ハンター(2)
突然、迷宮内に響き渡る悲鳴。当然ながら、蘭と井上の耳にも届いていた──
「い、今の何!?」
恐怖のあまり顔を歪める蘭に向かい、井上は冷静に対応した。自分の唇に、人差し指を当てて見せる。静かに、というジェスチャーだ。
悲鳴は、まだ聞こえていた。おそらくは男のものだろう。助けてくれ、と叫ぶ声も混じっている。井上と蘭は部屋の中で扉を閉め、息を潜めていた。
やがて、声は聞こえなくなった。井上は、そっと扉を開ける。隙間から、通路の様子を覗った。
今のところ、外には何もない。井上は姿勢を低くし、ナイフ片手に外へ出ていく。周りを慎重に見回して安全を確かめると、部屋の中にいる蘭に声をかける。
「いいぞ。出てこい」
「ちょっと待って、隠れてちゃ駄目なの? 外に出なきゃいけないの?」
声を震わせながら尋ねた蘭に、井上は険しい表情で答える。
「当たり前だ。ずっと、ここに隠れているわけにはいかない。長引けば、こちらが不利になるんだよ。忘れたのか」
その言葉に、蘭はハッとなった。ややあって、震えながらも部屋を出ていく。直後、井上はぐいっと彼女の体を引き寄せる。耳元で、そっと囁いた。
「俺が先に進む。お前は、後から来い。ただし、後ろには気をつけてくれ。気づいたことがあったら、すぐ知らせるんだ」
そう言うと、しゃがみ込んだ体勢でナイフ片手に進んでいく。
ふたりの位置から見て右側の壁には、三つの扉が並んでいた。ひとつは、蘭のいた部屋。真ん中は、リタイアルーム。最後の部屋に、井上は入れられていたのだという。
その三つの扉を通り過ぎてしばらく進むと、通路は左方向へと曲がっていた。井上は、低い姿勢のままで覗いてみる。
人の姿はない。通路は、左方向へと伸びている。どのくらい先まで続いているのか、ここからでは見ることが出来ない。少なくとも、十メートル以上先まで伸びているのは確かだ。
だが、それよりも重大な問題がある。部屋を出てからずっと、奇妙な音が聞こえているのだ。ドスン、ピチャン、ベリベリ……そんな音が断続的に続いていた。
井上は、すぐ後ろにいる蘭に囁く。
「誰もいない。行くぞ」
蘭は、無言でこくんと頷く。ふたりは立ち上がり、左方向へと進んでいく。と、音はぴたりと止まった。
だが、井上は怯まなかった。少しずつ、音の源へと近づいていく。そうなると、蘭も近づいていかざるを得ない。
しばらく進むと、右側の壁に鉄製の扉が付いているのが見てた。通路はまっすぐ伸びているが、十メートルほど進むと左方向に曲がっている。
先ほどの異様な音は、その左方向から聞こえていたらしい。だが、今は静寂に包まれている。
井上は、蘭に囁く。
「ちょっと見てくるから、ここで待ってろ」
直後、井上は背負っていたリュックを下ろした。そのリュックを左手に持つと、姿勢を低くして進んでいく。蘭は、怯えた表情で彼の後ろ姿を見ていた。
曲がり角の手前で、井上は動きを止めた。しゃがみ込んだ姿勢のまま、その場にとどまっている。後ろで見ている蘭は、緊張のあまりゴクリと唾を呑み込んだ。
と、それが合図だったかのように井上が動く。さっと前進し角を曲がる。途端に、異様な声が響き渡った──
奇襲をかけて来たのは、日本刀を振り上げた中山だ。
「キエェェェ!」
奇怪な雄叫びと共に、刀を振り下ろす。この殺人鬼は、異様な感覚でふたりの接近を察知していた。しかも日本刀を振り上げた体勢で、じっと待ち伏せていたのだ。
彼の斬撃をまともに食らえば、井上は肩から胸を切り裂かれていただろう。その時点で、勝敗は決していたはずだ。
しかし、井上の動きは中山より速かった。素早く前進し、左手に持ったリュックを盾のように用いて刀を受け止めたのだ。刃は、リュックに弾かれた。
中山の反応も速い。防がれたと見るや、次の攻撃を仕掛ける。今度は、横からの一撃が襲う。井上の首めがけ、刀が振るわれた──
対する井上もまた、すぐに反応した。咄嗟に、その場で身を伏せる。刀は狙いを外れ、横の壁に激突した。金属とコンクリートがぶつかり、耳障りな音が響き渡る。
中山の口からも、異様な声が漏れる。怒号だ。思うようにいかない状況に苛立ったのか、再び刀を振り上げた。
だが、井上も黙って攻撃を待ってはいない。左手のリュックをぶん投げる。中山は反射的に、投げられてきたリュックを払い落とした。
直後、井上はしゃがんだ体勢のまま、くるりと前転した。素早い動きで相手に密着し、太ももにナイフを突き立てる。
直後、呻き声とも罵声ともつかないものが響き渡った。無論、中山のものだ。しかし、井上は意に介さない。ナイフをすぐに引き抜いたかと思うと、一瞬にして背後へと回る──
あまりにも早くスムーズな動きのため、中山は対応できなかった。ただただ狂ったように刀を振り回すが、背後に回っている井上には何の効果もない。刃が壁にぶつかり、不快な音を立てただけだ。それでも、中山は日本刀を振り回し続ける。
そんな無駄な足掻きの最中にも、井上は冷静に動いていた。中山の顎を掴み、上を向かせる。と同時に、喉を切り裂いた。
ゴボッ、という音が中山の口から漏れる。直後、大量の血液が流れた。
それでも中山は倒れない。声帯を切り裂かれた喉より、声にならぬ怒号を吐く。必死でジタバタもがいていたが、井上は気にも留めず蹴倒す。
中山は、どうにか起き上がろうとした。だが、己の流した血で滑り倒れる。
ややあって、その動きも止まった。
蘭は、体を震わせながら座り込んでいた。彼女のいる位置からは、何が起きているのか全く見えない。それでも、音は聞こえる。金属音、罵声、足音……間違いなく戦いの際に出るものだ。
やがて、声が聞こえてきた。
「蘭、終わったぞ。ちょっと、こっちに来い」
井上のものだ。蘭は、恐る恐る近づいていく。角を曲がった途端、彼女はその場に立ち尽くしていた。
そこには、中山の死体が転がっている。太ももを刺され喉を切り裂かれ、流れ出た血が床を真っ赤に染めていた。顔は苦痛で歪み、かっと目を見開いている。今にも動き出しそうな表情で倒れていた。
傍らでは、井上が床に片膝を着き荒い息を吐いている。
「な、何これ」
思わず呟いた蘭に、井上が答える。
「いきなり襲ってきやがった。たぶん、こいつがハンターだよ。ちゃんと殺しといたから、もう大丈夫だけどな。ちなみに、こっちに進んでも行き止まりだ。もうひとつ死体が転がっているから、行かない方がいい」
事もなげに言いながら、通路を指さした。直後に手を伸ばし、落ちていた日本刀を手にする。その刃は、途中で折れていた。
「こんなもんで斬りかかって来たんだぜ。まさに、何とかに刃物だよ」
「これ、何?」
「日本刀だよ。こいつ、さんざん振り回した挙げ句、壁にぶつけて折りやがった。たぶん、安物の刀だったんだろうな。名刀なら、少々ぶつけたくらいじゃ折れやしねえはずなんだが」
言った後、ポイッと刀を放り投げた。その時、蘭がボソッと呟く。
「ケガしなかった?」
「ケガ? してねえよ。こいつは殺しには慣れてたが、たぶん素人だ」
そこで、井上は口を閉じた。突然、蘭の目から涙がこぼれたのだ。
「ごめんね……あたし、守られてばっかりで……」
言ったかと思うと、肩が震え出した。口からは、嗚咽の声が漏れる。
そんな彼女を、井上はじろりと睨みつけた。
「おいおい、また泣いてんのか? 勘弁してくれ。適材適所って言葉があるだろ。俺は戦う、お前は背後を守る、それでいいんだ。ここは、何があるかわからない。協力し合うことが大切なんだ。それに、お前から借りた防弾ベストがなかったら危なかったよ」
言いながら、盾代わりに用いたリュックを指し示す。この中には、蘭の防弾ベストが入っていたのだ。ベストが入っていなければ、リュックは一刀両断されていただろう。そうなれば、井上とて無傷では済まない。下手をすれば、一撃で殺されていたかもしれないのだ。
防弾ベストを取り出しながら、井上は語り続ける。
「いいか、お前が背中を守ってくれるから、俺は安心して目の前の敵と戦える。守られてばかり、なんてことはないんだ。わかったな?」
「うん、わかった」
・・・
モニターに映る両者を、直島はじっと見ている。言うまでもなく、先ほどの戦いもずっと映し出されていた。
「大したものだね。五人殺しの中山が、完全に子供扱いだったよ」
タブレットから聞こえる安藤の言葉に、直島は頷く。
「そうですね。中山も、しょせんは素人だった。殺しには慣れていても、戦いには慣れていなかったようです」
「どういう意味だい?」
「中山が殺したのは、恐怖に怯え逃げ腰になっている者ばかりだったのでしょう。いわば、いじめられっ子を殴って強さをアピールするいじめっ子みたいなものです。ところが、井上は違っていました。海外で、本気の殺意を持って向かってくる連中と戦い、生き延びてきたのです。そもそもの前提条件が違い過ぎるんですよ」
そう、ハンターとなる前の中山が殺したのは、全て一般人である。しかも、完全に不意討ちだった。夜中、家族および親戚が寝静まった頃を見計らい凶行に及んだのである。
もともと中山は、生き物の命を奪うことに暗い喜びを覚える異常者であった。幼い頃より、虫の足や羽根をちぎって遊んでいた。成長するにつれ、その対象は蛙や鼠といった小動物になり、やがて犬や猫を殺すようになる。
中学を卒業後、進学校へと通うようになった中山だったが……次第に、周囲から孤立していく。家族とも折り合いが悪くなり、憂さ晴らしのため生き物を殺し続ける。
やがて、彼の暗い一面が父にバレてしまう。ここで父は、どう考えてもマズい手段を取った。近くに住んでいた親戚を呼び、家族会議と称し皆の前で中山の性癖を暴き立て罵詈雑言を浴びせる。さらに酒が入り、親戚一同が揃って中山を嘲笑い、罵り、小突き回した。やがて夜になり、帰った者もいたが、そのまま泊まった親戚もいた。
凶行が起きたのは、その夜だった。皆が寝静まった頃、むっくりと起きて居間にあった日本刀を手にする。
寝込みを襲い、次々と殺していったのだ──
「なるほど。しかし、その井上はやけに彼女に甘いなあ。いったい、どういうわけだろうね?」
安藤の言葉に、直島が答える。
「何なんでしょうか……冬月も顔は綺麗ですからね、一目惚れしたのかもしれません。まあ、出られるのはひとりだけですからね。あのふたりが最後まで残った場合、どうなるのか楽しみですよ」
「確かに、面白くなって来たのは間違いないね」
そう言って、安藤は笑った。
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