歩いてるうちに気付かせて

同じ笑い方

 真っ暗な空なのに、見上げても星1つ見えない。地元にいた頃は、頼んでもいないのに満点の星空を毎日拝めていたのに。都会は明るいけど明るくない。このところ色々慌ただしくて、空を見上げる余裕さえなかった。


 体は疲れているのに、家に帰りたくない。帰ったらきっと、普段通り風呂に入り、軽くパンでも食べて、明日には何事もなかったように出社するだろう。そんなのは嫌だった。私にだって泣きたいときはある。でも、あの子のように、わざとらしく泣きはらした赤い目で職場に来るなんてことは絶対にしたくない。私にはもう、若さを武器に好きな人を奪い返すこともできないし。


 うまく考えがまとまらないうちに家の前を通り過ぎ、良く行く近所のコンビニの明かりが見えても足は止まらなかった。3月の夜。凍えるほど寒いわけでもなく、春を感じるほど暖かくもない。もういいや。ちょっと散歩してから帰ろう。


 5年も住んでいる割によく知らない住宅街のコンクリートの道に、自分の履いているパンプスが立てる音だけが虚しく響いている。こんなに響くなら、もっと高い消音のやつでも買えば良かった。まあ、後悔してももう遅い。今朝おろした2,000円そこそこのこの靴は、たぶん長持ちしてしまう。貧乏性で地味な私にお似合いの、真っ黒なパンプス。身の回りをブランドで固めているあの子は、こんな安っぽい靴なんて一生履かないだろう。


 あ~~全く嫌になる。失恋したのに、頭に浮かぶのは好きだったあの人じゃなくて、にっくき恋敵のあの子のことばかり。明るい茶髪をゆるく巻いたセミロングの髪に、27にもなって恥ずかしげもなくでっかいリボンのついたブラウスを着てくるあの子。笑ってりゃ済むと思っていつも私に仕事押し付けて、自分は人の男横取りして。あの人もあの人で、なんであの子の本性に気が付かないのだろう。


 ミスしたって許される新入社員の時期はとっくに過ぎているのに、今日も信じられない凡ミスの嵐。嫌悪感しかないうるうるした瞳で見つめられたって、知らない。自分のミスは自分でカバーしなさい、な~んてきっぱり言えたら私は今この時間にこんなところを歩いていない。結局被害を被るのはいつも、入社したのが2年早いだけの私だ。


 はあ……あの人が課長じゃなかったらなあ……。いや、課長だったからかっこよく見えたのかも。それはある。しかし、いくら年下の今カノがかわいいからって、一方的に別れ話を持ち出して捨てた元カノに、そいつのミス押し付けるか!?私も年下の彼女だったんですけど!?うわ、思い出したらムカついてきた。さっきのコンビニに戻ってロング缶買ってこようかな。


 思い切り踵を鳴らして振り返ると、すぐ左に小さな公園があった。ああ、あるよねこういう、住宅街の中にある小さい公園。さっきは地面を見て歩いていたせいで気付かなかったのだろうか。ここでビール飲むのもいいな。


 闇に浮かぶ白いパンダの遊具を見ていたら段々目が慣れてきて、公園の中にあるものがぼんやりと暗く浮かび上がる。ブランコと……四角い……なんだろ、ランドセル……?そんなわけないか。でも……。


 怖い、という感情は不思議となく、今はそこになにがあるのか気になる気持ちのほうが大きかった。なるべく音をたてないように踵からゆっくり地面を踏みしめながら、公園の入り口に近づく。狭い入り口にある、錆びて塗料のとれた黄色いホチキスの芯みたいな柵の前まで来た時、入り口のすぐ横に屈む黒いランドセルはこちらを振り返った。


「男の子……?」


 やはりそれはランドセルで間違いなかった。体の半分以上ある黒いランドセルを背中に背負った、紺のセーターの少年がこちらを見上げている。ランドセルについている名札に、「男子6番」と書いてあるのが薄っすら見えてわかったが、女の子のようにかわいい顔をした、表情のない男の子だった。着ている服のせいでほとんどが闇に同化しているが、やけに茶色がかった丸い目がこちらをきょとんと見つめている。


 ……え、今深夜1時過ぎだよね?なんでこんな時間に……まさか虐待?とコートの中のスマホに手を伸ばすと、少年は膝に手をついて立ち上がった。


「虐待でも家出でもないから通報しないで」


「あ、そうなの……」


「ていうか、普通幽霊だと思わない?」


 幽霊、と言われて、その可能性もあったことを思い出した。そういえばそうか。ランドセルを認識した時は少なからずそう思っていたはずなのに、どうしてだか、目の前の少年にはどこか安心感がある。怖い、という気はしなかった。腰をかがめてじっと顔を見ていたら、少年は黄色いホチキスをひらりと飛び越えて通りへ出た。


「お姉さん、ちょっと歩こうよ」


「え……」


「大丈夫。家の人は寝てるし、僕ももう帰るから」


 ね、と差し出された小さな手を、恐る恐る掴むと、少年は私の手を強く握って歩き出した。これ、私が通報されない?別の恐怖に苛まれ始めた私にかまわず、少年はぐんぐん前に進んでいく。


「ねえ、少年は……」


「みなとね」


「え?」


「僕の名前。みなとって呼んで」


 小学生とは思えない速さで歩き続け、公園も見えなくなった頃、みなとくんとやらは、こちらを振り返らずに名乗った。みなと、どこかで聞いた気がする名前だな……。


「みなとくんは、あそこで何してたの?」


「お姉さんを待ってた」


「えっ」


「って言うとちょっと怖くない?」


 ちょっとというかかなり怖い。この子とは初対面だし。何も言えずにいると、みなとくんはこちらを振り返って笑った。この子笑うんだ、とは思ったが、それは小学生らしいいたずらっ子の笑顔、というよりは、大人の男がするいたずらな笑み、という妖しげな表情で、蛍光灯の明かりに照らされたそれに別の意味でどきりとしてしまった。いやいや失恋ほやほやだとはいえ初対面の小学生は犯罪だから!


 みなとくんは、そのまま歩くペースを落として私の横に並ぶ。なんだか親子みたいだな、と腰の位置にある顔を見つめると、やはり初対面とは思えず、暗闇の中目を細めてみる。しかし、ちょうど蛍光灯が途切れたところに入ってしまいよく見えない。


「お姉さん、疲れてるね」


 くま、とみなとくんが自分の目の下を人差し指でなぞる。確かに、最近はあまり眠れていないかもしれない。


「まあ……大人には色々あんのよ」


「失恋?不倫バレ?計算ミス?後輩のミス被り?取引先への伝達忘れ?」


「……3つは合ってるけど」


「じゃあ失恋と後輩のミス被りと取引先への伝達忘れだ」


 合ってる。合ってるけど、なんでこの子がそんなことを知っているのだ。小学校で習うのか?取引先への伝達忘れありませんか~テストに出ますよ~って?そんなアホな。


「顔に書いてあるよ。40そこそこのおっさん課長に捨てられたんでしょ」


「ねえ、君何者?小学生探偵?」


「かもね」


 もしかしたら私は疲れて夢を見ているのかもしれない。そうじゃなければ、こんな状況おかしい。今さっき偶然出会った小学生探偵に課長に捨てられたことも、後輩のミスを被って自分もミスを併発したことも見抜かれるなんて。うん。そうだ。これはたぶん夢。目が覚めれば、いつも通り部屋のベッドでぐーすか寝てるんだ。よし。夢なら、小学生にこのモヤモヤをぶちまけたってかまわないはず。


「じゃあ探偵君、うちの課長のことどう思う?」


「若い女の尻追っかけてる顔だけの無能」


「うわすごいキレ味」


 やっぱり。これは夢だ。初対面の小学生がうちの課長のことを知っているのはさすがにおかしい。無能、は言いすぎだけど。なんだか面白くなってきた。もしかして、他のことも知っているのだろうか。


「じゃあ総務の小早川こばやかわさんは?」


「自分がかわいいと勘違いしてぶりっ子してる痛いビッチ」


「ビッチなんてどこで学んだの」


「え~と、動画サイト?」


「そんなかわいい声で言ってもさすがに無理あるよ」


 小さい体でズバズバものを言う子だ。まるで大人みたい。みなとくんは、ふふん、と片方の口角を上げて笑った。なんだか、あいつに似ている気がする。同じ総務の、生意気なあいつ。


 私を先輩とも思わない慇懃無礼な態度、高そうなスーツ、変な趣味のネクタイ。いつもかけてるメガネ、この前、お互い残業でたまたま残ってたから一緒にラーメン行った時、曇って真っ白になってたな。思い出したら、つい笑ってしまった。


「失恋、忘れられた?」


 みなとくんが握っていた手を放す。急に放された手は、夢の割には温かくて、まだ小さい手の感触も残っている。その感触を忘れたくなくて、右手でそっと大事に包んだまま、みなとくんに向き直る。


「なんか、私あんまり課長の事好きじゃなかったのかも。捨てられたのに、思い出すのクソ女と生意気な後輩のことだけだもん」


「そっか」


 みなとくんが微笑む後ろには、いつの間にこんなところまで戻ってきたのか、気付けば私の住むマンションがあった。エントランスの明かりを背負ったみなとくんが眩しくて目を細めると、小さな手がひらひらと夜を舞う。数10分の出来事なのに、なんだかすごく寂しくて、絞り出すように「ありがとう」と口に出す。また、みなとくんの口角が少し上がった気がした。


「またね。お姉さん」


 ふわっと宙に浮いたような感覚がして、みなとくんは目の前から消えていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌朝、気付いたらスーツのままベッドに転がっていた私は、狭い部屋を駆け回りシャワー、化粧、戸締りを速攻で終え、駅まで猛ダッシュして出社。なんとか午前の業務を終え、昼休みにたどり着いた。


 なんだか慌ただしすぎて、課長のこともあの子のこともそんなに気にならなかったな。昨日遅くまで頑張ったおかげで、ミスも今日まで引きずらなくて済んだし。なんだか、忙しくて考えが至らない、というよりは、もうどうでもよくなったな、という感じ。たぶん今課長とあの子がキスしてるのを間近で見ても、はいはいお幸せに、くらいにしか思わない。


 自分でもこんなに早く立ち直れるとは思わなかった。まあ、しばらくは仕事頑張って、次の休みにでも温泉に……。


「それ、うまそうっすね」


 スマホの検索画面に、おんせ、まで入力したところで、左手に持っていたハムチーズサンドが宙に浮く。まだ1口もかじっていないそれの行方を追うと、真後ろに、青いシャツを着た、ねずみがチーズに追い回される変な柄のネクタイの男が立っていた。必死の抵抗虚しく、駅前のお高いパン屋で買ったハムチーズサンドは、無情にもその男の口の中へ消えていく。


「あんた私を餓死させる気なの?」


「だいじょぶっす、コンビニで買った鮭むすびあげるんで」


「値段が全然釣り合ってない!」


 はい、とテーブルに鮭むすびが置かれ、おまけです、と小さなチョコが転がってきた。……これはもう訴えたら勝てる。先輩のサンドイッチ強奪容疑とかいう世界一アホな理由で訴えてやる。立ち去ろうとする容疑者の腕を掴み、座ったまま思い切り睨んだ。


神田かんだ、覚悟しなさい!あんたね……」


「みなとくん、って呼んでくれないんですか」


「……はあ?」


 神田は、掴まれた腕と反対の腕でテーブルに手をつくと、ずいっとこちらへ顔を近づけてきた。今この休憩室には私と神田以外いないとはいえ、突然の出来事に驚き固まっていると、メガネの奥の目がきれいに細められた。あれ、この笑顔って……昨日の夜……。


「俺、フルネーム神田南斗かんだみなとって言うんです」


「なにを……」


「思ったより元気そうで良かった。お姉さん」


 神田は私の手をするりと抜けると、ひらひら、と骨ばった大きな手を振って休憩室を出て行った。その光景は、昨日の夜にマンションの眩しい光の中で見たそれとよく似ていて、目が離せない。呆然と生意気な背中を見送った後、昨日の夜、どきりとしたあの少年の笑顔を思い出した。


 昨日の夜起こったことは、夢じゃなかったのか……。少年の手の感触、温かさ、コンクリートを歩くパンプスの音、不思議なあの時間を思い出す。夢じゃないとしたら、あの少年は……。そこまで考えて、数分前に目の前で微笑んでいた神田の顔が頭に蘇る。どうにもまだ混乱しているみたいだ。鼓動が早くて胸が痛い。


 失恋ほやほやのはずの、このなんとも言えない気持ちが向いているのは、小学生なのか、生意気な後輩なのか、それともそのどちらもなのか。その答えは、今日の仕事のあと、いつものラーメン屋でゆっくり聞くことにしようと思う。

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歩いてるうちに気付かせて @kura_18

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