第4話 宵の内


「おかえり〜」

 この日、祖父母の家に下宿して県外の高校に通学していた兄が帰省した。

 両親の元を離れて生活している兄を第一に心配するのは当然のことであり、そんな状況下で「イジメられている、助けて」と言えるはずはない。


 私さえ黙っていれば、心の傷は誰にも分からないのだから、頑張って作り笑顔で楽しい中学生活を報告すれば、それで済む話である。

 どこまで、いつまで耐えられるのか保証も希望もなかったが。


 帰省した兄は列車の中で読むために買った本を部屋に置くと、両親と一家団欒の時間を楽しんでいたが、唯一の趣味が読書だった私は

「小説?」

 兄が買ってきた書物の、たった三文字のタイトルに引き寄せられた。


「三国志?」


 内容は皆目見当もつかなかったが、本があったらとりあえず手に取って見たいという衝動だけが私の命を『三国志』の前に運んだ、その瞬間


 ―この感覚、何? 


 一世一代の運命が動いた。 

 それは、デジャブでも前世の記憶でもなかった。

 生きるべきか、死ぬべきか、それだけが問題だと日々悩んでいた底なしの泥沼状態で、もがき苦しんでいた私がようやく、ようやく受けられた命の衝撃。

 前世なんかの手柄にされては、たまったものではない。


 してや私は前世の生贄いけにえでも、犠牲ぎせいでも、代理人でもない。

 この人生を生きているのは紛れもない、私自身である。


 前世の都合に合わせて運命を感じるほど生命力に余裕がなかった満心創痍、、、、の私が『三国志』と題された本の扉を捲ると、私史上、空前絶後の奇跡が起きた。


 歴史や中国に何の興味も関心もない私が、千八百年も昔の中国がどんな風だったのか想像できるはずもないのに、私の目が文字に触れると、文字が空間に飲み込まれて三国志の世界が拓かれていった。


 土埃の乾燥した触感や、固唾を呑みこむ音までもが、生々しい感覚となって降りかかっては、私の五感を支配する、という不思議な読書体験は三十年以上経った今でも鮮明に覚えている。


 文字が文字としての役割を忘れたのか、昇華したのか解らないが、視、聴、嗅覚に至るまで鮮明に破竹の勢いで目の前に繰り広げられていく三国志の世界。


 まるで私が「本」という名のタイムマシンに乗って、千八百年前の三国志の世界に足を踏み入れ、彼らと喜怒哀楽を共にしているような、鼓動の高鳴りさえも物語の一部となって刻み込まれているような、そんな時空間がそこにはあった。


 そして、気がついた時にはもう、元の世界には戻れなくなっていた。


 私の生活はいうまでもなく、脈打つ鼓動の一つ一つが三国志の英雄たちと生きるために動き始めていた。


 呼吸をするたびに、彼らの想いが私の体内に循環されていったのだ。


 今思えば『三国志』と書かれた本の扉は、千八百年の時空を超える扉だったのかもしれない。


 


 

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