深夜の浜辺で月明かりに照らされて

鷺島 馨

深夜の浜辺で月明かりに照らされて

「こんばんは」

「こんばんは。今夜も月が綺麗ですね」


 20年程前。

 結婚して3年になる俺は家に居たくなくて深夜の浜辺を歩いていた。きっかけは些細な事だった。

 共働きだから家事は出来る方がやろうと決めていた。それなのに妻がするのは夕飯の調理だけ。それも気分で作らない日もあった。

 その事を注意して喧嘩になったのが数時間前の事。注意される事を嫌う妻に我慢してきたが限界がきた。

「私が悪いんでしょ!」

 引き篭もった妻と同じ家に居るのが居心地が悪かったのだ。


 満月に照らされて海面に出来た光の帯を眺める。

 この辺りでは珍しく穏やかな波音を聴いていると不意に鈴の音のような可愛らしい声が聞こえた。


「こんばんは」


 静かな波音以外に聴こえてくるものがない波打ち際。

 振り返った俺に儚げな笑みを浮かべてきたのは満月に照らされて輝く銀糸、色素を感じさせない整った顔立ちにはあどけなさが窺えた。淡藤色をした丈の長いワンピースに足元はサンダルという出立ちの女性。

 俺の隣に腰をおろしてもう一度「こんばんわ」と言ってきた。


「月が綺麗ですね」


 そう返した俺に満足したように彼女も月を見上げた。


 その日から暫く俺と彼女は深夜の浜辺を散歩する様になった。

 お互いの名前も事情も何も話さないまま一緒に過ごすだけの関係が続いた。


 転勤を機に妻とは別れた。

 そして仕事だけに明け暮れていた俺は去年、故郷であるこの町に帰ってきた。病に侵され余命宣告を受けたというのもあるのだが、どうしてもあの日見た月が見たかった。


 あの日と同じ深夜の波打ち際。

「こんばんは」

 あの時と同じ鈴の音の様な女性の声。

「こんばんは。今夜も月が綺麗ですね」

 振り返ったそこにはあの日と変わらない名も知らぬ彼女が微笑んでいた。


 会話をしているうちに俺の意識はこの世界から遠ざかっていく。

 俺は柔らかく微笑む彼女の腕の中で安らかな表情を浮かべたまま幸せな旅に出た。

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