようと目を動かすと、ばっちり視線が合う。

「起きちゃいましたか?」

パジャマ姿の岡崎さんが、ガラスペンを置いてそばに来てくれた。

「眠れませんか?」

正確にはたった今、爆睡から目覚めたところです、とても気持ち良い寝床をありがとうございます、と伝えたくてじっと岡崎さんを見つめるのだが、違った意味に受け取られてしまったらしい。

「じゃあ、私の夜更かしに付き合ってくれますか?」

少し困ったように笑うと、岡崎さんは私を文机の端っこに座らせてくれた。寒くないように、と気を遣ってくれたのか、わざわざタオルを敷き、その上に私を座らせてくれる。

文机の上には、ノートが広げられていて、薄い、けれどもはっきりとしたピンク色の文字がつづられていた。その美しさに思わずじっと見入ってしまう。

「これは日記です。恥ずかしいですけど。今日はファーバーカステルの夜桜、というインクで書いています。とってもきれいなピンク色でしょう?ブッコローさんからもらいました」

思わぬところでブッコローさんの名前が出てきて、ドキッとした。どう反応すればいいのかわからなくて、そっと岡崎さんの顔色をうかがう。

けれど、岡崎さんは気づいた様子もなく続けた。

「最初のころはすっごく突っ込まれるし、なんだか私の反応が悪い、みたいなこともよく言われていたので、嫌われてるのかなーと思ってたんですよ」

その香水瓶のようなおしゃれな瓶を手に取ると、岡崎さんはふふふと笑った。

「でも、ある日これを下さって。後でどうしてくれたんですか?って聞いたら、『喜ぶかなーと思って』って。…今日、トリちゃんにはちょっと怖い鳥に思えたかもしれないですけど、ブッコローさん、実はとっても優しいんですよ?」

私の顔を覗き込むようにして言うと、岡崎さんは文机の引き出しから、1枚の紙を取り出した。少し厚みのある紙で、きれいな文字が規則正しく並んでいる。

「私の考えすぎなら、おせっかい過ぎると思うんですけど。でも、もし。」

そこで言葉を止めると、岡崎さんはその紙を私に見せながら、いたずらっぽく笑う。「なにか、伝えたいことがあるなら、こんな方法もあるんですよ?」

息をのむ私の前で、岡崎さんの眼鏡のふちがキラン、と光った。


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