プレイヤー

 リュックを背負った蘭は、扉の取っ手に触れてみた。慎重にひねってみる。すると、取っ手は簡単に回った。

 直後、扉を押してみた。きしむような金属音とともに、扉はゆっくり開く。

 辺りを警戒しつつ、部屋の外に出た。廊下は薄暗い上に狭く、ふたり並んで歩くのがやっとだろう。ただし、天井は高い。先ほどまでいた部屋と同じくらいの高さだろうか。灰色のコンクリートに覆われた通路は、見る者に無言の圧力をかけてくる。

 彼女は、思わず唾を飲み込んだ。不安な表情を浮かべながら、周りを見回す。左方向の通路は、三メートルほど進むと行き止まりになっていた。扉も何もなく、ただコンクリートの壁が立ちはだかっているだけだ。

 右側を見てみれば、通路はかなり先まで伸びている。しかも、二メートルほど先には金属製の扉が見える。今しがた蘭が出てきた部屋と、同じ側の壁に付いているのだ。見た目は、マンションの隣にある部屋という感じである。いや、刑務所の独房が並んでいる、といった方が正確か。

 蘭は、隣の扉に近づいた。手を伸ばし、取っ手に触れる。

 そっと引いてみた。金属音をたてながら、扉が開く。先ほどまで蘭がいた隣の部屋と、全く同じ構造のようだ。広さもほとんど同じである。中に入り用心深く見回したが、何もなかった。

 いや、何かある。天井に、カメラらしきものが設置されている。さらに、こう書かれていた。

 リタイアルーム、と。


「リタイア?」


 思わず呟いた。と、その時──


「ここがリタイアルームなんだってよ。それにしても、首ふたつ持ってこいなんて、悪趣味なこと考えるよな」


 不意に、背後から声が聞こえてきた。低く野太いもので、男性のそれであることは明白だ。いつの間に近寄っていたのか。

 直後の蘭の動きは、あまりにもマンガチックなものだった。


「きゃあ!」


 漫画に出てくるような素っ頓狂な悲鳴をあげたかと思うと、勢いよく飛び上がる。ついで、ぱっと振り向いた。

 彼女の目の前には、ひとりの男が立っている。背は高く、百八十センチは優にあるだろう。肩幅も広く、がっちりした体格である。ただし手足が長いため、スマートな印象も兼ね備えていた。肌は浅黒く、顔立ちは野性味があり、目は大きくギョロっとしている。髪は黒く、短髪の縮れ毛である。黒の作業服上下を着ており、黒のリュックサックを背負っている。

 どう見ても、純粋な日本人には思えない。だが、欧米人にも見えない。アフリカ系とアジア系のハーフだろうか。ただし、そんなことよりも、もっと大きな問題がある。

 彼の手には、大きなナイフが握られているのだ。


「きゃあ!」


 もう一度、素っ頓狂な叫び声をあげた蘭。直後、後ろに飛び退く。半ば反射的な行動だったのだろう。

 だが、それは大きな誤りだった。勢いよく下がった途端に、蘭の肘がコンクリートの壁に激突する。当然ながら壁は硬い。痛みのあまり、彼女は顔をしかめ肘を押さえた。

 その時、男が怒鳴る。


「おい! ちょっと落ち着け!」


 言った後、男はしゃがみ込む。ナイフを床に置き、すっと立ち上がった。


「いいか、俺の名は井上正樹イノウエ マサキだ。俺は、お前に危害を加える気はない。まずは、落ち着いて話を聞け」


 そんなことを言いながら、ゆっくりと近づいて来る。両手を挙げた体勢だ。

 すると、蘭の表情がまたしても変化する。驚き戸惑っている、そんな表情で相手の顔をまじまじと見つめた。

 次の瞬間、目が大きく見開かれる。口は開かれたが、声は出なかった。

 直後、その目からは大粒の涙が流れたのだ。肩をわなわな震わせながら、涙に濡れた瞳で井上と名乗った男を見つめている。そう、蘭はこの恐ろしい風貌をした男の前で、感極まり泣き出していたのだ。恐怖によるものか、あるいは頭と心が混乱しているのか。

 彼女は泣きながら、どうにか口を開いた。


「あ、あんたは──」


 言葉が出かかったが、言い終えることは出来なかった。井上が瞬時に間合いを詰め、蘭の口を手のひらで塞いだ。

 続いて顔を近づけ、耳元で語りだした。


「ちょっと待て。余計なことは言うな。お前は、しばらく黙っているんだ。まずは、俺に喋らせろ。それが終わったら、いくらでも喋らせてやる。わかったな?」


 ドスの利いた声である。腕力も強く、有無を言わさぬ迫力がある。その迫力に押され、蘭はウンウン頷いた。

 井上は、ニヤリと笑う。


「わかってくれたようだな。じゃあ、俺から話すぞ。俺はな、この迷路脱出ゲームみたいなのに、無理やり参加させられたんだよ。いきなり襲われ、妙な薬で眠らせられ、気づいたら隣の部屋に入れられていた。もしかしたら、お前も同じなのか?」


 聞かれた蘭は、こくんと頷く。


「そうか。悪いが、もう少し黙って聞いてくれ。俺は、ここから脱出したい。しかしだ、ひとりでは出来ることにも限界がある。それに、この先なにが待っているか見当もつかない。ハンターとやらが襲って来るらしいからな」


 そこで井上は言葉を切り、周囲を見回した。

 

「だから、俺と組まないか?」


 その言葉に、蘭は怪訝な表情を浮かべる。すると、井上はじろりと睨んだ。


「会ったばかりで信用できねえのはわかる。だがな、ここは協力しよう。とにかく、これを考えた奴はイカレてる。俺たちの命なんか、何とも思っちゃいねえんだ。ならば、ここで協力して生き延びる可能性を高めるべきだ。そうだろうが? 俺の言っていること、わかるな?」


 その問いに対し、蘭はじっと井上を見つめる。

 少しの間を置き、こくんと頷く。それを見て、井上はニヤリと笑った。


「じゃあ、同盟成立だな。いいか、今から手を離すぞ。だがな、余計なことは言うな。誰に聞かれているか、わからないからな」


 言葉の直後、手は離れた。蘭は、井上の顔をじっと見つめる。

 一瞬遅れて、またしても涙が溢れた。彼女はその場に崩れ落ち、嗚咽の声を漏らす。


「なんで、なんでこうなったの……なんなのここは……」


 嗚咽に混じり、途切れ途切れに聞こえて来る涙声。床を見つめ、肩を震わせ泣きじゃくっている。

 その時、井上が声をかける。


「さっきも言ったが、俺の名は井上正樹だ。お前の名は?」


「えっ?」


 蘭は首をかしげる。お前は何を言っているのだ? とでも言わんばかりの表情だ。

 すると、井上は舌打ちした。


「おいおい、頭は大丈夫か? 自分の名前も忘れちまったのか? 俺たちゃ、初対面なんだぜ。とりあえずは、名前を教えてもらわねえとな」


 その言葉に、蘭ははっとなった。慌てて口を開く。


「ふ、冬月……蘭です」


「冬月蘭だな。おい蘭ちゃんよう、泣きたい気持ちはわかる。俺だって、正直いうなら泣きてえよ。何の因果かわからねえが、こんな訳わからねえゲームに参加させられた。それも強制的にな。世の中ってのは、本当に理不尽に出来てるよ」


 しんみりした口調だった。口調そのものは乱暴だが、声音は優しい。蘭は、そっと彼の顔を見上げた。


「でもな、泣いてても問題は解決しねえんだよ。前に進むしかねえんだ」


 ・・・


 両者のそんなやり取りは、モニターに全て映し出されていた。直島は椅子に座り、じっと見つめている。


「驚いたねえ。まさか、井上があんな行動に出るとは思わなかったよ。彼の本質は紳士なのかな」


 タブレットから、そんな声が聞こえてきた。もちろん安藤のものである。彼もまた、蘭と井上には注目しているらしい。直島は、苦笑しつつ頷いた。


「いやあ、今までやってきたことは紳士とは真逆なんですけどね。僕としても、完全に想定外でした」


 そう、本来なら有り得ない展開なのだ。井上は、筋金入りの悪党なのだから……。


 井上正樹は、繁華街の路地裏で生まれた。父親はアメリカ国籍の兵士であり、母親はモグリの売春婦である。井上が生まれてすぐ、父親はアメリカに帰国してしまった。母親も、程なくして病死する。以来、彼は色街の裏通りで、たったひとりで生きていく。

 八歳の時、井上は警察官に補導され児童養護施設に預けられた。だが、おとなしくしていたわけではない。恵まれた体格と極度の負けず嫌いな性格、そして獣のごとき凶暴性により、手のつけられない乱暴者として施設で名をはせる。同じ年頃の子供たちを手下のように率いて、あちこちで悪さをしていた。近所でも、評判の悪ガキとして知られていたらしい。もっとも、当時の彼がしていたことは、子供のいたずらで済まされるようなものだった。

 ところが十二歳になった時、彼の人生を決定づける出来事が起きた。ある日、井上は成人男性と喧嘩になる。詳しいいきさつは不明だが、最終的に男性の頭に石を叩きつけ殺害してしまったのだ。

 少年法により、井上が法律で裁かれることはなかった。代わりに教護院へと入れられたが、ここでも筋金入りの問題児ぶりを発揮する。入った初日に、院生の中でもっとも強い少年を叩きのめしてしまう。以後、十五歳までを教護院で過ごしたが、たびたび問題を起こしていたという。

 院を飛び出した後は、裏の世界へ足を踏み入れる。あちこちで暴れた挙げ句、日本にいられなくなり海外へと渡った。警察よりも、むしろ裏社会の住人たちに命を狙われたためらしい。

 その後、アジア圏でマフィアの一員となり、さらにヨーロッパで傭兵として活動していた時期もあったらしい。だが……何を思ったか、今になって日本に帰ってきた。その情報を掴んだ直島により拉致され、ゲームに参加することとなったのである。


「井上なら、問答無用で彼女を殺すかと思ったのだがね。あの態度は、どういうわけだろう?」


 安藤が聞いてきた。


「奴はこれまで、危険な修羅場をいくつも潜り抜けてきた男です。やはり、このゲームに対し慎重になっているのでしょう。冬月なら、井上の言いなりになるでしょうしね。手駒として上手く使う気なんでしょう。いざという時の盾代わりに使うつもりかもしれませんがね」


「盾代わりか、なるほど。まあ、そうでなくては面白くない。今のところ、一番人気が井上だからね」


 安藤の言う一番人気とは、視聴者の間で行われている賭けの人気だ。参加者のうち、誰が最後まで生き延びるか……という内容のものである。ルールは細かく設定されており、途中でリタイアが成功した場合などは、配当金が違ってくる。あらゆる事態が想定済みなのだ。

 井上は、その経歴を評価され現在トップの人気である。次に人気なのは、完全制覇を成し遂げた上松だ。


「いずれにせよ、出られるのはひとりですからね。仮に、井上と冬月が最後まで生き延びたとしても、最終的にふたりは殺し合うことになります。そうなったら、勝つのは井上でしょうね。まあ、上松の時のように不意打ちかまして冬月が制覇する可能性もありますが」


「おいおい、そうしたら大穴だよ。まあ、無理だろうけどね」




 

 

 


 

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