第2部

第二部  


真夜中2時。不意にエナジードリンクが飲みたくなった。いや飲み干してしまったから新しく飲み物が欲しいのだ。190円を握りしめて外へ出てみたら静けさの中、空から申し訳程度の雨が降っていた。50メートルもない自動販売機へいって迷わずボタンを押すのだから傘はいらないと思ったが、濡れるのは嫌なので虹色の傘を差した。

 雨は澄み切った真夜中の空気を切って落ちてくる。気分が高揚していたのか12月だというのに私はそこまで寒く感じなかった。家の電気はどこもついておらず街灯だけがスポットライトだった。こういう瞬間私は非常に気分が高揚する。同時に悲しくもなるが、この心の虚しさが今の私を作っているのだろう。


 しばしば世の大人たちは私を素晴らしい人間だと評価する。まだ子供なのにここまで深く思考できるのがすごいらしい。なにがすごいのかよくわからないが、自分の子供も私のような人間だったらよかったのにと嘆いている。私みたいなのはどちらかというと嫌われるタイプだ。答えのない問題をひたすら考えるような哲学的な人間である。いや私のような哲学的な人間というものは答えのないことをただ考えるだけではない。第一部のように世の中の仕組みを私の主観だからと批判してしまうのだ。それにまだ私は大人ではないガキなので、そんなのがこのように偉そうに世間や人間、大人についてああだこうだと批判をしているのは甚だ馬鹿々々しい。主観だけで生きるのは楽しいが、それは最近他人を我慢させているのではないかと思っている。私は目上の人間と話すことが多い。それは私にとって楽だし、楽しい。でも精神的に大人な相手が我慢しているだけなのではと思っている。でもそれは人間として認めたくないとも思ってしまう。そこで私はもう少し自分の考えを書きどうするか決めることにした。

私の主観だけだが、ぜひ読んでほしい。



 今までの通り、私は人間が嫌いだ。子供も大人も例外なく嫌いだ。しかし明言していなかったが目につく人間みんな嫌いというわけではない。では何に対し激しい憎悪を抱くのか。というよりなぜ人間が嫌いになったのか。そういえば第一部でも書いていなかった気がする。いや正確には書いたかもしれないが、私の記憶にないあるいはあいまいにしてしまったのかもしれない。正直、なぜ私はここまで人間を嫌いになったのかという確かな理由はない。だが私の周りにはよくない人間がたくさんいて、その人間と私を差別化したかったのが「未完成」を書き始めた動機だろうし、自分を含めた人間を嫌いになった理由だろう。もちろん読者の人間全員が全員、嫌いなわけじゃない。だが今から私が書いていく内容に少しでも疑問を抱いたのなら私とは確実に合わないだろう。自分に合わない戯言をひたすら読んで手に入るかもわからない新しい物事の見方へ時間を無駄にするか、ここで読むのをやめてここまで読むのに費やした時間を無駄にするか。もちろん最初だけでも読んでほしいものだが。



私はよく1人で出かける。主に人間観察のためと必要物資を買い揃えるためだ。その時必ずみているのは家族だ。

なぜ親というものは自分のできなかったことや夢や野望を子供に押し付けるのだろうか。それが子供の幸せだから?子供は親の操り人形だから?馬鹿々々しい。今すぐ親をやり直したほうがいいのではないだろうか。いややり直したくてももうすでに手遅れなのかもしれない。ますます馬鹿々々しい。子供の幸せというものを考えたとき、自分の子供時代を振り返ることをしない、振り返ることができない人間が親になってしまうなんて本当に責任感のない人間どもだなと街中を歩いていてよく思うのだが、なぜ親の立場の人間は自分が不幸になることが分かっていたはずなのに子供をつくるのか。

 私は子供を産みたくない。なぜなら育てられる自信がないし、母親がこんなひねくれたやつじゃ子供はもっと生意気だろう。そんなものを世の中に出せるほどまでに育てることは無理だ。少子化問題?そんなの知るか。そういうことを考える前にまず自分の姿を鏡でみることを強くお勧めする。いや少子化問題どうのこうのより、女は子供を産むのが仕事だと批判されそうだ。こういうのはだいたい中年の悪いおぢがいっているイメージがあるのだが、実際そうかもしれない。

 ファミレスで友達と先ほどの子供を作るか否かの話をしていたら隣に座っていたふくよかな中年のおぢに「女は子供を産んで立派に育てるのが仕事だ」と怒られた。居心地が悪くなったので言い返さず無視して会計を済ませ帰ったが、子供を産まない男が何を偉そうに語っているのだと私は静かに激怒した。正直ぶん殴ってやりたい気持ちでいっぱいだった。これから子供を立派に育てるすべを学ぶ必要があるのかもしれないが、私はそれでもなお子供を産みたいとは思わない。子供は嫌いだ。生意気だ。

 私はあまり駄々をこねるような幼児、児童ではなかったという。それはテレビドラマで小さい子供が駄々をこね、親に怒られるシーンを見たり実際にスーパーに行ったときにイヤイヤと駄々をこねて親を困らせている自分と同い年くらいの人間を見たりしてきたからだ。私はとにかくテレビドラマのように「じゃあもうママ帰るよ!」「もう勝手にしなさい!」なんて言われたくなかったし、怒られたくなかった。ここまで聞けば一部の人は私の親の教育方法はよくないと批判するのだろうが果たしてそうだろうか。確かに私はおびえていた。自分もいつかはそうなるのではないかと。だけど逆に考えれば、私はテレビドラマやほかの家庭の子供によって怒られなくて済むし、親にとっても必要以上に怒らずに済むだろう。それに常に駄々をこねていると言動の重みがなくなってしまう。いつもは駄々をこねないような子が駄々をこねたらその子にとって駄々をこねる発端となったものは相当ほしかったり特別だったりするわけだ。

 身近な例を出そう。いつもは大好きとか言わないようなクールな恋人が急にそんなことを言い始めたらドキドキするし、その言葉は本音なのだなとくみ取れる。そういうことである。

 さて本題に戻るのだが、私は自分が駄々をこねない小さい人間だったと聞いて安堵した。だが自分の子供も親の私に順応だとは限らない。知能が低くても、背丈が小さくても言葉を知らなくても、結局は小さい人間なのである。仮に自分の子供が駄々をこねる困った子だとして、私は自分の子にキレるはずだ。「じゃあもうママ知らないから勝手にしなさい」なんていう自分の言われたくない言葉を発するかもしれない。子供というものは親が一番だと思っている。幼ければ幼いほど親を軸として生きる。もしその言葉を発してしまったとして、まだ一人の人間として全然未完成の彼らは、親の機嫌をうかがったりして頑張って苦しみながら生きなくてはならなくなってしまうのかもしれない。つまり本音が言えず恐怖におびえる毎日が待っているのかもしれないのだ。そして、人間として自立ができない彼らは親にあらがうすべも持てず結局人間不信になったり、悪い意味で親に依存することになってしまうかもしれない。

 そんなことを自分の子供をあえてしようとおもう親もいる。それがいわゆる過保護だったりモンペだったり毒親だったりするのだ。親の幸せが子供の幸せだと勘違いしている。冒頭に書いた「親ができなかったことを無理やりにでもやらせる意味の分からないくだらない不屈の精神」には毎回私もびっくりさせられる。確かに自分の犯した過ちを自分の子供にもさせたくない気持ちはわかるが、あたかも子供は自分の一部で都合の良い人形だと思っているのならそれは間違いだ。

 家族というひとつのコミュニティーを形成したとき、家族となる人間たちはたちまち、お互いを人間としてではなく「家族」という別のものとして見る気がする。家族だからという理由で理不尽なことをしたり、過保護になったりと大変だ。そこに子供がいれば、母親となる人間はわが子なのだから時に自分の命以上に大切にする。父親は、子供と妻を養っていく。子供は女の人間しか今のところは産めないが逆もしかり。ワンオペの母親、父親は一人で二人分の仕事、責任を背負う。ということは子供はそのコミュニティーの中で一番弱者だ。強者は両親であり、ここまでくるとある意味子供は親の奴隷のようにも思えてくる。私はそんなふうに感じたことはないが、いくつものテレビドラマや本を読んでいるとそのように感じることがある。


改めて問うが、なぜ子供を作るのか。


 デキ婚?それともただのビッチ?子供が欲しいという個人的な欲求?私は子供を作り、育てることは修羅でも裸足で逃げ出すほどの茨の道だと思う。子供は決して自分の人形でなく、奴隷でなく、なのにも関わらず自分一人では自立ができないほど弱く脆い。しかしながら過保護になりすぎてもいけない。あくまでの一人の人間として対等に扱う必要がある。年齢が上がれば上がるほど生意気になりそれはもう私なら捨ててしまいたい。

 だから私はこの世界に生きる親の立場の人間の皆さんを褒めたたえたい。というのは嘘だ。自分の教育方法に自信をもつというのはとても危ない気がする。いろんな人の教育方法の書いてある本を読んだり、テレビの特集を見たりすると子育てに正解というものはないのだとおもう。しかしどの教育方法にもあるのは子供の幸せである。そしてその子供の幸せのために親が我慢していつの日か爆発する事態は避けなければいけない。そこで子供に八つ当たりしてもトラウマが増え、信用度がガタ落ちするだけである。

 「植えるな、耕せ」という言葉がどうやら子育てで大事だそうだ。失敗してほしくないから正解に導くのではなく、あえて失敗させることで子供自ら学ぶ。そして次へつなげる。人としての過ちもときには犯さなくてはならないが、そんなときわが子が自分と同じ過ちを犯したのなら、頭ごなしに怒鳴らずに寄り添うのがいいのかもしれない。間違っていることは訂正すべきだが、子供も大人と同じ人間である。それを忘れてはいけない。



 「10年続けたピアノを急に娘がやめたいと言い出した。しかし母親は「今までどれだけ金がかかったと思っているの。もったいないから続けなさい」といった。娘はピアノを楽しめなくなった」

 この話の問題点はいったいどこだろうか。言わずもがな、理由を聞かず、お金の話をもちだして「やめる」という選択肢をあたえないところだろう。でもある人は「これでやめさせたら飽き性になってしまう」「我慢できない、わがままな子に育ってしまう」という。果たしてそうだろうか。初めて2、3か月の習い事をやめたいというのなら「もう少し頑張ろう」となるが、この娘は10年も続けている。それを「金の無駄だ」だの「飽き性になる」だの親の価値観だけで子供の選択肢を減らすのはいかがなものだろうか。まずは「10年間よく頑張ったね」ではないのだろうか。それに10年も粘り強く続けたのならもういいのではないのだろうか。もし親がこの娘をプロのピアニストにしたいと思っているのなら、それはやめたほうがいい。先程から書いているように、子供は親の人形ではない。そして子供の人生は親のものではない。「一体だれのおかげで育ってきたと思っているの」もちろん親のおかげだ。だが、親と子供は全く別の人間である。ここまで書いても反論されそうなので私ももっと書くことにする。子供は親の所有物ではない。例えば、仲良くしている友達まで管理したり、着ている服、物事の考え方、起きる時間、寝る時間などなど過干渉したりすると子供は自分は親のモノ(=所有物)だと思ってしまう。そして親に依存し、親がいなくては生きていけなくなる。それはどうなのだろうか。

 ここまで書いても脳内にはてなマークが散乱している人間のためにブッダ(お釈迦様)の言葉を書いておく。

「子供は大切な友として接するべきであり、親の所有物だと思ってはいけない」


 大人の中でも特に私は、学校の先生が大嫌いだ。きれいな言葉を並べては生徒をうまく丸め込む。生徒を一番に思っているとか言っておきながら心の中では生徒を見下しているに違いない。あと単純に話が長い。

 小学校の先生に多い「もう授業しません」といって職員室に戻るあの人間ども。あいつら本当に意味が分からない。私はそんなゴミみたいな先生が担任だったことはないが、話は聞いたことがある。あんなのただの授業放棄であり給料泥棒だ。そしてそういうことを言うと怒る。意味が分からない。仕事しろ。

 少し口が悪くなってしまったが、先生たちが出ていくのは単純に児童がうるさくて授業にならなかったり、職員室に戻ると幼い彼らにとっては効果抜群だったりするのだろう。私には効かないが。また、自分たちがそうされたからというものもあると思う。つまり児童が悪いのだが、これを何回もやる先生が世の中にいるのだ。数年に一回とかならまだわかる。だが、月に一回とかで出て行かれるとたまったもんじゃない。というのも、児童の中では「この先生はそういう先生だから呼びに行かなくてもいい」とか「この先生の授業だけはおとなしくしよう」というずるがしこい、数年経つと超厄介な人間予備軍になるのだ。要するに授業放棄して職員室に帰るという一連のムーブの言動の重みがなくなって効果が薄れ、悪質な人間がどんどん発生するのだ。私みたいな「授業放棄してないで仕事しろ。税金無駄にするな。」という人間も出てくる。いや私は至って真面目な児童だったし生徒である。だから黙っている間日々鬱憤を募らせてこうやって文章化しストレス発散しているのだ。真面目なやつほど反抗しやすいという言葉の典型である。

 あと授業放棄して職員室戻るというムーブにあこがれをもつものもいるようだが、マジで迷惑だ。本当に迷惑だ。さっさと教員やめたほうがいい。なんで先生のあこがれに付き合わなくてはいけないのか。

 児童は先生のおもちゃではない。

 そういえば先生が正しいと言い出したのは誰なのだろうか。先生のもつ知識は正しいと思う。いや正しくなければいけない。だが、先生の人間性はすべてが正しいとは言えない。クズもいればゴミもいるし神もいる。この「先生は正しい」という考えを生徒がもつならまだしも、先生自ら自分の価値観を先生という立場を使って肯定するものがいるが、そんな人間も先生やめたほうがいい。まだ生徒の立場の人間の私がここに何を書こうが批判を食らうだけでなにもないが、先生というものも結局は一人の人間で人間という醜い生物に権力というものが備わっただけだと思わなければならない。もちろん学校の中では最低限尊敬しないとあの人たち怒るので流石の私も一応人並程度の礼儀ははらっている。

 でもその礼儀をはらわれることに対しても調子に乗って自らを神のように思う人間もいる。生徒側が先生を「先生は絶対に正しい」と勘違いするのならまだしも、先生が自分のことを正しいと言い張っているのだ。そのため暴力も正当化し、言葉の暴力も使う。なぜそうするのかと尋ねれば「自分が子供の時そうされたから」と答える。なぜ繰り返すのか。なぜそういう先生たちは時代の変化についてくることができないのか。体罰や言葉の暴力によって傷ついていないのか。

 先生だけでない、大人はみんなそうだとおもう。子供の教育方法で、「自分がそうされてきたから自分の子供の代もそうするべきだ。」つまりひどい目に合うのが自分だけでは気が済まないのだろう。なんと自分勝手なのだろうか。たしかに自分だけひどい目に合うのはどうなのかと思うが、それをほかの人にやるというのはいかがなものなのだろうか。



 大人とは本当に大人なのだろうか。私はこの答えを知っている。無論、いいえだ。子供でも分かるような過ちを犯し、大人という立場や先生という権利を使って正当化する人間のどこが大人なのだろうか。つまり大人は年齢と見た目ではないということだ。でも決して中身だけで判断するのも違う。もちろん私みたいなのはまだまだ子供である。大人とは言えない。見た目?年齢?趣味?音楽の年代?そうではない。大人というものは、実はこの世に存在しなかったりするのかもしれない。いや大人はいるだろうって?人間とは常に成長する生き物だ。その成長に身を任せる人間も大人ではないし、その成長にあらがいいつまでも子供のままでいようとする、あるいはある一定の年齢で止まろうとしている人間も大人ではない。詳しく説明しよう。前者の成長に身を任せる人間はどんどん老けているわけではない。ないゴールに向かって走り続けるものである。人生とはまさにそういうものをいうのだと私は思う。死という肉体的なゴールはあるが、人間の精神に終わりはない。どこまでも探求し、成長し、レベルアップする。99になっても止まらない。だから心はきっと子供のあの好奇心に満ち溢れた若々しい人間である。決して生意気なわけではない。いうならば、心は大人っぽい。だが大人ではない。言葉で表すのは難しいが、とにかく完ぺきではないのだ。

 一方で後者の成長にあらがう人間だが、言わずもがなという感じだ。狭い世界にこもっているなんというか可哀想な人間である。そういう人間はだいたいこの小説を読んでイライラしている人だ。一概には言えないが、そういう人はせいぜい神の真似事でもして自分中心の狭い世界のお花畑で一生かけっこでもしていればいいとおもう。では今子供の人間、あるいは前者のような人間が後者のような人間にならないためにはどうすればいいのか。それは常に広い視野を持つことだと思う。自分と意見の異なる人がいても、その人がどのように考えてその考えに至ったのか考えを巡らせることは私にとっては楽しい。私は若干後者の人間のようなところがあるためいまだに広い視野を持つことができていないように感じる。だが、よくよく考えてみれば誰だって自己中ではないのだろうか。みんな自己中だが、その中でも特に秀でて自己中なのが目立っているだけでこの世界の人間たちはまず自分のことを先に考える。

 世界恐慌を例にしよう。まず世界恐慌とは、その名の通り世界的な恐慌(景気がなくなる)になってしまうことだ。それを踏まえた上で、当時の世界は第一次世界大戦を繰り返さないために世界平和へ歩んでいった。しかし世界恐慌により、まずは自国からというふうに思考は変化し、結果的に第二次世界大戦のきっかけとなってしまった。つまりどの国も自己中心的になってしまったわけだ。そしてみんな自己中の中で特に自己中だったのが第二次世界大戦の火種となった国である。

 だから結局みんな自己中なのだ。私もみんなも、先生だって大人だってあかちゃんも自己中だ。だれか一人が悪いのではない。なぜなら全員、醜い人間だからだ。



 散々大人について批判をしてきたが、子供も同じだ。それはもちろん同じ人間だからだ。しかし愚かな大人は大人になった瞬間愚かになってしまったのではなく、子供の時から存在価値のない愚かな人間なのである。

 私の周りにももちろん愚かな救いようのない存在価値のない人間どもがたくさんいる。私もその中に含まれている。しかし私以外の人間どもには共通の三つの特徴がある。一つ目、今のままで十分だと思っている。二つ目、自分の利益、特に目先の利益しか考えていない。三つ目、自分中心の狭い世界を形成している。可哀想な人間どもである。私はこの地球には必ず存在価値のない人間はいると思う。非道徳的だが、この世の真理ではないのだろうか。三つの特徴に当てはまるいわゆる凡人どもの例は、授業中携帯でゲームをしていたり、人の話を聞かなかったり、他人の努力を認めなかったり、常に自分が主人公でいようとする。謝ることができない、間違いを認めない。自分の常識をこの世の常識だと思っている。このようなものも凡人だろう。

 この世界で生きていくうえで他人に迷惑をかけずに生きてくなど不可能だ。迷惑をかけなければ生きていけない。だが、凡人どもは迷惑をかけすぎている。


 太宰治という文豪を知っているか。走れメロスや斜陽、人間失格など数々の作品を書いた人間だ。私は彼の人間失格という本が好きで、ここで何が書きたかったのか、何に不満を持つのかなど本質を見失いそうな時や病んでしまってもうどうしようもない時に読んでいる。

 私は人間失格の文中に出てくる、「世間とはお前のことではないのか。世間が許さないのではなくお前が許さないだけなのではないのか」という言葉に何度も救われている。人間というものはしばしば、自分を神のように思うことがある。その人間は世間全体のどんな些細なことでさえ、まるで知っているかのように振る舞い、私を追い詰める。だが、そんなのはその人間の中だけのルールであり、世間のルールではない。先ほどの自分の常識を世間の常識だと言う人間だ。勘違いやデマが流れるのもこの神の真似事をしている人間のせいだろう。そんな人間に私は何度も騙され地獄へ堕とされた。もうそろそろ堕天使とでも名乗ってやろうかと言わんばかりの時に太宰の言葉に出会った。この真実に辿り着いた太宰同様、私も心を軽くして生きられた。彼の言葉を借りるなら、「ご飯粒をこの世界の人間が三粒残したらどれだけの食品ロスになるのか。」なんていうどうだっていいことを私は考えずに済んだ。

 太宰は素晴らしい人間、とは思わない。確実に私とは意見が合わなそうだ。もしかしたら私が男だったら話は合うのかもしれない。だが私は女だし、いわゆる純粋な女の子を好む彼が、社会の闇に飲まれ汚れた私とまず会話をしてくれるのだろうか。

 素直な人間だと私はよく言われる。騙されやすく話を飲み込みやすい。そのメリットともデメリットとも取れるこの私の人間性がこの話を成り立たせているのだろう。しかし私は素直な人間とは、普通の人間だと思う。言ってみれば、悪いことを考える大人が自分に都合のいい情報を流しても私のような人間は疑わず、そのデマを信じる。私は損をして、悪い人間は得をする。前述したが普通は嫌いだ。自分が異常なことに後ろめたい気持ちもあるが、逆に好転しているのではないだろうか。

 太宰の墓に行った時、きっと彼は今の私を理解してくれるはずがないと確信を得た。彼もまた、人間失格や太宰自身について書かれた本を読むと、私の嫌うような普通の人間を嫌っている。いや嫌ってはいないのかもしれないが、どこか仮面をかぶっているようで苦手だと思っているだろう。太宰自身も仮面を被った人間だが仮面の被り方が他とは違う。それで仲良くなったのが堀木という人物なのだろう。さて私はどうなのだろうか。私は太宰と同じような、あるいは似ている仮面の被り方をしているのだろうか。

 私は太宰のような人間になりたい。もちろん男をたぶらかすような色魔にはなりたくないが、同じような仮面を被れる人間に私はなりたい。



 さて、今まで色々な話を書いたが、私が出した結論、それは人間とは醜い生物だ、ということだ。結果的に、親も子供も先生も、うちのクラスの凡人どもも、自分の中の常識を他人に押し付けて誰かを踏み台にして、自分だけの世界を作ろうとしたり、自分の世界に引き込もうとしたりするようだ。それはもちろん私もである。私がなぜこんな思考をするのかと尋ねられれば、凡人になりたくないのもあるし、他人の世界を拒絶しているからこうなるのだろう。私も自分の世界に閉じこもっていたい人間で、私も立派な醜い人間だったということはもうわかったことだろう。

 この話を読んだ友達に「結局何が一番嫌なのか」と聞かれた。その答えはやはり他人に配慮のできない自己中心的な人間である。つまりこの世界に生きる人間全てが私にとって醜く一番嫌いなのだ。そこからさらに細分化して今まで文を綴ってきているわけで、根本にあるのはそういうことだ。ではこれからどのように生きていこうか。私はもう主観だけで生きていく。幸い、私も自分の常識を持っている。それを他人に押し付けさえしなければ私は生きていけるに違いない。


 家の近くの自動販売機が、物価高による10円の値上げをしていた。今までは190円で買えたエナドリも100円で買えた水も200円、110円と値段が上がっていた。しかしコンビニで買うよりエナドリは6円安いのでこれからもここでエナドリを買う。この世界は無常だと再確認した。

 無常。私はこの言葉、いやこの世界のシステムが好きだ。そして人間は無常に逆らわず生きていけばもっと美しくなると思う。老いも若いも関係なく人間は人間だ。そう思うと私はなんだか気が楽になった。

 

 私はもしかしたら大人や先生というものに一番恐怖を抱き、大人や先生というものを怖がっていたのかもしれない。だが、結局は同じ人間なのである。それを私はずいぶん昔からわかっていたはずだ。わかっていたはずなのに実感がなかったのだ。

 私がなぜこんなねじ曲がった思考をするようになったのか、その原因であろう出来事を書こうと思う。


 中学一年生のころ、私は真面目な生徒でかつ、生徒会副会長だった。あの時の私は今のように社会に、世間に汚されておらずとても純粋だった。純粋無垢な女の子だったのだ。正義感にあふれ、副会長という立場に責任感を感じてはいた。だが、今のように汚染されてはいなかったものの、権力というものは生徒に対し使っても無意味で特にクラスの人間には失望し、もう何も言わなかった。しかしそれがダメだったようだ。冬が厳しさがさらに増したある快晴の日だった。その時にはすでに私のクラスは学級崩壊寸前だった。

 私の中学校は道徳の授業では学年の先生がローテーションで授業を行っていた。その日の担当は私が三か月だけ入っていたバスケ部の顧問で、苦手な英語科の生徒会の副担当の教師一年目の若い女の先生だった。つまり私にとっては接点の非常に多い、苦手な先生だった。明るい先生だったが、バスケ部特有の気の強さが私にはどうもダメだった。その女教師は私のクラスの状況を見兼ねて、授業時間が残り20分になったとき、おもむろに教科書を閉じてクラス全体に怒り始めた。叱っているのではない。「怒った」のだ。私は自分のクラスなんてどうでもよかったし、今更働きかけてももう駄目だと思っていたので、「いいぞ、もっとやれ」と半分心の中でクラスの人間どもをあざ笑いながら先生の話を聞いていた。しかし10分後、先生は学級委員と生徒会役員を廊下に呼び出したのだ。そしてこう言ったのだ。


 「生徒会なのになんでクラスをまとめないの?お前らのせいだぞ」


 理解できなかった。この生徒会という権力を以てしても言うことの聞けなかった人間どものせいなのに、なぜ私が怒られなければならないのか。そこで一回注意をしてみたが駄目だったことを先生に説明してみた。しかしなぜか私ともう一人の生徒会の男の子が怒られてしまった。もうそこからはよく覚えていないのだが、ただ泣くしかなかったのは覚えている。今でも理解できない。学級委員が怒られるのはわかる。彼らだけのせいではないが。しかしなぜ生徒会なのだろうか。生徒会とは学校をまとめる機関であり、クラスという小規模の集団をまとめる機関ではない。それは冷静な今の私が出せる答えで、当時の私にはそんな考えはできなかった。今でこそ役に立つ私の責任感は当時私を苦しめた。

 その後、行動に移そうと思ったが新型コロナウイルスが流行し学校が休校になってしまった。不完全燃焼のまま中学二年生になった。


 中学二年生、思い返せば波乱の一年だったと思う。目指していた生徒会長にはなれず、生徒会副会長になったし、あの女教師の言葉をずっと引きずっていたし、中一のときにクラスを学級崩壊させた問題児の一人とまた同じクラスで、更にもう一人別の問題児がいたのだ。もう一学期の時点で彼らは問題児の片鱗を見せていたが、二学期になって彼らの勢いは増していた。そして運悪く私は彼ら二人と同じ班になってしまったのだ!この世の終わりだと思った。更に担任の先生はその班で総合の時間に発表をしてもらうと言ったのだ。もちろん班活動はうまくいかず私は頭を悩ませた。幸い、生徒会という頼れる機関があるのでそこに匿名で一回相談をした。学校の意見箱と呼ばれるものに名前は伏せ、Wordで作った半分遺書のような文章を丁寧に封筒に入れ、いかに今の自分がやばいかをもちうる語彙の限りに書いた。なぜなら、生徒会の影響力というものがあることを女教師は怒ったときに説明した。だからこそ生徒会は動いてくれると思ったし、私の二年のクラスには学年で四人しかいない生徒会役員のうち、私を含め三人がいたからだ。しかし現実は甘くなかった。あの女教師は「これは生徒会で解決できる問題じゃないね。担任の先生に言うしかない」

そういったのだ。は?学級崩壊したら生徒会のせいにするのに、SOSを出しても救ってくれない。もう生徒会室から飛び降りてやろうかと思った。三階にあるので血を出すには十分すぎるほど高かった。しかしこれで死ねなかったら大変なのでやらなかった。そこで後日、いったん同学年の役員にだけあの手紙は私が書いたものだと自首した。一年の時同じクラスだった男(以下I君)は察していたようだが、二年で同じクラスになった二人は気づかなかったようだ。そして自分が今窮地にあることを伝えた。I君は一年の時の惨状を知っているので、すぐ理解してくれた。だがやはり彼も私たち生徒会のすべき仕事ではないと、私が死を覚悟するほどではないと、そう言った。そしてほかの二人も、たかがあのクラスのせいで死ぬなど馬鹿々々しいと少々言葉をきつくして私を止めた。そしてあの女教師(二年になってからはメインの生徒会担当の先生になった)に相談することにした。

 もう下校時刻は過ぎていた。しかし三人は残って一緒に先生を呼びに行ってくれた。そして先生に一年のころ言われた言葉がずっと私の心に刺さり重くのしかかっていること、今のクラスの状況がひどいこと、そしてあの手紙が私の書いたものであることを告げた。

 先生は私に「よく言ってくれた」といった。しかしそのあとは覚えていない。あの言葉に対してもよくわからない言い訳をされた気がするだけで、記憶がない。怒りに震えていた。あの女教師は笑っていた。


 数日後、班での発表の直前の五時間目で私は問題児の彼らにメンタルをボロボロにされ、教室を出て行ってしまった。発表をする予定だった六時間目は別室で古典の先生にずっと話を聞いてもらっていた。放課後、私の荷物をもって担任の先生と同じクラスの生徒会の二人のうち一人、女の子のほうが見舞いで来た。(来ていないもう一人の子は男の子で生徒会長だった)

 担任は六時間目何があったのか、事細かに説明してくれた。先生は女教師から私の手紙を知っていて私がいかに窮地に立たされているのか知っていた。そのうえで、クラス全体に私がどれだけ辛い思いをしていたのか説明したらしい。もちろん私に無許可なのでそれについては謝罪を受けたがそんなのはどうでもよかった。担任も私だけの責任ではないこと、そして今後何かあったらなんでも相談してほしいと言っていた。数日間、私は学校に行けなかった。

 気まずい。親もそれをわかっていたため、学校を休ませてくれた。数日後、学校へ行った。しかし何も変わっていなかった。私が犠牲になった意味はなかった。保健室へ駆け込んだ。泣いた。保健室の先生の勧めで、学校を早退した。そのあと、休みがちだったが自分のペースでなんとか復帰した。しかしクラスは変わらなかった。結局、修了式までの三月まで、担任の先生の働きかけで以前よりはずいぶんマシになったが、それでもなんだかやるせない気持ちだった。当時の私は完璧を求める、完璧主義者だった。兵隊のようになってほしいわけではなかったが、だが理想は高かった。その理想をかなえることは結局三年でもできなかったし、三年は学級崩壊しなかったが、いろんな人の踏み台にされて辛かった。


 私が中学校で学んだことは、人間は愚かであることと人間は自分の目的のためなら友達でさえ踏み台にするということだ。高校生になった今、あの女教師の言葉はいまだに消えていない。それどころか、また私はあの言葉に縛られそうになっている。ちなみに女教師は私たちが卒業するタイミングで教師を辞めて結婚し幸せな家庭を築いている。果たしてあんな人間に幸せな家庭など築けるのだろうか。もう興味がないのでどうでもいいが、とにかく私の人生を狂わせ、鬱病を患わせた罪は償ってほしいものだ。

 

 この出来事以来、私はずっとこんな感じだ。もちろん第一部に書いた体験はこれよりもっと前に体験したことだが、こんな価値観ができたのは中学校のあの腐れ切った環境の産物だ。高校に入ってましになったかと聞かれたら嘘になるが、最近やっと生き方がわかったのだ。



 「我が道を行く」これは私の父の生き方だ。父は問題児だ。本人の自覚はないが、問題児だ。しかしそれは自分の道を進んでいるだけで、決してやばいやつなのではない。「今は」の話だが。

 私はいろんな経験をしてきて、他人に汚染されまくった。しかし今の私に必要なのは、他人に屈しない強靭なメンタルと自分の進むべき道を切り開くことだ。なんだが某スタンド系漫画のセリフみたくなってしまったが、覚悟をしなければならないようだ。私は私のままでいい。もちろん、今まで述べてきたような人間を反面教師にする必要があるが、それはきっと私ならできる。そう信じている。



 人間は未完成だと思う。他の生物は子孫を残せばノルマクリアだが、人間はそうはいかない。生きているうちは進化し続ける、日々学び続けるため未完成だ。しかし学ぶことをしない人間が多い。損をしたくなかったり、自軸を曲げたくなかったり理由は様々だが、人間が生きている間は未完成ということは完成により近い状態で死ななければ極楽浄土への道は開かない。私は人間を醜い生物だと思う。しかし同時にみんな天国に行けたらいいのにとも思う。そこで書いたのが未完成だ。なにが未完成だ、と思った方もいると思うがそれはお前ら人間で、第一部は簡単に書いたが、第二部は割と理解力を必要とするだろう。だが第一部だけでも十分だと思っている。

 私は極楽浄土に行きたい、だが太宰のような人間も憧れる。どのような形であれ、私は完成を目指す。

 

 私は凡人になりたくない。それは私の欲で、私はどれだけ文を書いても人間というものから離れることができない。私も結局は人間の端くれなのだ。醜い。

 持論に基づけば私は死ぬべき人間である。だが何度も自殺を試みても決して死ぬことができない。睡眠薬を大量に服用しても耐性がつくばかりでダメだし、エナジードリンクを致死量飲むのもまた、ダメだった。いっそのこと玉川に身を投げてしまうかと思ったが、醜い姿で死にたくはない。生きていたいと思った。それもまた人間の性である。



 人間の性。エゴイズム。私はそれを見ないふりをしていたかったに違いない。それを受け入れるのがもしかしたら私の宿命、いや強い願望なのかもしれない。そしてここまで書いてわかったことは私は恐らく教祖にでもなりたいのだろう。

 私はほかの人間とは一線を画す存在になりたかった。特別な存在に憧れていた。存在価値を常に探していた。第一部で否定してきた人間には存在価値があって、でも私にとっては大迷惑で私はそれを人間全体だと考えて散々な物言いをした。もちろん私の周りにダメな人間しかいないわけではない。でもそういう人間が多い。そんな人間を自分の視界から消し去り、楽園を築きたいと思うのは当然だ。それを私は否定した。それは嫉妬だろう。

 嫉妬。嗚呼、醜い。私は人を妬みたくない。妬むというよりは羨ましく、その人間のようになるのはどうすればいいのか考える。嫉妬する時間が無駄だ。こう考えるのにも関わらず私は嫉妬してそれを否定し批判した。

人間とはよく分からない生物だ。醜いのは大前提だが、私のようなのは本当に分からない人間なのだと思う。そして嫉妬をしたり羨ましがったりするのはある意味人間の特性で、私は人間というカテゴリーの中から出ようとしてもがいているだけのものに過ぎない。私がこの小説を書くのも私が自分にとって寄り良い世界を作るためで、中学や高校で生徒会長を目指すのも単純に権力が欲しいのではなく、自分の暮らす1番身近な世界を居心地のよいものにするためである。すでにその夢は玉砕しかけているのだが、やはり私も第1部の人間どもと同じなのかもしれない。


結論、人間は醜い。同時に人生について考えさせられた。人生は「未完成」というこの小説のテーマを1番易しく説明できる題であると共に、1番この世で不可解な理解し難いものである。考えてみれば、教室で40人の人間が1人の人間に視線を向け、椅子に座り話を聞く様はある種の宗教のようにも思えてくる。まず椅子に座っているということがなんだが私には気味が悪い。人生というもの以前に人間というものが生活している様がもうすでに不可解だ。人間はなぜ生きているのか。


 元気の前借りをしようと500円玉を手にいつもの自動販売機へ向かう。母のヒールのあるサンダルを借りて、コツコツと音を立てながらコンクリートの道をあるいた。ふと空を見上げれば満点の星空がそこにはあった。私の知らない世界だ。どうやら私たちの見ている星の光は今現在の姿ではないらしい。しかし色とりどりに光る星は空だけでなく私の心さえも彩りどりにしてくれた。心が満たされていった。

 エナドリの値段が220円になっていた。


 偶然私は他の人間より不幸で、奇跡的に語彙力だけは秀でていて。それを不幸以外のなんと言うのか。

高嶺の花と呼ばれていたらしいがぼっちをカッコよく言っただけではなかろうか。ここまで来ると他の人間との交流をできるだけ断ち、独りでいるのがいいのかもしれないが心に空いた大きな穴は神でも星でも埋めることができないほどになっていた。これを寂しさというのだろう。

 気づいたことがある。傲慢で憎たらしい醜い人間は皆、心の中で寂しいと思っているのではないかと。寂しいから人の友達を奪う、寂しいから他の人にも寂しい気持ちになってもらう。


 連帯責任という言葉が私は嫌いだ。なぜ他の人まで責任を背負わなくてはいけないのか。あの忌々しい女教師の激怒もクラス全体にではなく該当者のみ怒るべきなのだ。しかし問題児の世界に引き込まれた以上、中学2年生の時の私のようにドロップアウトしなければ責任を負うことになる。世間全体を自分の主観だけで語る私の世界からも、自らの意思を持って抜けなければ一生この話に囚われることになる。すでに私は私の世界に取り込まれ、抜け出せないが皆さんはどうだろう。いや私は自らこの世界に引きこもっている。すでに第一部の「花畑」を書いた時点で私も自分の世界に憧れを抱き、第五章の時点では世界を確立した。私が小説を書くのは、やはり単純にストレス発散のためだけではないと今確信した。


 無常というものを美しいとは思うが、永遠への憧れもある。本の中は永遠だと思っている。そう思うと太宰がいかに素晴らしい人間かよくわかる。人間失格がいまだに評価され続けているのは、人間の本質を突き、どんな時代の人にも共感してもらえるような内容だからだと思う。人間失格を読んでいると自分の心の中が見透かされているようでなんだか怖くなるが、同時に救われる。

 私の野望はきっとこの小説の中に醜い人間を閉じ込めて永遠に批判し続けることなのだろう。しかしこれは私の無常を尊ぶ精神に反している。今まで私は永遠を嫌っていた。絶対だとかそういうものも嫌ってきた。しかしここまで書いてみて実は私が1番矛盾しており、もしかしたらいや確実に醜い人間代表として自分の下僕あるいは手下を「紹介」していたのかもしれない。また、どこか分からない視点から書くことにより誰よりも上位に立とうとする意思の表れがこの小説なのかもしれないと気づいた。気づいてしまった。気づきたくなかった。でも実際そうなのだ。人間だれしも自分を傷つけた人間を懲らしめたいと思うだろう。更に言えば、小説は閉じ込めるだけではない。きっとここに書いてきた人間は私の周りだけに存在するような限定の人間ではない。おそらくどんな人生にも一人はいる。もしかしたら私が小説のネタにした人間が今これを読んでいるかもしれないが、そういう人に特に「自分のことかもしれない」と思ってほしい。


 さっきみんな天国に行ってほしいと書いたが、地獄に行った人は天国にいる人を、神を、妬むのだ。いくらあの世だろうが嫉妬はやめてほしい。



 高校一年生。幸せだったのは束の間、すぐに女子の中ではグループが形成され、私はどこにも所属できなかった。思い返せば小学校のころからいつメンみたいなものを作ったことはないし、友達からは一匹狼といわれていた。

 好きな人ができた。二か月ほど毎晩通話しながらゲームをしていた。お互い寝落ちたこともあったし、エナドリを飲んで二人で朝までゲームをしたこともあった。映画へ行ったことさえあった。これは脈ありだと思った。だが夏のある日「あなたの性格が元々苦手でもう限界なので連絡しないでください」とラインがきた。そのラインが来る前から既読無視されていたし通話は途中で切られていたし、妙だと思っていた。それなりに泣いた。二か月は立ち直れなかった。ちなみに原因はわかっていない。だが今でもお互いきまずいし、特に相手は私をいまだに嫌っている。今でも思い出すと泣きそうになる。


 仲のいい友達がいた。入学当初から仲が良く同じ部活で教室移動も一緒にしていた。しかし彼女は人気者だった。見た目、中身、ワードセンス、知識、何もかもが私より優れていた。そんな彼女と仲良くしていた私はいつしかクラスの人間から妬まれていた。そして彼女も、私といるよりほかの人といるほうが楽しいことを知ってしまった。私の周りからはついに誰もいなくなった。気を使って話しかけてくれる人以外誰も何も言わなくなった。

 

 私の心は荒んでいった。


 「いつも何を考えて「未完成」を書いているのか」と聞かれたら真っ先に自分が一番醜いと思う人間を想像すると答える。


 


あとがき

「不憫」というのは可哀想な、哀れなという意味です。私は人間に嫌いという感情以外にも不憫だと、そう思っています。人間はこれから更に進化していくのでしょうが、進化ではなく退化していくと思います。この世界は無常であり、創造と維持と破壊を繰り返します。人間のいう進化とはこの秩序に逆らっていくことだと思います。しかしそんなことをすれば、禁忌を犯すことになるでしょう。どうかこの話を読んだ人だけは無常に逆らわず、時の流れに身を任せ、生きていて欲しいです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未完成 荒城雪 @YukiKoujyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ