第3話
岡崎弘子はその日、寝不足で出勤した。出勤ラッシュの雑踏の中、ややふらふらとした足取りで有隣堂伊勢崎町本店の関係者用入口に入る。
「おはようございまーす」
癖であいさつが口をついて出るが、誰に言っているわけでもない。それでも、先に出勤していた後輩や部下たちが「おはようございます!」と元気に挨拶を返してくるし、中には岡崎の姿を見ただけで「ザキさん、おはようございます!」と声を掛けてくれる者もいる。岡崎はその一つ一つに会釈で返しながら、自席にたどり着いた。どさりとショルダーバッグを机におろす。
「さあ、つきましたよ」
言いながら机に置いた鞄からトリを取り出した。自分の机に座らせると、自分も椅子に座り、軽く仰のいてふーと息を吐く。
すると、すらりとしたパンツスーツの女性がやってきた。
「あら、郁さん」
「岡崎さん、おはようございます」
先に気が付いた岡崎が声をかけると、渡邉郁は軽く会釈した。
「昨日は、カドカワさんの忘れ物をお預かりいただいたとか。すみません、ほかの社員から先ほど聞きまして、参りました」
「いいえー、こちらこそ、楽しかったです」
ふふふと笑いながら椅子を引くと、机の上のトリを渡邉に見せた。
「ああ、この子ですね」
にっこりと渡邉が笑う。
その背後から、大きなオレンジ色の影がひょこんと飛び出した。
「あ!昨日の子じゃん!」
「ブッコロー」
いさめるように呼ばれた大きなミミズクは、渡邉の肩の上にとまると、羽の先で岡崎をびしりと指した。
「ザキさーん、かわいいからって誘拐したんでしょ?」
「ちがいますよ!失礼なこといわないでください」
眉をひそめて岡崎が言い返す。ブッコローから渡邉に視線を移して問うた。
「で、先方は何て…?」
「いえ、まだご連絡していません。もともと、今日はこの後カドカワさんにお邪魔する予定だったので、この子も連れていきますね」
「あの新卒カメレオンちゃんだろぉ?この子を忘れたことも気づいてないかもね」
ブッコローが意地悪く言うと、
「そういうこと言うもんじゃありません」
岡崎が毅然とブッコローを諫める。
「ほら、トリちゃんが泣きそうになっちゃってるじゃないですか」
「えっ、この子泣くの?」
ブッコローはばさりと岡崎の机上に舞い降り、トリの顔を覗き込んだ。が、今度は渡邉が無言でブッコローの羽角をつまみ上げる。
「いっててててて!ちょ、イクさん!痛い!なにこれ暴力はんたーい!」
「トリちゃん、ごめんなさいね、うちのミミズクが失礼なことを申し上げました」
渡邉が机上のトリに頭を下げた。ブッコローの羽角をつまみ上げた手の高さはそのままである。いたいいたい、なにこれ職場暴力じゃん、とブッコローが羽を振り回している。
「じゃあ、トリちゃん、元気でね」
岡崎はそういうと、頭を上げた渡辺にトリを抱かせた。
渡邉の腕の中で、トリは少し目元を緩めている。すると、渡邉が何かに気づいた。
「岡崎さん、これ…?」
「ふふふ、よろしくね、郁さん」
岡崎は面白そうに笑う。その目元には薄くクマが浮いていた。
「はぁ。分かりました、けど…」
渡邉はちらりと自分の右肩を見る。ブッコローがよじ登ってきていた。渡邉のスーツに爪痕を残さないように器用に足を運んでいる。
「俺こんな思いしても郁さんには逆らえないんだよなぁ。なんて健気なんでしょう。涙出ちゃう」
「ブッコローに、ですか…?」
「そうみたいなの。くれぐれもよろしくね」
「はい、分かりました」
では失礼します、と渡邉は岡崎に会釈して踵を返す。ブッコローもその右肩で揺られていた。
岡崎はそれを見送ると、椅子をくるりと回してデスクに向き直った。大きく伸びをするとあくびもつられて出てしまう。そんな自分が少しおかしかった。
「んー。じゃあ今日もがんばりましょうか」
昨日は楽しくてつい夜更かししてしまった。
「トリちゃん、かわいかったなあ」
また会いたいなあ、とつぶやきながら、岡崎は自分の仕事を始めた。
「なんかカサカサいってない?」
右肩のブッコローに言われ、渡邉はぎくりと肩をこわばらせた。ごまかすか白状するか、どちらが得策か瞬時に天秤にかける。
「…これのことですか?」
ブッコローは勘が鋭いので、白状する一択だった。
渡邉はトリの背中にマスキングテープで張り付けられていた封筒を、トリの背中からそっと外すとブッコローに見せた。封筒と渡邉のジャケットが擦れあってかさかさという小さな音がしていたのだ。
「ナニコレ」
ブッコローは封筒を羽で器用に受け取る。シーリングワックスで封蝋されたそこには、鳥の模様が浮き出ていた。
「“R.B.ブッコロー様へ”…?俺宛じゃん?じゃ、あーけよ」
すぐさま両翼とくちばしを使ってこれまた器用に封を開けようとするブッコローに、渡邉は冷たい視線を注いだ。腕に抱かれたトリが少し震えている。
「それよりブッコロー、そろそろ会議が始まるんじゃないんですか?」
「あっ、ヤベ、ありがとうイクさん、いってくるわ」
言うが早いか、ブッコローは手紙をくちばしにくわえたままエレベーターホールの方へと飛び去って行く。バサバサという音が遠のくと、渡邉は息を吐きながら、腕の中のトリを見下ろしてそっとささやいた。
「気持ちはわからなくもないけど。やめておいた方がいいと思うなー」
トリはそっと渡邉の顔を見上げる。
その眼が凛としているのを見て、渡邉は眉尻を下げて笑った。
「まあ、そんなものだけどね」
恋なんて、と面白そうに笑うと、渡邉もエレベーターホールに向かった。
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