「大丈夫じゃけん」
あぶく
「大丈夫じゃけん」
はるか昔。
人生は茫洋として、なんとなく仕事に行きなんとなく友達と遊び、ゆるやかな川の流れのように日々が過ぎていた頃、親が寝たのを見届けてからこっそりと家を抜け出し、ぽつりぽつりと街灯の照らす人気の途絶えた道を歩くのが好きだった。
目に映るすべてが闇の色。
国道を走る車の音が昼間よりくっきりと耳に入ってくる。
冴えた大気のなかをどこまでも意識が広がっていく感覚。
世界の真ん中にいるような心地よさをあじわいながら歩いていると、
「ウウウゥ……ウゥゥ…」
突然なにかの唸り声が聞こえた。
歩みを止め、前方の声のするほうに目をやると、すぐそばの街灯と次の街灯の間の薄闇にほの暗い小さな影が見える。
犬。
野良犬だ。
「グウゥゥ ルウゥ…」
どうしよう。たしかにわたしに向かって唸っている。怖い。
身動きができず、目をそらすこともできず、『怖い』と『どうしよう』が頭の中でぐるぐると回っていると、犬は低く体をしずめ、さらに、
「ググルウゥ!ググウウルゥルウゥ!」
と大きく唸った。
飛びかかられるっ。
思わず身を縮こまらせて頭を両手でおおった瞬間、なにかがわたしの傍らをすごい勢いで通り抜け、それと同時にドスッ!という鈍い音と「ギャンッッ!」という悲痛な叫びが聞こえ、カンカンカンカンとけたたましい金属音が鳴り響いた。
「もう大丈夫じゃけん」
不意に背後から声が聞こえた。
犬はもういない。
それがいたあたりでは一個の缶がカラカラと転がっている。
「こんな時間に一人で歩きよったら危ないよ」
ふり返ったわたしの顔をしずかな笑顔で見おろしながら、水色の作業服を着た男は横を通り過ぎ、まだかすかに音をたてている缶を拾いあげた。
助かった。
助けてくれた。
礼を言うべきなのだろうか、と体のふるえを感じながらわたしは考えた。たしかにこの人はわたしを助けてくれた。しかし、この人もどうしてこんな時間に夜道を歩いているのだろう。
男はわたしのそばに来て、
「家まで送ろわい」
と言ったが、わたしは思わず後ずさった。
男は苦笑して、
「急な仕事で呼び出されたんよ。じゃけん、自分への労いで自販機でビール買おて帰りよるとこ」
と言いながら、右手に握っている少しへこんだ缶を見せた。
そうして今。
あの夜からわたしは男とずっと一緒にいる。
呼び方が『健二さん』から『けんちゃん』へ、『おとうさん』へと変わっても、ずっと一緒。
ときどき『じぃじ』と呼ぶようようになってからも、ずっと一緒。
あの人の会社が潰れたり、子供が交通事故に遭ったり、わたしのお父さんとお母さんが相次いで病気になったり、そして死んだり、いろんな事があって、ときには喧嘩もして、わたしは大泣きをして、あんなやつ大嫌いと思っても、いつもあの人は困ったときには「大丈夫じゃけん」と言ってくれた。
あの夜あの人に出会わなかったら、わたしはどうなっていたんだろう。
からっぽな心をからっぽな夜におおわれたくて、ぼんやりとした不安を道連れに、人気のない暗い道をただあてもなく歩いていたわたしは。
きっと、野良犬よりもっと怖いものに襲われて、大泣きもできなくなっていたことだろう。
ベッドサイドに置かれたすりおろした林檎。
それすらも食べられなくなって、寝返りもうてなくなって、たぶんもうすぐあなたは死んでしまうのだろうけれど、それでも目があえば微かな声で「大丈夫じゃけん」と言ってくれる。
枯れ木のように細くなった、わたしを助けるために野良犬にビール缶を投げつけてくれた腕にそっとさわる。
なでる。
あたたかい。
「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」「大丈夫じゃけん」……
百万回の「大丈夫じゃけん」が聞こえる。
からっぽの夜空に月星のまたたきを灯してくれた魔法の言葉が。
一緒に過ごす時間はあとわずかだけれど、百億回のありがとうをこめて、わたしは今日も冗談めかしてあなたの耳元でささやこう。
「おとうさん、大好き」と。
━ 終 ━
「大丈夫じゃけん」 あぶく @abuku-
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