未完成

荒城雪

第1部

未完成

第一部 第一章 不憫な神様


前書き

なぜ人間はこの世に誕生したのでしょうか。私にはわかりません。私も太宰治の人間失格の主人公のような人間の営みのわからない人間らしくない人間になってしまうのでしょうか。決して私は人間を毛嫌いしているわけではないのです。しかしながら、どうしても人間の裏の顔を見てしまうことのほうが多いのです。私は小説を書いてもなお、私は人間というものが何なのかわかりません。そして私自身もよくわかりません。



元より人間は欲深い生物である。自分が善意で「してあげた」ことにも感謝を伝えてくれなければ腹が立つし口では「大丈夫」と平気を装っていても内心「心配してくれ」と嘆きいら立つ。私は大変、この人間という生物に興味を持った。だが、同時にそんなごみのくせに自らのことを神のように思う人間の群れの中に、「私」というものが含まれていることには失望した。

そこで私は他の人間を幼少期から観察している。自分とは異なる思考回路をもつ人間を観察し、物事を多面的に見ることができる人間になりたい。そう思ったからだ。

 なお、ここからは私の主観と経験をメインに書いていくことにする。


〈花畑〉

 「頭の中がまるでお花畑」と言われてイラっとする人は多い。しかし、世にはそれを褒め言葉だととらえる人もいる。例えば「自分の頭の中はお花畑のように色とりどりで豊かで美しい」と思うのだ。別に構わない。ポジティブ思考で悪いことなどあまりない。だが、お花畑発言をした人間は反応がそれでは面白くないという。

 はて、馬鹿なのだろうか。こういう人は独裁者になりそうだ。人を自分の思うがままにし自分中心のとても狭い世界を造る。そんな狭い世界でいったい何を得られるというのか。これが一つ目の人間の汚点である。きっと前述したようなことがたくさんあるといじめに発展するのだろう。

 日本ではいじめが起きたら被害者を慰めるが欧米では逆だ。「人を支配したい」という欲が飢えになり、心を蝕む。負の連鎖だ。私は加害者は自分が他人を傷つけたことをいつ、どんなときも意識し続け生きるのが良いと思う。


〈我が愛娘〉

 子供というのは実にかわいらしい。しかし面倒くさい。それを痛感するのは子を持つ大人だ。あるいは教師や保育士などの子供とかかわる職業の人だ。

私が10歳の頃、自分の娘に「馬鹿」「デブ」と暴言を吐く大人を見たことがある。当時の私はただ単純に可哀想だと思った。しかし今になって当時を振り返り、事実を述べるなら、馬鹿なのもデブなのも遺伝か育て方の問題だ。体形などは特に親に影響されるだろう。また、暴言を吐かれていたのは七歳くらいの女の子だったため、年を重ねるうちに自己肯定感が低くなる恐れが高い。そしてその子が年を重ねるにつれて親はまたこういうのだ。「なんでそんなに自分に自信がないの」と。全く、大人も結局は馬鹿なのか。

私は子を持っていない。また親から暴言を吐かれたこともない。そんな私でもわかるのは、子供も大人も外見や知識量だけが違う同じ欲深い生物、当たり前だがつまり人間だということだ。またきっと幼少期に暴言を言われた少年少女は大人になって自分の子などにも同様の振る舞いをしてしまうかもしれないということだ。確かに、自分が嫌な思いをしたからまっとうに生きる人間もいるかもしれないが、「親にそうされたから」とやってしまう人間もいるだろう。

はて、愛娘とは言っているものの「愛される」ことを知らない子供は日本国内だけでも何人いるのだろうか。

また、未だ日本に限らずこの世界にはDVに悩まされている人間が多い。そして被害者だった人も、もしかしたら加害者になりうる。そんな人間がこの世に存在していていいのかと日々私は疑問に思っているが、この話はいったんここではしないでおくことにする。


〈親友〉

 友達とはまた違う友の呼び名である。特に親しい人のことを指しているのだが、私にはどちらも同じ表面上の関係にしか見えない。

前述したように人間とは欲深い生物だ。言いたいことを言っても非難され、言えないと苛つく。つまり、親友や友達という関係においても良い塩梅でやっていかなくてはいかないのである。

よく人間は人間関係を成り立たせるうえで「言いたいことは素直に言おう」だの「親しき中にも礼儀あり」と耳にタコができるほどとほざいている。この2つの言葉は確かに大事だが、冷静になって考えてみると矛盾している。素直でいなくてはならないが礼儀をもてとは一体どういうことなのだろうか。

例えば恩がある人が自分に対して不愉快な言動を行ったらどうするか。素直にやめてと主張するか。はたまた今までの恩や礼儀を優先し笑って誤魔化すか。私なら丁重に断り、今後一切関わらない。なぜなら、いくら恩があろうとその程度の人間と関わってきた自分がバカバカしいからだ。

私はまだ子供だ。だから上記のことは子供の幼稚な思考だとスルーしてもらって構わない。しかし、子供からしてみれば媚びへつらう大人たちは一見、他人とうまく関わり素直でなおかつ礼儀を忘れていないように思える。だが、私に言わせてみればただ相手を推し量り我慢をしているだけだ。

つまり、我慢をしているだけで素直ではないのだ。そして、年を重ねるにつれて他人の前で素直でいるなど厳しくなっていくのではなかろうか。

我慢というのは生きる上で重要だ。しかし我慢をし過ぎたら?みんながみんな我慢をしている世の中であれば戦争も起きず平和な世の中だったんだろうが、必ず世の中には我慢をさせる人もいる。なんて汚い生物なのであろうか。


〈家族〉

 世界では罪を犯した人間は大概刑務所に入る。あるいは殺人などの非道極まりないことを犯すと最悪死刑になる。(死刑がない国もある)

幼少期から私は罪人は皆、死ねばいいとばかり思っていた。刑務所内での食事代や維持費、人件費などたかが罪人ごときに費やしているものが多いためだ。また、世界の生物の頂点に立ち、生態系を崩した挙げ句、神の真似事を行う愚かな我ら人間の中でも特に愚者だからだ。

しかし今となって思うのは、罪人も誰かの子であり、兄弟姉妹であるのだ。また父母だったり、叔父叔母だったりするのだ。つまり少なからず家族がいるのだ。

日本の戦国時代には一家皆殺し、という現代では考えられないことが行われていた。もちろん、日本国内にとどまらず世界でも一家皆殺しは多分できないだろう。

人間というのは血のつながりというものをとても大切にする。人間以外の生物は親が子の面倒を見るというのはないこともあるのだ。魚などがわかりやすい例だろう。しかし、そのつながりというものによって極悪非道な愚者が刑務所の中であろうともこの世に存在しているのはいかがなものかと思う。私は好ましく思わない。

家族というものはもしかすると、人間を縛る縄にも、そして身を護る盾にもなりうるのかもしれない。


〈ナルシスト〉

 自己肯定感がとても高い人のことだ。一般的にうざい。確かに自己肯定感が高いのは構わない。だが、それを他人にアピールし「すごくない?」や「自分天才!」というのはいかにも滑稽でまるで神の真似事のようだ。

 私が特に嫌いなのは、実力がないくせに謎の自信を多く持つナルシストだ。正直、うざい。しかし、多様性ありきのこの世界、こんなことを言ってばかりでは生きられない。そこで私はこの人々を「道化の神」と呼んだ。あたかも自身に満ち溢れているかのように「自分自身」を演じ非難されることすらもいとわない、とても強い人間なのだと。

 そして、その一人に私はなりたかった。


〈優しい嘘のムチ〉

 大人は子供に対し嘘をつく。例えば、「食べたあとすぐ寝ると牛になる」や「悪いことをしているとおばけがくる」など。(おばけに関しては何とも言えないが)

 子供というのはとても素直だ。私の認識では幼稚園児やそれ以下ではイヤイヤ期以外では基本的になんでも親の言うことを聞くイメージがある。前にも述べたように素直で可愛らしい反面、面倒くさい。それも年を重ねてくにつれてその面倒くささは増してゆく。そこで有効なのが嘘なのだ。

 しかし大人は子供に対し、「嘘をつくな」と叱る。そんな大人がなぜ子供に嘘をつくのか。それはつく嘘がただの嘘ではないのだ。この話の題名でもある「優しい嘘」なのだ。面倒くさい子供を、決して辛い現実を突きつけることなく丸め込める。なんて優しいのだろうか。

 だが、時にそれはムチになる。もし、子供が年を重ね現実を見れるようになってもなお、優しい嘘を信じ続けていたらどうするべきなのだろうか。指摘するべきか。はたまたそのまま放っておくべきなのか。

 もし、その嘘が信じた子供の未来を打つムチになっていたら。

 私はどうするべきかわからない。だが、幼少期から現実を見させるのもまた可哀想だ。きっと大人のつく優しい嘘は人間の二つ目の汚点、というより欠点だろう。その嘘が一体何をもたらすのかも知らず、「その場しのぎ」で嘘をついていく。なんと悲しい世界であろうか。


〈未来〉

 最近増えている若者の自殺。その背景には色々な理由があるが、私はそのどれにも当てはまらないだろう。決していじめなどに遭ってはいないし、家庭内でのトラブルもない。しかし、過度な期待やこの世界の矛盾に対して不信感を抱き、単純に生きるのが辛くなってしまった。

 ある寒い日の夕方、死のうとしていた。夜の帳が降り始め、南半球へ朝を届けに行く太陽の光は虚しく私の心を照らしていた。しかし、その時見た夕日は永遠に目を閉じてしまうのがもったいないほど赤々と燃え、まるでここから私がやろうとしていることを止めようとしているようだった。

 結果、死ねなかった。

 今思えば死ななくてよかったと安堵している。だが、直後の私の心は完全に死んでいた。そんな私の頭の中にあったのはあの時みた夕日だけだった。

 灰色の私と世界。真っ黒な未来。まるで無観客の独り芝居だった。そこで私は初めて、観察すべきは「私自身」なのだと確信した。


〈人間観察日記〉

 自らを観察対象とするのは予想以上に大変だった。まず、客観的に自分を見つめなおさなくてはならないのだ。そこで私は日記をつけ始めた。一日四文程度の簡単なものだったが、今日の出来事集めは思った以上に楽しく私の生活を豊かにした。そう、今までにない幸福感を得たのだった。文字が綴られていくページの数や日記帳の冊数が増えていくにつれ私の幸福感はより一層深まった。

 しかし、私は気づいてしまった。「私はなぜ生きているのだろう」と。

人間を自分の思うがままに支配するためか。違う。

このまま両親に愛され続けるためか。違う。

素直でいるためか。違う。

家族という縄で縛られ、時に盾となって護ってもらうためか。

道化の神になるためか。

優しい嘘をついてもらうためか

すべて違う。

 「人間は皆、宿命をもって生きています。」と宗教の布教活動をしているおばさんに言われたが、宿命など本人が成し遂げたいただの願望であると思う。結局のところ教祖なんていうものも、神なども自分中心の世界を作りたいのだろう。


〈思考〉

 ここまでで述べた二つの汚点をそのまま汚点と読むか、人間という生物の素晴らしさと読むか。それは人それぞれだ。しかし、自分を観察してもやはり私の中にも前述した汚点というものがあった。失望した。

 しかし、失望するばかりではない。この人間という神のような生物がいかに素晴らしく、醜く、気色の悪い、けれどもどこか美しいものだと考える。私が人間らしく思考し、あれこれ考え小説にしているのも、人間だからに違いない。

 死ぬのはやめた。だがもう少し人間を観察しようと思う。

 またここまででの私の人間への持論はこうだ。

「不憫な神様」

だが、人間は所詮、神の真似事をしているにすぎない。人間が本当に神になったとき、私は更に人間を嫌うだろう。


第二章 日常


 私たち人間、特に日本人はいかに平和が尊く、素晴らしいものであるかを知っている。もう何世紀も生きている人ならなおさらだ。

しかしかつての国の平和は一度壊されている。二度の戦争、未だ続く紛争、内戦。世界に目を向けると日本では考えられないことが起こっている。全く怖いものである。

私の生活にも色や人生本来の美しさが戻り始めていた。そこで、私はもう一度人間を観察することにした。第一章の時よりも年を重ね、より深い思考ができるようになったと思うからだ。

さて、第一章に続き私があった人々や私が考えたことを述べていくことにする。なお、私の主観がメインである。

〈奇跡〉

 人間は自分にタイミングよく都合がいいことが起こるとそれを奇跡と呼ぶ。しかし、私は奇跡などないと考える。私はこの世のすべての奇跡というものは偶然であり、前述したようにその偶然がタイミングよく、そして自分の都合のいいときにおこったときに名前が変化するだけだと思う。つまり、偶然をどのように呼ぶかに過ぎないのだ。

古来より、奇跡というものは神の超自然的な働きによって起こるものだった。だが、その神によって人間に対し不都合なことが起きたらどうだろうか。人間は「災い」だの「天罰」だの「厄災」と呼ぶ。はて、奇跡ではないのか。

人間が欲深い生物なのは第一章から何度も述べていることだが、この話がまさに欲深さの象徴なのではないかと思う。自分に都合がよければ奇跡と呼び、都合が悪ければ災いだと騒ぐ。また、何かあるたびに神へ物を供えたり、偶像に対して願ったりする。まずまず神など存在するのだろうか。

神が存在していたか否かについてはまた後で書くことにするが、神がいるのであればもっと人間を有能なものに造り替えてほしいものである。


〈個性〉

 人間が必ずもっている個々の性格。それは個性である。

私は今まで性格や個性などというものは育ってきた環境や周囲の人間性によって決まると思っていた。また、遺伝というものも干渉してくると思っていた。

しかし、案外そうでもないのかもしれないと思うようになってきた。

例えば、どれだけ親の性格が悪くてもそれを反面教師にしてまっとうに生きる人間もいる。また、性格に難のある人間がある日を境に、まるで人が変わったかのように優等生になるということがざらにあるのだ。

そこで私は考えた。性格や個性というものはその人の価値観によって決定されるのではないかと。また、幼少期に確立した性格を外部が干渉して直すのは難しいが、本人の気が変わるような出来事があれば本人が自ら確立している性格を壊して、再構築できるのではないかと。

しかし、価値観というものもまた周囲に大きく影響されると思う。もし、私の周りにたくさんの犯罪者がいたとして、目の前で犯罪行為をしていたら。私はそれを止めることはできないだろう。私自身の意志が貧弱なものであれば、犯罪行為を共にしてしまうだろう。

人間とは実に脆い生物である。私はそんな生物の群れの中に生きることを望んでいない。



〈好き嫌い〉

 人間には個性がある。それは時に同調し、反発する。

無理に苦手な人間とかかわる必要性はないと考えている。ストレスが溜まるだけで、何の利益もそこには生まれない。しかし、人を嫌うのは簡単でも嫌われるのは苦手なのである。

嫌わるのを恐れ、自分のどこが嫌いかと尋ねる人は少なくない。しかし、私はそんな人間を軽蔑する。

この世には自分を嫌う人間が二割はいると言われている。その二割は私がどんな善い行いをしようとも決して私のことを好きにはならないのだ。果たして、この二割を変えることができると思うか。答えはいいえだ。どんなに努力しても無理だ。なんなら、こっちの労力が無駄である。さて、どうすればよいのか。

生きる上で全員に好かれようなど無理な話だ。どんなにファンに神対応のスポーツ選手でも一定数アンチはいる。そこで、大事なのは残りの八割だ。この八割に対し、どのように接して生きていくのか。ここに焦点を当てて生きていくのが大切なのではなかろうか。


〈他人の頭の中〉

 人間の中には私の思いもしないような思考をするものがいる。私はそういう人たちを街中で見かけると蔑むのではなく脳内を見たくなる。決して脳みそが見たいわけではない。だが、どのような考えが私たちとは違う素晴らしい思考を生み出しているのか気になるのだ。

友人の中に、プレゼントをどうにかして塾で渡そうとする人間がいた。学校が一緒なので放課後にでも渡してくれればいいのにと思っていた。しかしどうやらその人間には、学校で渡すなどという考えがなかったらしい。私は以前からその人間の視野の狭さや感受性の強さ、そして思考の狭さにうんざりしていた。そんな中でのこの出来事である。

私はその人間を軽蔑した。しかし、同時にどのようにしたら一般的に馬鹿と言われる人間が出来上がるのかと大変興味を持った。確かにこの出来事を経て、私は思考の狭いこの人間が嫌いになったが、嫌ってばかりではだめだと思ったのだ。

軽蔑すると同時にその人間に怒りを覚えたがここではまだ述べておかないことにする。


〈努力は必ず報われる〉

 この手の決まり文句は人を悩ます。努力したつもりが報われず、悩み、絶望し、病むケースは決して少なくない。

私は努力が報われるのは低確率、つまり「努力は必ずしも報われるわけではない」と考える。世界中どこを探しても努力が必ず報われる証拠などないのだ。こんな夢のない話をしてしまって申し訳ないが、これが辛い現実なのである。

しかし、努力をしたという事実はいづれ自分の自信になる。だから、私は努力をしない人間が大っ嫌いだ。

例えば試験等で「自分、いい点数とれるかわからない」や「受かる自信がない」など弱音を吐く人間がいる。このような人間には「そんなことないよ!」「大丈夫だよ!」と励ますのが妥当だ。だが、こう思わないだろうか。自信がつくほど努力すればいいのに、と。弱音を吐くくらいなのだから、努力すべきだったと本人たちは後悔しているはずだ。なのにもかかわらず、努力をしないで結果的に弱音を吐くという行動をしている。

〈他人の頭の中〉の後半に書いた怒りもプレゼントをどうにか渡そうとする努力が見られなかったためだ。私はプレゼントをもらう側だから、あんまり偉そうなことは言えないが正直うんざりしたのは事実だ。


〈言の葉〉

 日本語には力があると言われている。そのため、言葉を選ばなければいけないのだ。

「人は鏡」という決まり文句を聞いたことがあるだろうか。これは相手に何か悪いことをしたら自分にも同じこと、あるいはそれ以上のことがやってくるというものだ。わかりやすい例は子供だ。「馬鹿っていうほうがバカなんだよ。バーカ!!」と馬鹿みたいに馬鹿馬鹿いう馬鹿の決まり文句だ。私は好ましく思わないどころかまず、子供が嫌いなため拒絶しているのだが、一応これも言葉の力が使われている。

科学的根拠はない。この小説にしては珍しいことを書いているが私が立証した。つまり、神も奇跡も偶然も天罰もすべて人間によって行われたことだということだ。一応例を書いておくと、私は試験等で弱音を吐いたことはない。「受かるかわからない」なんてことは言わないのだ。その代わりに「絶対受かって見せる」と強気になる。

自信があったわけではない。しかし、少しくらい道化の神の真似事をしても誰も怒らないし、言葉の力を信じたまでである。


〈破壊、そして創造〉

 この世は無常である。一時は美しく咲き誇った桜や金木犀の花も、その香りを残すだけで儚く散ってしまう。つまり、決して永遠のものなどないのである。

さて、無常ときいて何を思い浮かべるか。「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。」平家物語が日本において無常というものをよく表現していると私は思う。なぜ、平家は滅亡したのかと疑問を抱いた。一時は栄華を極め、「平家に非ずんば人に非ず」と豪語したあの平家なのに。理由は単純だ。永遠を求めたからだ。この世は無常というルールを無視しようとしたため、人々の反感を買い滅亡したのだろう。

人間は欲深い。近年でもこの無常を忘れ、永遠を求めようとする者がいる。また、この世は無常というものを言い換えると、この世は創造と破壊のサイクルで成り立っていると言える。既存のものを破壊し、新たなものを創造する。またそれも破壊され技術や思考、学問、芸術というものは進化していったのだ。

そしてこの世界は創造と破壊を繰り返した歴史を持っている。


〈当たり前〉

 この世は当たり前で成り立っているのかもしれないと考える。またこの当たり前があるから平和だとも考える。例えば、人間が奇跡を信じるのも、個性があるのも、好き嫌いが分かれるのも、他人というのもがあるのも、努力が報われると信じるのも、言の葉も、そしてこの世が無常ということも。すべてはもう当たり前なのである。そしてこの当たり前を破壊しない限り、先へは進めないことも。

この日本という国の中だけでの話だが、この当たり前は私たちにとっての日常なのだ。

世界を見てみれば、今まで述べたものは当たり前ではなく奇跡、あるいは非日常とされるかもしれない。正解は私にはわからないが、私が思うのは日常を日常だと思わないことだと思う。日常は尊く、もう二度と戦争などという残酷なことをしないで、人間の欲深さを知り人間同士が支えあう、そんな世の中を私は望んでいる。

しかし、この思考にたどり着いたとき、私は私という人間がいかに欲深く醜く気持ちの悪い生物なのだと吐き気を催した。結果的に私がここに書くことすらも私の欲で、私が望む世界の姿というものもまた当たり前のことなのだと。世界が破滅に向かうことは望んでいない。だが、人間が素晴らしいなどと考えていた思考回路はもうとっくに私の脳内から消え去り、人間は欲深く私もその欲深い生物の一人なのだと思考を改めた。


第三章 絶えず流れる大河


地球という生命の星が誕生し、人間が生まれ、もう何億年も過ぎた世界で私たちは生きている。その何億年もの時間の中でたくさんの歴史が刻まれた。そしてその歴史の多くがまだ残っている。それは人間のもつ美意識からだろう。

日本では文字や紙、あるいは読み書きの方法があまり流行していなかった時、琵琶法師という語り部が話を語り、その話を聞いた人がまた語るという方法で伝えられてきた。代表的なものは平家物語や竹取物語だろう。

 さて、なぜ日本人は話を人から人へ口から口へと語り、物語を、そして歴史を紡いでいったのか。それもまた前述した美意識からだと考える。

私は前の二章で、大変人間という生き物が嫌いになった。しかし、その反面醜さが故の美しさも持っているのではないかと視点を変えてみた。すると私が今まで気づきもしなかった人間の美しさのようなものが浮き出てきた。そこで、この章では人間を悲観せず美しさを書くことにする。

なお、私の主観がメインである。


〈人生〉

 人間がこの世に誕生してから命尽きるまで歩き続ける道のことだ。その道は人によって違う。「人生谷あり山あり」という言葉がまさにその象徴だ。

 人生というものは人間以外にもある。虫や植物、人間以外の動物にだって生涯という名に変わるが人生がある。私は人間の生涯が一番美しいと思う。

 人生というものは色々なものに例えられる。「人生はリセットやセーブができないゲームだ」や「人生は一度きりの大舞台」などと言われる。人間はそのゲームだったり舞台の上でたくさんの選択をする。例えば、朝起きるか、このまま寝るか。両親におはよう、と声をかけるか、かけないか。そのたくさんの選択をしたうえで、自分の未来がどうなっていくか決まってくる。つまり、ゲームをただの作業ゲーにするのも、無観客の舞台で独り芝居をするのもすべて自分で決められる。せっかく芽吹いた新芽を殺すも生かすも、すべて自分自身。

 自分自身を華やかに美しく楽しいものにカスタムできるのはほかの誰でもないのだ。なんて美しいのだろうか。しかし、他人の人生に干渉しようとするものもいる。なんて醜いのだろうか。


〈宗教〉

 地球は唯一、多種多様な生物が暮らす生命の星だ。その見た目は青く美しいとされている。私は何度かこんなにも青く輝く美しい星に我ら欲深い生物が生きていて本当に大丈夫なのかと心配している。

 私はどのようにこの星に生命が生まれたのかを宗教的に考えるのを好まない。神が人間を創造したという説もファンタジーに溢れ面白いとは思うが、真面目にそれを信じようという気にはなれない。そもそも神というものの得体がしれないため非現実的だ。例えるなら子供が真面目に魔法を信じているのと同じだ。

 決して宗教はファンタジー性に溢れた意味のわからない団体だなどと言っているわけではない。それどころか、神を信じ清く生きる人間に敬意を払うべきだと考える。確かに、得体のしれない神という存在に自らの身を滅ぼしかねない行為をするのはいかがなものかと思うが常識の範囲内で行うのであればいいのではないか。

 この小説を書いている今でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地となっているエルサレムでは未だに争いが起こっている。同じ思考を持つものが集い、その知識や思考を共有し、決して他の思考のものとは関わらずある意味平和を保っていく人々の集いが宗教だと私は認識していたがどうやらそうではないらしい。

 この世にある宗教は全てが異なる神を信仰している。私は神など信じていないので、よくわからないが争いを行ってしまっては天罰が下るのではないか。

 一心に神を信仰しているはずが武力を行使し人間同士、宗教同士で争いなど天の神様も泣いているだろう。



〈歴史〉

 さて、ここまで美しさについて書いたが私はやはり人間は醜い生き物だと思う。人間の美しさに目を向けてきたつもりが、私は人間の汚点ばかり見つけてしまう。私もやはり人間全体を支配したいと密かに思う独裁者なのだろうか。

しかし、醜さだけではないことは私の単なる憶測ではなかった。美しさがあったからこそ、歴史は刻まれ今日まで伝えられている。つまり、歴史というものは一つの大河なのかもしれない。美しさというものが流れその流域を広げるが、人間の持つ醜さによって狭まる。絶対に流れは止まらない。

平家物語を例にしよう。初めのうちは武士らしさというものがあり、それによって功績を讃えられ平清盛は武士として初めての太政大臣になる。だが、彼は欲張りすぎた。無常に逆らったのだ。そこで源氏が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を立てる。この流れだけでは平氏が欲にまみれたところで大河は止まっているように思えるが、実際は源氏がもう一度武士らしさ、言い換えると美しさを取り戻し大河をもとに戻したのだ。このあと、鎌倉幕府は武士の基本となる御成敗式目を定める。内容を見るとそれは美しさそのものだ。

この章の題名は鴨長明の方丈記冒頭からだ。人生は儚く無常である。しかし、その儚い時間の流れの中に生きている私達は愚かで常に時間の流れを恐れている。年を重ねるのも、時間が過ぎ去っていくのも。

私は現代を生きる人間が嫌いだ。温故知新。この言葉をまるで塗り替えるように、生きているように思える。だが、もう勢いよく流れる現代の大河は止まることを知らない。

時が流れ、人が変わり、この人間という生物が少しはまともになるよう私は願うしかない。



第四章 神


 私は前の三章で人間というものに対して大変なる不信感を抱いてしまった。それは私の人間不信に繋がり、今の私は完全に人間に対して恐怖している。人間というものは、とても欲深いだけでなくその他様々な欠陥や汚点がある。そこで第一章と同じく、私が発見したさらなる人間の汚点と欠陥を書いていくことにする。

なお私の主観がメインである。


〈大人と子供〉

 大人と子供。相違点は外見と知識量だと考える。

この世界には、大人に憧れる子供と子供に戻りたい大人がいる。別にいることは構わないのだが、この2つの種類の人間、特に大人に憧れる子供は大人の都合のいいところしか見ていないように思える。また、子供に戻りたい大人も子供のときに経験した、子供であるからこその難題やデメリットを忘れているように思える。

私はまだ大人ではない。また、早く大人になりたいとも思わない。無慈悲な時の流れに身を任せ、決して逆らうことなく美しい人間になりたいと所望しているだけである。

しかし、私は見た目ではなめられたくないと思っている。また子供だからという理由で理不尽になにかを制限されるのも嫌いである。それは子供も大人も同じ人間であり、それを見た目や年齢というものさしだけで判断されることに納得いかないからである。だから、私は自分が大人になったとき困らないよう、大人の思考回路も理解しようと人間観察を行うし、メイクや所作、正しい言葉遣いを学ぶ。また、周りと知識量で比べられないよう、語彙力を高め、多くの表現方法を学校や独学で学ぶ。

全ては私が立派な大人になるためである。

しかし、外見を磨いたり知識を増やすことだけが大人になるための方法ではない。これはあくまでも一般的な方法だと思える。

一般的な平坦な道を歩いても、そこからは何も生まれないのである。茨の道を進み、傷ついた分、人間は成長するのである。


〈色眼鏡〉

 人間はよく色眼鏡というフィルターを通してものや他の人間を見ている。そしてそこで感じたことを優先し、態度を変えたり、扱いが変わってくる。これは先程の〈大人と子供〉にも当てはまる。「子供だから」と子供に対して理不尽に接したり、「大人なのに」と言ってしまうのはれっきとした差別だろう。

昨今ではジェンダー問題が物議を醸している。そこで私が気になった人間の汚点は日本の古臭い思考についてだ。日本は元々「男は外で仕事をし、女は家事をする」というような思考をしていた。つまり、女は男と違って非力なため、仕事をするな、と言っているのだ。まだまだこの思考は日本から抜けきらないのが現状なのだが、私はなぜこんなに偏った思考しかできないのかと心底うんざりしている。私は女だ。だからこそ思うが、女を非力だと決めつけないでいただきたい。またこれは男にも失礼だ。誰が男は非力ではないと決めつけたのか。

これは日本人の最大の汚点ではないだろうか。今では日本も情報社会になり、色々な情報が目まぐるしく私達の脳内を通過する。しかし、普及したSNSを見てみてもまだ、少数派の人間の意見というものは受け入れづらい。ジェンダー平等の問題も、提起したときは日本では全く受け入れられなかっただろう。

今を生きている私達にはたくさんの情報がある。その中から他の意見に影響されずに自分に必要な情報だけを得る。そしてその情報が本当に正しいのか確認する。

さて、果たしてこれを成し遂げることのできる人間は何人いるのだろうか。

 この文章が世に出たとして、正当に評価できる人間はどれほどいるのだろうか。「まだ若いのに」とか言われるのだろう。結局、そうなのだ。年齢なんてただのものさしに過ぎないのに。


〈嘘〉

 嘘というものは一般的にダメなこととされている。前述した私のお道化というものも嘘の一つに当たるだろう。しかし、世界の全ての人間が嘘をつかず正直に生きたら、この世界はたちまち破滅へ向かうだろう。この世界は、誰かの犠牲の上に成り立っているのだから。

ある人間が私に対して言った言葉が頭から離れない。「自分に正直に生きたほうが人生楽しい」と。それを聞いた瞬間、私は理解できなかった。こういう人間がいるから私は我慢をし、お道化を演じ、非難されるのもいとわない素振りを見せて、でも心の中では傷つく。そして私という人間の存在価値が薄れていくのだと。しかし、よく考え直してみればその人間が言っていたことは正しいと言える。自分に正直に生きれば、さぞかし楽しく、明るい人生を送ることができるのだろう。

私のお道化というものは振り返ってみると小学生のころから始まっていた。最初は母に褒められたいという自分の欲からだったが、いつからか自分のためではなく周りのためにお道化を演じた。でもなぜか周りには嘘をついていると非難されもう人間のことなどどうでもよくなった。そして、今の私のお道化というものは当初のあくまでも自分に対してのものであり、この小説に関連付けるのならこの小説内で私は一回も嘘をついていない。

自己犠牲という言葉がある。自らを犠牲にして他人を持ち上げる。私はこの言葉が嫌いである。なぜ自分を他人のために犠牲にしなくてはならないのか。家族や恋人に対してならまだしも、赤の他人に愛想を振りまいて三文芝居を演じるのは滑稽極まりない。


〈欲と戦争〉

 人間は常に欲にまみれている。私であれば、美しくありたいだの、母に褒められたいだの、自分の主観を本にしたいだの、人間嫌いの人間にもこんなに欲がある。

人間を作ったと言われる神にも欲があったと言われている。禁断の果実を口にしたアダムとイブも食べてみたいという欲からきているわけだし、人間の欲をゼロにするのはまず不可能だろう。しかし、人間に欲がなかったらどれほどよかったであろうか。戦争は起こらず、譲り合い、みんなが求める平和が実現されるのではないか。

平和が壊される原因の一つとして人間同士による、汚い争い。つまり、戦争がある。私が人間という生物を嫌いになったのも戦争を何度も起こしているからだ。また戦争を防いだり、止めたりする機関である国連や安全保障理事会は、果たして機能しているのだろうか。

私がこの小説を書いているとき、ロシアとウクライナの戦争が勃発していた。その詳しい詳細は専門家ではないのでここでは述べないが、当時のロシアの大統領の自己中心的な人間が主な発端だと考える。ロシアには過去にスターリンという独裁者がいた。その思想を受け継いでいるのかは知らないが、ロシア国民がただひたすらに可哀想だと思った。

この出来事はきっと未来へと語り継がれていくだろう。その中で、「ロシアが〜」というのはよくない話し方だろう。国のトップともなればそれ相応の責任というものを背負わなくてはならない。その責任は国全体で分別するものではない。しかし今は全く関係のない第三者によって背負う必要のない責任をロシアという国全体が背負っている。

悲しいことである。


〈友達〉

 友達とは知り合いやクラスメイトという関係よりも更に濃い間柄のことを言う。しかし、親友とはまた違うなんとも曖昧な生き物同士の関係である。

私は友達というものが何なのかもうすっかり忘れてしまった。私はてっきり友達というものはお互いが相手を友達だと認識して初めて成立する関係だと思っていた。しかし、他の人間の話を一度聞いてみれば友達というものはクラスメイトや知り合いも含めるという意見もあるのだ。だが、私の周りにいる人間はそう簡単に関係を築いてくれなかった。自分に利益がないと判断すれば関係を絶ち、まるでものを捨てるようにポイするのだ。

また、「友達だから」という意味のわからない理由もときに使われてしまう。友達だろうと赤の他人であることには変わりない。「友達だと思っていたのに」なんて私が友達だと思っていなかった人に言われてしまってはもう何もできない。

私は勘違いをしていた。友達とはお互いを曇りのない目で見つめ、基本的に疑わない間柄だと思っていた。しかし、そんな人間は私の周りにはいなかった。

もう誰も信じられなくなった。


〈不信感〉

 人間不信に陥った。そんな自分が嫌いになった。そして誰にも言えずに自分の中に逃げ込んだ。自分の理想像を思い描き、いつしかそれが人格となり私は私ではなくなった。こんな私も惨めで気持ち悪さがこみ上げた。

私が友達だと、いや親友だと思っていた人間に相談した。信じては貰えなかった。

このとき、私の人生で初めて神様を頼った。


「どうかこの世から色眼鏡を消してください。」

「どうか私に友達をください」

「どうか嘘をついても責め立てられるような世界を終わらせてください。」

「どうか人間という忌々しき生物を変えてください。」

しかし、この願いも私の欲でありこんな願いを神にすがって泣いているような私は

生きる意味などない。どうせこんな願いをしても神様なんていうものも忌々しき人間の偶像崇拝の象徴で、願いが叶うはずないのだった。

神でさえも信じられなくなった。

そして二回目の自殺を図った。

 死ねなかった。いや、正しくは直前で死ぬのをやめた。しかし色の残る世界で息をし、昇る朝日と沈む夕日をただただ見ている時間は最高に悲しかった。ポケットに石を詰め、階段を登り、手すりにつかまり、酷い形相で発見されるなど私は嫌である。

頭の中を駆け巡るのはいつも人間への不信感ばかりである。この人間は本当に私を裏切らないのか。この人間は視野が広いのか。この人間と関わって私にメリットはあるのか。

そんな事を考えている私の世界は深い霧に覆われた。この小説を書いているときもこの霧から抜け出すことは叶わない。


〈創造主〉

 この世界は宗教的観点からは神が創造したと記されている。また世界に生きる人間もまた神によって創造された。

しかしこの世界も人間も欠点ばかりである。自分の欲望に忠実すぎるがあまり、この世界を滅ぼしかねない域にまで達しているのだ。私の身近にいる人間もそうだろう。私自身も例外ではない。

そんなものを創造した神という存在は本当に尊きものなのであろうか。また神を信じる人間たちもまた正気なのだろうか。確かに一心に神を信じる人間たちには敬意を払うべきなのだろうが今までの私の人生から、全く神のことは信じられない。あくまでも私の主観だが、この世界の理不尽というものは自分の実力不足からである。だからこそ、神を一心に信じていても地獄と呼ばれるところに落ちてしまったとき、人間という欲深い生物は神を信じなくなり、地獄に落ちたのは神のせいだとするだろう。そのどこが美しいのか。また、今私たちが信仰しているのは本来の神の姿なのだろうか。人間が自分たちの欲を固めた欲の塊ではないのだろうか。そうだとしたら、神はなんとも私たちに対して都合の良いものになる。そんな都合の良いものが神なのだろうか。人間の欲の塊なのではないだろうか。

そんな欲の塊から生まれた私たちはやはり欲深い生物である。そして不憫な神様ではない。ただ単なる醜く欲深く汚い生物だ。


第五章 人間 


〈大人〉

 大人というものの子供と違うところは、前にも述べたが知識量や見た目などである。

しかし、いざ世の大人に目を向けてみれば案外そうでもない、いわゆる大人ならざる者が多いように感じる。

大人になるにはどうすればいいのか。その答えを私は知らない。だが、日本では十八歳を迎えると大人になってしまうのだ。

酒が飲めて本当の大人だというものもいるが、私が言いたいのはそういうことではない。

十八歳を迎えて自動的に大人になって「しまう」のだ。学校の人間どもに言わせれば、自覚をもてということだ。つまり大人になるのは簡単なのだ。そう、十八歳まで生きていればよいのだ。二十歳まで生きることができれば、酒が飲める。煙草を吸える。ギャンブルができる。そこそこ自由になれる印象だ。しかしそれは本当に自由なのか。自由についてはあとで書くことにするが、大人になったときどうすればいいのか。

私の周りには実に自己中心的で鈍感で、王様や女王を気取っている大人が多い。まともな大人のほうが少ないかもしれない。

私はそんな女王のような大人にはなりたくない。

王様や女王のような大人がどういうものなのか。名前の通りだが、自分が一般国民であることを忘れ公共の場で同調圧力に負けることなく果敢に立ち向かい、最終的にSNSでさらされ、不運な人生を歩む大人や、晒されて、社会的制裁を受けずとも自分がTPOをわきまえていない行動をしていると自覚していない

私に言わせれば、罪人同様の大人だ。

例えば、店員さんに偉そうな態度をとったり、バスや電車などでの公共交通機関で意味の分からない行動をする大人のことだ。

「特別な理由があるのかもしれない」「きっと発達障害なんだよ」「質のよい教育が受けられなかったんだよ」

と、言われても私は公共の場でそのような他人を不快にする大人を許せない。

大人だからなんだ。なんでもできるなんて私は思ってないし、そんな期待はするだけ無駄だと考えているが、大人という肩書を背負っているのならもう少し色々考えてほしいものだ。

決して大人全体が嫌いなわけではない。中にはいい大人もいるが、その数は本当に少ない。結局みんな自分のことしか考えておらず

自分さえよければいいと思っている。なのにもかかわらず大人は私に「自分のことばかり考えるな」という。自分の経験から語っているのだろうが

「大人になると考えを改めずらくなる」なんていう言い訳をして結局みんな逃げるのだ。

ある大人は私に「逃げてばかりではダメ。壁を乗り越えろ」といった。じゃあ大人は?

確かに歳を重ねれば重ねるほどできることは少なくなるのだろうが、人間の思考というものは衰えない。衰えるわけがない。今変わるべきなのは大人のほうではないか?特に必要性のない古い考え、教訓。そういうものは捨ててほしい。

壁を乗り越えることで人は強くなる。受けた傷の数だけ強くなる。その壁や傷によって痛みまくり逃げられずにただ生きているだけの人間がまさに私だ。


〈子供〉

 大人もたいがいだが、子供や若者もクソだ。

先に書いておくがここでいう子供や若者というのは幼稚園児から十八歳までを指す。

先ほど、大人は割と自由だがそれをいいことに何も考えずにのうのうと生きている王様や女王様のようなものがいると述べたが、意外とそういう大人の子供時代もねじ曲がっている。私も人間についてこんなにも批判的になったのには、この小説を書き始める前のキラキラと輝き、闇に落ちていった過去が由来する。

私はまだこの文章を綴っている時点では大人ではないため例に出すには幼すぎるが

わかりやすいため、あえて例にする。だが、私にはもう過去の記憶がほとんど残っていない。いや、思い出そうとすればなんとなく思い出せるのだが思い出したくはない。不意にフラッシュバック(以下フラバ)という形で思い出すことはあるが、良い思い出など残っていない。いじめられた記憶、独りに耐えられず自殺しようと思った記憶、大切なものを壊される記憶、人に裏切られる記憶。これらすべて、人間が関係している。だから私は人間が嫌いなのだ。しかし私も人間の端くれである。一人では生きていけない。だからなるべく会話しないように、関わらないように、そういう風に生きてきた。

自語りはこれくらいにして、王様や女王様のような大人の子供時代だが、おそらく甘やかされていたのではないかとおもう。何をしても許された。だからあんなに醜いのだ。きっとこの大人たちに「なぜそんなに悪い意味で自信にあふれているのか」と尋ねれば「そういうふうに育ったから」と生い立ちのせいにするのではないか。自分がそうされてきたからだから自分は許される。それが許されないのであれば、罪を負うのは自分ではなく、育った環境だと。

意味が分からない。育った環境にまんまと汚染される自分の弱さが原因なのではないか?抗うことをせず、自分を否定せず、環境を否定できず、ただぼーっと生きているからこうなるのだ。

このような悪い人間は大人だけではない。最近は子供の中にもすでに王様や女王様の素質をもったものがいる。育った環境に流され、その環境は自分にとって地獄なはずなのに同等のことを他人に平気でできてしまう子供だ。だがしかし、よく考えてみれば抗わない子供もどうかと思うが、その環境を作り出し、その理由を「自分はそういう環境でそだったから」という理由にする大人も結局はゴミだ。この問題に終わりはない気がする。だが、私が言えるのは生まれた環境、育った環境のせいにするなということだ。そして、自分が嫌だったことを他人にするなということだ。そういう人間が世に出て、もしかしたら今カフェで隣に座っている人間だったらと思うと

鳥肌が立って仕方がない。


〈若者〉

 「最近の若者は~」という決まり文句はどこへ行っても何をしても聞こえてしまう耳障りな言葉だ。なぜそのように言われてしまうのか。原因は現代人が結果を求めすぎるところにあると思う。

例えば音楽だと、昔はAメロBメロサビと続くわけだが、最近はサビからはじまりアップテンポな曲調だ。つまり昔は徐々にテンションをあげてきたが今は初めからテンションマックスなのだ。また最近はTik Tokと呼ばれる短い動画を投稿するコンテンツが流行り、高揚感や興奮を早く手に入れようとするものが増えてきている。

これの何がダメなのか。動画を制作する製作者は短い時間でいかに情報を載せられるか、というところに重きを置いて余分な説明や前置きをすべて省いてSNSに投稿している。だが、時にその前置きが重要になるのだ。なぜそうなったのか、あるいはその後どうなったのか。それを想像する力はもしかしたら鍛えられるかもしれない。しかし、問題なのはその短いコンテンツからいかに情報が読み取れるかというところだ。若者といわれるひとたちに足りないのはコンテンツの前後を想像する想像力と同時に、情報を読み取る能力が欠如しているように思える。私も俗にいう若者なので、私にも述べた二つの力は欠如しているだろう。

また足りないのは、「学ぶ力」もではないだろうか。これを最近私はよく耳にする。なぜそうなったのか。

今の時代の日本人はネットに載っている情報をうのみにし、かつての人たちのように現地に赴いたり、実際に試したり、あるいは図書館に行くなどということをしない。また答えが見つかればそのあと考察をすることなくすぐほかのことへ移る。すぐ検索エンジンで検索をかけて情報を見極めることもしない。

イギリスでゴッホのひまわりの絵画にトマト缶をかけた事件を覚えているだろうか。「ジャスト・ストップ・オイル」という志を掲げ、二人の若者はこの事件を起こした。これは日本でも大きく報道され、世界各国で「馬鹿々々しい」と批判された。なぜならこの絵画は作品自体に傷がつかないように展示されており、トマト缶をかけたとしてもそこには何の価値も生まれない。だが、このような行動に移ったのにはもちろん理由がある。彼女らは何年も前からSNSなどでデモ活動や、署名、政治家への嘆願などできることはすべてやっていた。しかし、二酸化炭素の排出量は変わらず、この話を書いている現在は石油の価格が高騰し、インフレが発生し、トマト缶を温められない家庭もでてきたのだ。なのにもかかわらず、歴史を持たなければ何の意味もない絵画が私たちの住む地球より大切にされており、彼女らを含めた若者は大人たちへ不信感を抱いたに違いない。

だがこの事件に関しては全く、とあきれられるのは大人のほうではないだろうか。たかが少し早く生まれただけで、同じ人間のくせに偉そうにする。自分がそうだったからと変化の流れに逆らう。

大人が若者を「最近の若者は」というのなら、私は大人を「最近の頭の固い人間は」と皮肉ってやりたい。

また、投票できる年齢が20歳から18歳に引き下げられ、若者に選挙へ行くようにマスメディアでは情報を流している。しかし今の息の詰まるような生きずらいこの世を作ったのは若者ではなく、大人である。たしかに、世の中を変えていくのは大人ではない。投票権を得たばかりの18歳、いやこの世に生きるすべての人間の意見というものが世の中に反映されるべきだ。なのにも関わらず口酸っぱく大人たちは「投票へいけ」というのだ。ある意味責任転換ではないだろうか。

本当に馬鹿々々しい。

こんな世の中から私は早く消えてしまいたい。


〈生きる意味〉

 結局、この世の人間どもは自分のことしか考えていないように思える。神にすがってみたり、責任転換してみたり生まれ育った環境のせいにしてみたり、大人のせいにしてみたりもう散々だ。そんな自分に私はもううんざりしている。とっとと死んでしまいたい。

この世界に生きる意味とはなんなのだろうか。なぜ人間はこの世の中を平然と生きているのだろうか。人間という生物が生きるために生きているのだろうが、私はすでに限界である。いや、こんなことを書けばたちまち批判される。いや批判されることをもはや私は恐れていない。というより批判されることを前提に私はこの小説を書いた。この世界は不可解だ。なぜ当たり前を疑わないのか。日常を問題にしないのか。それが当たり前だからなのだが、そんな言葉では片づけてはいけないほどに生きづらい。

人間が生きる意味とはどこにあるのか。いやこんなことを考えるのは馬鹿々々しいだろうか。なぜなら王様や女王様を気取っている人間の多くはこんなことを考えてはいないだろう。だからこそ考える価値があるのだろうが、これは考えても答えはない。神がいるのかいないのかということに白黒つけられないように人間というもの自体の存在価値は謎のままであっていいのかもしれない。

人間とは醜い生物だ。醜いが美しいものを生み出せる。自然にある景色を撮るカメラ、写真技術、文字、言葉、絵画などそれらがもしかしたら人間の生きる意味なのだろうか。


〈終焉〉

 私はなにが書きたかったのだろうか。人間について皮肉る文章が綴ってみたかったが、意外と人間も悪くないのかもしれない。だが人間は嫌いだ。この世界も嫌いだ。こんなわがままをいう自分も大嫌いだ。

人間は不憫でも神でもない。日常を疑えず文学や音楽などであらわされる美しさを人間の美しさとして考え、神にすがり他人や環境のせいにする。これを醜さのなんというのか。だが人間だけがもつ言葉で人間は以前より更にいい点でも悪い点でもパワーアップしている。私はそんな人間にますます興味がわいてきた。

もう話はここで終わりにすることにする。

だが、私のこれからの人生も、もちろん私の主観だけである。

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