第6話 未紗/だって怖かったんだもん

 ゴミ出しに行ったら面倒なと遭遇してしまった。鈴木久美さん。

 私と同じマンションの同じ階に住んでいるご近所さんで、何度かゴミ出しに来た時にだけ遭遇するという不思議な相手。

「遠山さん、おはようございます」

「おはようございます。これから出勤?」

 ゴミ置き場にゴミ袋を置きながら急いで外に出ようとすると『一緒に駅まで行きましょうよ。頭にきたこともあるし』と言われた。

 また新作の愚痴はなしがあるようだ。


 鈴木久美さんは二十六歳の会社員。順調ならば社会人四年目となるけど、どこの会社で何をしているかまでは知らない。

 彼女について知っている事と言えば年下彼氏さんがいるということと、その彼氏さんがチキンだと言うことだけ。

 ついこの間、聞いた愚痴はなしでは大層怒っていたっけ。

 ——わざわざ遠回りして渋谷のホテル街を歩いてやったって言うのにタクシーに私一人を乗せたんですよ! あり得ない! 酔った振りまでしたのに


 初詣、バレンタイン、お花見、試験明けの打ち上げ、七夕、ハロウィン、クリスマスとひと通り恋人と過ごすイベントはことごとく『深夜帰宅の日帰りでした』と大変なご立腹振りだった。

 鈴木さんから愚痴を聞かされる度に私は申し訳ない気持ちになってくる。何しろ私も全く同じことを哲平にしているから。


 奥田哲平、大学で同じ学科だった同級生。私が一浪しているので年は彼が一つ下。

 大学在学中は普通に同級生だった。けれど卒業式の日に私は哲平から『未紗が好きだ。付き合って欲しい』と告白された。

 突然の告白に驚きはしたけど悪い男でない事はそれまでの四年間で知っていたからその場で彼の告白を受け入れて私たちはお付き合いを始めることにした。


 その卒業式から六年が過ぎた。二十代の殆どを哲平と過ごした。彼からは何度かお泊まりデートにも誘われた。『未紗が欲しい』とハッキリと求められたことだって何度もある。

 私も『良いかな』と思った。その当時もそう思った。でも、恐かった。ともかく恐かった。それで彼からのお泊まりデートのお誘いは全部を断っしまった。

 実は断ったのはお泊まりデートだけではない。それ以前に恋人同士であれば先ず最初に通過するお互いの気持ちを確認する儀式であるキスでさえ拒んでしまった。

 彼の顔が近づき唇が前に出てきて『あっ、くる』と言うのが分かった。目を瞑り顔を少しだけ上に向けた。

 後は二人の唇同士が触れ合うだけで何の問題もなく終了するはずだった。

 ところが私は唇が触れ合う直前に両手で彼の胸を思い切り突き飛ばしてしまった。


 いい雰囲気となっていた二人の空気が凍りついたのは言うまでもない。彼は何が起きたのか理解出来ずに呆然としていた。

 私だって自分がどうして突き飛ばしたのか分からない。体が勝手に反応しただけで私の脳内の中の人は『おいおい! 何してんだよ』と腕に突っ込みを入れたかったに違いない。本当に体が勝手に動いて拒んでしまった。

 彼にはありのままに自分の意思とは無関係に勝手に体が反応しただけだと説明をした。そんな言い訳じみた説明に対して彼は『未紗は男に鉄壁過ぎるんだよ。もっともそのお陰で俺は純粋無垢なままの未紗を手に入れることが出来たんだけどな』と、それ以上何もしようとはしなかった。


 キスに失敗した恋人同士がおいそれと次に進める訳もなく、また彼も口ではああ言っていてもキス突き飛ばし事件は余程のトラウマになったようで再び私にキスをしてくることはなかった。


 お泊まりデートの誘いは雰囲気作りをしてくれようとした彼の優しさだったと思う。結果として私の不安な気持ちが強すぎて全てを台無しにしてしまったけれど。

 そして気が付けばそのまま付き合い始めてから六年半が過ぎていた。

 さすがにここまで引っ張っていると哲平にいつ浮気をされても何も文句は言えない。だって、私何もさせない女なんだから。


 ところで鈴木さんの新作の愚痴は彼氏さんから今年一杯の予定を全部キャンセルされたという話だった。『彼は急に仕事が入ったと言っていましたけど女の匂いを感じます』と鈴木さんは言っていた。

 『仕事じゃ仕方ないよ』と自分に言い聞かせるように諭したけれど、もう我慢の限界を越えたとかで『浮気してやります』と一人でヒートアップしていた。

 私も哲平に浮気されちゃうよなぁ。いや、もう既にされていて私が気付いていないだけかも知れないなぁ。

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