第五話 決意を胸に
––––死んじゃったの?
肉体より乖離された氷室美奈の魂は、自宅の天井から血を流して倒れる自分を見て呆然としていた。
痛みがあったはずの頭には痛覚が感じられない。
それどころか、手はあるが何も触覚がない。
目と耳の情報は分かるが、宙に浮いていることは分かる。
両目を開けて惨めな姿の自分。
手に持つ完成された歌詞カード。
亡骸に寄り添い泣き叫ぶ母親。
齢十二で美奈は絶命した。救急車で運ばれる姿を、これ以上見ていられない。
でも、もしかしたら病院に行けば助かるんじゃないかと淡い期待を胸に空を飛び救急車を追う。
それでも、医師から告げられた答えは残酷なものだった。
遺体をベッドに寝かされる。
転落の衝撃で肋骨まで心臓に突き刺さっている。
医師の宣告を受けて嗚咽する母、悔しさを滲ませる父。
乖離され病室の天井で家族や亡骸を眺め、死んで魂となった美奈は泣きたいのに涙も出せない存在となった。
胸が痛くても触れない。
魂となった今、彼女はこのまま天国へと昇るのか、それすらも不安なのに誰にも悩みを聞いてもらえない。
宙にまった状態で絶望した。
それから彼女は陽芽市を彷徨う。
行く当てはない。
ただ行ったり来たり。
夢なのか、夢なら覚めてほしい。
来月から通う学校も、昼間通った陽芽神宮も、凛太郎も、もう会えないの?
私は本当に死んじゃったの?
自宅に戻り屋根の上で体育座りをしたまま美奈は抜け殻のように居座った。
死ぬってこんなに辛いことなんだ。
寂しいことなんだ。
そして私はこれからどうなるんだ––––。
「寂しいですか?」
「誰?」
声をかけられ後ろを振り向く。
上下黒の装束、袴。
胡蝶蘭の髪飾りと半衿を煌びやかに振る女性の正体は、初めて見る女性。
血の気がない真っ白の肌。
美奈は「私と同じなのかな?」と。
神殺しの神、伊魔那美。
彼女は美奈の横に座った。
不思議と、美奈は怖がらなかった。
それよりもたった一人きりだった絶望した世界から抜け出せことへの安堵があった。
「神様なの?」
「そう思いますか?」
「私、死んじゃったみたいだから。神様が迎えに来てくれたのかなって」
「私は……いいえ、あなたと同じよ」
「じゃあ、死んじゃっているの?」
「そうですね。遠い昔に」
どうしてこの人は今もここにいるのだろう。
なぜ天国へと昇らないのだろう。
美奈は子供ながらに疑問を持つ。
大人の人だから、特別な事情があるのか。
例えば––––。
「会いたくない人がいるの?」
「……そうですね。会いたくない人間が何人か」
「なんで? 悪いことしちゃったの?」
「私は悪いとは思わないけど向こうがそう思うの。それは仕方ない。でも……なんでもない、この話は忘れて」
悲しそうな顔をする女性を見て、美奈は聞いてはいけない気がした。
そして謝った。
「ごめんなさい」と。
身振り手振りで「いいのよ」相手に諌められて美奈も落ち着く。
たわいもない話し合いなのに、それさえも嬉しく思うと同時に、伊魔那美に問う。
「ねえ? 神様なの?」
「巷ではそう言われます」
「本当!? じゃあ神様。私はこれからどうすればいいの?」
涙は出ない。
でも美奈の悲しい顔を見て伊魔那美は耳元で彼女に優しく囁いた。
––––今から天国へ昇るのよ。
現実を突きつけられて、美奈は頷くしかなかった。
誰にも挨拶ができないまま、このまま人生を終えてしまって良いのか。
「でも、やり残したことはない?」
「……え?」
「私も神様の一人。
本当にやり残したことがあるならば、たった一瞬ですけどそれを叶えることはできます。
ただ、それはとても過酷なことです。
それでもよければ願いを叶えましょう」
「私は……」
「ええ。あなたの願いは?」
「私は、なりたい仕事があった。
やりたい。やりきりたい!」
「……分かりました。
では、目を閉じてなりたい自分をイメージしてください。
具体的に、どのような人間か。いいですか?」
目を閉じた美奈を伊魔那美より放たれた闇のオーラが包み込む。
少し冷んやりした感触だが、肌で冷たいことを感じられたことが美奈は嬉しい。
失われていた感覚を取り戻した錯覚に陥った。
身につけていた服装も変化し始めるかと思えば、身長も顔も何もかも。
自分がイメージしたもの、それは歌姫。
「いいですか?
今から私の言う通りにしてください。
ある方々と出会い、戦うのです」
「た、戦う?」
「夢や希望を持つ方々にとって、仇となる存在です。
その方々と戦うことで、あなたの夢は達成されます。
その方々は––––」
姿形、声までもが別人となった美奈は伊魔那美からの言葉を聞いて驚いた。
だが実際に起きた現象を信じてたった一瞬のステージを作る為に、さらには「さよなら」が言えなかった少年の為に彼女は了承した。
◆◆◆
氷室美奈が死んだ次の日も、陽芽神宮での仕事は変わらない。
各地から観光客や神託を受けに来る人で溢れていた。
日和や他のアルバイト巫女たちも忙しく仕事をしているが、別のところで少年は気持ちが入らない。
何度も何度も手が止まる。
「……」
無言のまま、箒を使って掃き掃除をする凛太郎。
目はやや赤く腫れ、考え事をしながら同じ箇所ばかり掃いていた。
それに神宮日和や草薙政子も、彼の異変に気がつくが配慮して声をかけない。
一箇所のみが非常に綺麗で、その他が汚くても、仕方がないと思った。
「いたいた! 美人な巫女さん!」
「きょ……今日こそは、ぼ、ぼぼ、僕とツーショットを撮ってもらうんだから!」
観光客を装い日和目当てのカメラマンが、二日続けて遠くから彼女を見る。
昨日はムキになって一人言を漏らしていたが、今日は彼の耳には入らない。
聞く余裕もない彼は、一人自分の世界に入っている。
心の中に、大きな空洞ができたような感覚に陥っていた。
凛太郎は父親の草薙龍臣と夜に通夜へ行くことが決まっていた。
時刻は十八時過ぎ。
本日の陽芽神宮での業務も終わり各地から集まっていた観光客が去っていく。
賑わっていた神宮も静かになったところで、父親の龍臣から促された。
「凛太郎、お通夜に行くから準備しなさい」
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