プール(2)

 三人は、いったん部屋を出た。上松を先頭に、もう一方の通路を進んでいく。

 その通路は、やがて鉄の扉へと行き着いた。袋小路となっており、他に行ける場所はない。


「確か、この部屋のはずだ」


 言いながら、上松は扉を開けた。

 部屋の大きさは、十畳ほどだろうか。他の部屋と同じく、コンクリートの壁に囲まれている。向こう側の壁には、緑色のスイッチが設置されていた。もっとも、そのスイッチを押すのは現状では不可能である。

 なぜなら、部屋の半分は鉄格子で仕切られているからだ。しかも、鉄格子の向こう側には、凶暴そうなドーベルマンがいた。大きさは中型犬とほぼ同じだが、脂肪はほとんど付いておらず敏捷そうな体型である。吠えることもなく、こちらを睨みながら部屋をウロウロしている。ひょっとしたら、声が出ないよう声帯を切られているのかもしれない。


「おい、何だあれは? 前回も、あんなのがいたのか?」


 井上が低い声で凄むと、上松は慌てて首を横に振る。


「し、知らねえ。前は、あんなものはいなかったんだ!」


 答える上松に、井上はゆっくりと顔を近づけていった。


「で、ここは何なんだよ? さっきのプールと、なんの関係があるんだ?」


「前回は、あのスイッチを押せばプールの水が引いたんだ。そしたら、通れるようになったんだよ!」


 言いながら、上松は向こう側の壁を指さした。ほぼ同じ動きで、井上は犬の方を指さす。


「なるほど。ただ、前回にあれはいなかったんだな?」


「う、うん、いなかったよ」


「となると、トラップの解き方も変化してる可能性がある。あのスイッチ自体が、トラップかもしれないわけだ。リピーターを入れる以上、その可能性は捨てきれんわな」


「それは……俺にはわからない」


 上松の表情が歪む。その表情を見た井上は、溜息を吐いた。


「とはいえ、今はあれを押してみるしかなさそうだ。問題は、どうやって檻に入るかだが……」


 言いながら、井上は右側の壁を指さした。そこには、レバーが付いている。上がった状態になっており、下げれば何か起きそうな気配を漂わせている。


「順当に考えれば、あのレバーを降ろすと鉄格子が上がる……そのパターンだろうな」


「そ、そうだな。俺もそう思うぞ」


 調子を合わせる上松を、井上はじろりと睨む。


「問題は、あいつがスイッチを押させてくれるかどうかだ」


 そう言うと、井上は鉄格子に近づいた。隙間から、そっと手を入れる。

 すると、犬は凄まじい勢いで飛びかかってきた。口を開け、井上の手に食らいつこうとする──

 だが、すぐに手を引いた。直後、カチッという音が響く。牙と牙のぶつかる音である。彼の手を、本気で噛みちぎりに来ていたのだ。井上は苦笑した。


「とんでもなく凶暴な奴だな。こりゃあ、話し合いは無理っぽい。それにだ、ドーベルマンって奴は強いんだよ。三人がかりでも、殺られる可能性は高い。何より、こんなところで怪我したくねえからな」


 井上の言うことは正しい。犬といえば、たいていは愛玩用の動物を思い浮かべるだろう。だが、本気の殺意を抱いて向かってくる犬は手強い。人間より速く動けるし、顎は動物の骨を噛み砕く力がある。普通の中型犬ですら、やろうと思えば成人男性を殺せるのだ。

 ましてや、訓練されたドーベルマンは桁外れの殺傷能力を持つ。その牙は刃物にも匹敵する威力があるし、全身の筋力も人間を上回っている。スピードに至っては、比べること自体が間違っているレベルだ。

 例えるなら、何の運動経験もない素手の一般中年男性が、ナイフを持った特殊部隊の青年と戦うようなものだ。人間とドーベルマンとでは、それくらいの殺傷能力の差があるだろう。さすがに井上でも、勝つのは難しい。

 もっとも、彼には拳銃がある。それを使えば、殺すこと自体は不可能ではない。しかし、井上には拳銃を使う気はないらしかった。リュックをおろし、中に手を突っ込む。


「まずは、こいつをやってみよう」


 言いながら、取り出したのほチョコレートバーだ。すると、上松の顔が歪む。


「お、おい! エサやってどうすんだよ!」


「アホ、お前は知らねえのか。犬にとって、チョコレートは毒なんだよ。一度に大量に食えば、死にはしなくても確実に体調がおかしくなる。その隙を突くんだ。それに、腹が膨れりゃ動きも鈍くなる。戦う気も失せるだろうよ」


 そう言うと、井上ほチョコレートバーを投げ入れた。ドーベルマンは、一度はくんくん匂いを嗅ぐ。だが飢えていたのか、すぐに食べ始めた。あっという間に、一本を食べ終える。

 井上は、次のチョコレートバーを投げ入れた。犬は、すぐに食らいつく。

 食べている間に、井上はさらにチョコレートバーを投げ入れていく。ドーベルマンは、美味しそうに食べていく。

 何本のチョコレートバーを食べただろうか……やがて、犬の様子が変わった。足元をふらつかせ、はあはあと荒い息を吐いている。落ち着かない態度で、辺りをキョロキョロしつつ室内をウロウロし始めた。


「効いてきたぞ。よっぽど腹を空かしていたみたいだな。普通、チョコレート食ったからって、こんなに早く効き目が出ることはないんだがな」

 

 呟いた井上は、レバーに視線を移す。


「今なら大丈夫だろ。まずは、あのレバーを引いてみるか」


「あの犬、どうなるんだろうね」


 不意に、蘭が誰にともなく言った。すると、井上は冷めた表情で答える。 


「あの様子だと、もう長くないと思う。チョコレートは、犬にとって毒だからな」


 彼の言う通りだった。ドーベルマンはふらついており、時おりガクッと崩れ落ちる。だが、どうにか立ち上がってはこちらを見つめる。その目に、敵意は感じられない。敵意よりも、己の体の異変の方が重要なのだろう。

 あるいは、餌をくれたことに対し感謝しているのか──


「かわいそうだね……」


 ポツリと呟いた蘭の目には、憐れみの感情が浮かんでいた。


「仕方ないんだよ」


 井上が声をかけるが、蘭はそれでも納得いかないらしい、


「何も悪いことしてないのに、こんなところに連れて来られて、目の前にいる人間に襲いかかるよう仕込まれて、挙げ句に毒を食べさせられて命を失う……なんて悲しい生涯なんだろうね。本当にかわいそうだよ」


 そこまで語った時、上松が苛ついた顔で会話に入ってきた。


「かわいそう? あんた、よくここまで生きてこられたな。ここじゃ、殺らなきゃ殺られるんだよ。犬の一匹や二匹、いくらでも殺してやる──」


 そこで、井上の手が伸びた。上松の襟首を掴む。


「お前は黙ってろ」


 低い声で凄むと、上松はすぐに口を閉じた。

 続いて井上は、蘭の方を向く。


「蘭、よく聞け。俺たちは生き延びなきゃならないんだよ。生き延びて、諸悪の根源を潰す。それが何者か、わかるよな?」


 その言葉に、蘭は無言でこくんと頷いた。井上は、さらに語り続ける。


「なら、前に進むんだ。今は納得いかねえかもしれねえが、その怒りは足に込めろ。前に進むエネルギーに変えるんだ。あの犬の仇を討つためにも、このゲームをクリアする。いいな?」


「わかったよ」


 蘭は答えた。納得はしていないが、無理やりにでも割り切ろうとしている……そんな風に見える。

 井上はというと、そのままレバーの方に歩いていった。少しの間を置き、レバーを下げる。

 鉄格子は、きしみながら動き始めた。天井へと収納されていく。やがて、完全に上がりきった。

 ドーベルマンは、こちらのことなど見てもいない。息を荒げながら、その場に伏せている。まだ生きてはいるが、もう長くないだろう。

 井上は、そんな犬には見向きもせず進んでいった。そっとスイッチを押す。

 直後、奇妙な音が聞こえてきた。地鳴りのようなものだ。それに伴い、微かに床にも振動が伝わってきた。

 蘭は、不安そうに周囲を見回す。井上はといえば、上松の方を向いた。


「お前の言うことが正しければ、これでプールの水はなくなっているはずだな」


「あ、ああ。前回も、こんな風になったよ。だから、行ってみようぜ」


 そう言って、上松は出ていった。井上も、後に続く。

 最後に、蘭が出ていこうとした。が、足を止め振り返る。

 彼女の視線の先には、フラフラな足取りのドーベルマンがいた。もはや、まともに立っていることも出来ないようだ。今から何をしようが、助からないだろう。

 蘭は、無言で犬を見つめる。その表情は、とても悲しげだった。

 ややあって、思いを断ち切るように向きを変える。そのまま、部屋を出ていった。




 三人は、プールのあった部屋まで戻った。

 扉を開け中に入ると、あの濁った水は綺麗になくなっていた。底までは、五メートルから六メートルほどあるだろう。床の四隅には、巨大な穴が空いている。水は、その穴から一気に流れ出たらしい。床とはいっても、今では歩けるスペースよりも穴の方が面積が大きいくらいだ。

 さらに、歩けるスペースには数匹の魚がピチピチと跳ねていた。どうやら、水の排出に取り残されてしまったらしい。ピラニアのような見た目である。

 さらに、人間のものらしい骨も残されていた。


「こいつは、泳いで渡ろうとして食われたんだな。バカな奴だよ」


 言いながら、井上はハシゴを降りていく。


「気をつけろ。こいつら、まだ噛みつく力は残ってるからな。素手で触れたりしたら、指を食いちぎられるかもしれないぞ」


 ・・・


 そんな三人の様子を、直島はカメラでじっと見ていた。

 井上がプールの底に着いた時、タブレットから声が聞こえてくる。


「これは面白いことになったね。あの上松と、井上たちがパーティーを組むとはね」


 安藤の声からは、楽しくてしょうがないというような感情が滲み出ている。


「僕も意外でした。宮村の時のように、問答無用で襲いかかるかと思ったのですが……」


「そう、宮村のことは最初から拒絶した。ところが、上松は信用した。これは、どういうことかな」


「榎本との戦いやプールのトラップで、井上も気づいたのでしょう。この迷宮が、想像以上に恐ろしいものであることに……ひとりはもちろん、冬月とふたりでもクリアは厳しいと。しかも、上松はトラップをクリアする方法を知っていた。となると、奴を入れるしかないでしょう」


「まあね。それにしても、運命とは皮肉なものだ。冬月も、まさか自分の恋人を殺した男と同行しているとは思わないだろうね。実に面白い」


「そうですね。ただ、これで勝負はわからなくなりましたよ」


「そういえば、魚の餌になった坂上は四番人気だったよね」


「はい」


 直島は答える。この四番人気とは、参加者の中で誰が最後まで生き残るか……のトトカルチョだ。

 坂上章一サカガミ ショウイチは、高校そして大学と野球部に所属していた男である。身長百八十五センチ九十キロの堂々たる体格であり、百メートルを十秒台で走る身体能力を持っていた。もちろん、野球センスにも非凡なものがある。甲子園の出場こそ逃したものの、プロ入りも確実と言われていた。だが、後輩の自殺をきっかけに隠されていた性癖が世間に知られてしまう。

 この男、一見すると爽やかなイケメン野球選手である。しかし実のところ、人をいたぶり苦痛に歪む顔を見るのが好きで好きでたまらない……そんな性格の持ち主でもあった。

 自殺した後輩も、坂上からの執拗ないじめを受けていた。その中には、性的なものもある。坂上はゲイではないが、ウケ狙いで友人たちの前で後輩を全裸にして肛門に異物をねじ込んだりしたのだ。しかも、その模様を笑いながら録画していた。

 後輩は、もはや耐えられなかった。近所にあるビルの屋上から飛び降り、自らの命を断ったのである。遺書には、坂上への恨み言が綴られていた。

 当然、坂上は警察から事情聴取を受けた。しかし、被害者である後輩は既に死んでいる。残された動画からは、犯罪を立件できず不起訴となった。だが、黙っていない者もいた。

 事件が明るみに出た直後、坂上はネットにて凄まじい攻撃を受ける。大学や、自宅の住所および電話番号を晒された。SNSのアカウントはいうまでもない。しまいには、家族までもが画像を晒されたのだ。

 坂上は大学を中退し、自宅に引きこもる。もっとも、たまに外出することもあった。そして今回、コンビニに買い物に出かけたところを拉致される。ゲームに参加させられてしまったのだ──


「元野球部という経歴ゆえ、身体能力はなかなかのものだった。咄嗟の判断力も悪くない。事実、参加者の中で一番早くゴールに近い位置まで辿り着いた。兵は巧遅より拙速を尊ぶという言葉があるが、彼はまさに体現者だったね」


 そこで安藤は言葉を切り、溜息を吐く。


「ところが……悲しいかな、地頭じあたまが悪すぎた。何のためらいもなく、プールに飛び込んだからね。あれには、さすがに目が点になったよ。出来の悪いコントを見てるような気分にさせられたね」


「同感です。井上とは、違った意味でとんでもない奴でした」


 ふたりが言うのも仕方ない。坂上は、参加者の中でも一番早くこの部屋に入った。ハンターに襲われることも、他の参加者と戦うこともなく到着した。運が良かったこともあるだろうが、思い切りの良さと行動の早さが上手く働いたのは間違いない。

 ところが、部屋に到着した後にしたことは……見ている者たちを唖然とさせた。服を脱ぎリュックの中に入れたかと思ったら、何のためらいもなくプールに飛び込んだのだ。結果、遺伝子組み換えにより凶暴にさせられたピラニアに襲われ、あっという間に食らいつくされてしまったのだ。


「思い切りの良さは必要かもしれませんが、それだけでは駄目ですよね」


「うん。まあ、結局のところは運だけどね。でなきゃ、上松みたいなのが生き残れるわけがない」











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