第2話 すっぴん×リラッ◯マ×缶コーヒー。

「ですからね。わたしは仕事があるんで今から向かうところだったんです。それをあんた方が——」


 まだ三月であるというのに薄着姿の老年男性が話す。少し青がかった地味な灰色のゆったりとしたその上下のパジャマは一見、の様にも見えた。

 ここはとある交番。

 広い机を挟んでこの老人の話を聞くのは、つち巡査である。すっぴんであるが、その顔には少しだけがあった。ショートが伸びた結果であるそのボブは全て、耳の後ろにかけてある。

 今夜は通報も少なく日報もちょっとズルして書けるところは早めに書いていたので、パトロールから帰れば少しは仮眠できると踏んでいた。なのに一向に住所と名前を語らないこの老人のせいで空が白み始めており、その不満が顔に出ていた。

「はぁ……ではそのお勤め先は? 貴方の名前、住所はどこですか?」

「そんなもん聞いてあんた、どうするんだい?」

 先程まで謙虚な口調だった老人の言葉遣いが荒くなる。

「ご家族に連絡します」

「冗談じゃねえ。これから俺は大事な約束があんだよ。良いよな、あんたらは暇そうで」

「……そうですね」


「土屋巡査、僕が代わるよ。歳も近そうだしね」


「すみません、お願いします」

 彼女に助け舟を出したのは、やすひろ警部補だ。三十年以上のベテランで若い頃には機動隊員だった事もあるそうだが、本人の希望で地域課に移動し、今は交番所長として定年が来るのを待っている。確かにこの中では一番、老人に歳が近い。

(一、二十歳は離れてそうだけど……)

 すらすらとペンを動かすその手はゴツゴツとしているが、その物腰はとても柔らかで、老人も段々と落ち着きを取り戻しつつある。話す内容は支離滅裂なままであるが。

 愛菜は聴き取った内容をクリップボードに挟んだA4紙にメモしていたが、康弘は孫から貰ったというメモ帳を使用している。警察官の格好をしたリ○ックマが描かれていた。


「土屋、その紙ちょっと見せてみろ」


 休憩室などに繋がる出入り口近くで、優雅に缶コーヒーを飲みながら愛菜に声を掛けたのは、先ほどの彼女と老人のやり取りを静かに見ていた男、やまだいすけだ。階級は巡査部長。

 彼は交番勤務から離れる事を拒み続ける、所謂、スペシャリストである。何故彼が他の部署に移動するのを嫌がるのかというと、交番が好きだからだ。さっさと必要な年数を終えて他へ行きたいと願う愛菜には、理解不能な男である。

「どうぞ」

 少し緊張しながら愛菜が、この偏屈な男にメモを渡す。

「お前、肝心な事書いてないな」

「え? そんな事ないと思いますけど」

 愛菜が使ったA4紙には、老人が語った内容毎にまとめた短い文達が書かれていた。

「徘徊理由、散歩or買い物or出勤or約束、名前不明、住所不明、etc……etc、そんなの聞きゃあわかるじゃないか」

「それをメモって云うんじゃないですか?」

「はぁー、お前、ちくしょうみたいな女だな?」

「誰がメス犬ですか!」

「悪口を飛躍させるな」

「悪口は悪口じゃないですか!」

「良いか? たとえば猫は獲物を追っかけ回してる時、周りが見えていない。逆に馬は広く周りを見渡せるが、細かいトコまでキチンと見る事の出来る範囲は僅かだ。お前の様に狭い視野で物事を考えたり、逆に先の事とか周りばっかり見て目の前にあるモノにまで考え至る事ができない奴を俺は、畜生、と呼んでいる」

「ビッチよりヒドい!」

「待て、そんな言葉は使っていない」


「キミ達! 静かにして!」

 康弘が二人を注意した。


「すみません!」

「ははは」

「何笑ってんですか! 山田さんのせいですよ!」

「何故そうなる?」


「おおー、お二人さん、仲良いねー」

 何故か上機嫌になった老人も加わる。


「流石、阿部さんだ。いつも尊敬する。ホラ土屋、阿部さんがもう一度セツグウするから、キチンと広い視野で細部まで見渡すんだ。それでこのジイさんを家に返す事が出来る」

「ええー?」


「じゃあ、もう一度聴きましょうか? まずアナタはいつ頃お住まいを出られたんですかね————?」

 阿部康弘警部補の、手腕が光る。


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