番犬と氷の女(KAC20234)
ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中
深夜の散歩で起きた出来事
とあるベンチャー企業に入社して、三年。十人いた同期は、半数まで減った。女で残っているのは、春香だけだ。後は全員、先に辞めた。
「春香もさ、逃げられなくなる前に逃げた方がいいよ。住む所ないならさ、俺の部屋に来たらいいし」
とは、昨日まで同僚だった同期の加藤の言葉だ。今日は彼の送別会の日だったのだ。
「はあ……辞める気ないから大丈夫。お気遣いありがと」
表情筋があまり活発に動かない為、「氷の女」と呼ばれる春香にしてはなかなかちゃんとした笑顔を返す。
二次会に行こうよと誘われたのを断り、「じゃ、元気でね」ひとりで先に店を出る。この塩対応も二つ名の原因のひとつなのだが、本人は気付いてはいなかった。
そもそも休みである土曜日に送別会を開く意味も分からなかったし、辞める気がないのにやたらと退職を勧めてくる意味も分からなかった。日頃からやたらと社内メールを模した個人メールも多かったし、最後まで訳の分からない男だった、と春香は独りごちる。
尚、好かれていたとかいう認識は、春香にはない。相手に興味がないからだろう。
今の会社は、時間は拘束されるが仕事自体は楽しくて好きだ。だから今のところ辞める気は全くなかった。
唯一残念なところといえば、趣味の継続が難しいということか。
春香の趣味は、早朝にのんびりと散歩をすることだ。それが今の会社に入社してから早朝に起きられなくなり、叶わなくなった。
ならば、と代わりに深夜に散歩を始めたら、同じ社宅に住む別の同期、
自分も散歩が好きだからとか言う割りには落ち着きがなくいつもキョロキョロしているし、話しかけても「ひゃあっ」とかビビられるので、やりにくくて仕方がない。そもそも日頃から、会話が続かない。自分にもその原因があることに、春香は思い至っていない。
そんなビビりの怜介は、背が高くてがっしりとした筋肉質な体型である。顔も一見爽やかスポーツマンなのに、ノミの心臓の持ち主というちぐはぐさは、一部で人気を博していた。大体は、年上のお姉様に。
春香は散歩の際、護身用にスタンガンと防犯ブザーは持ち歩いている。だが「男の腕力を舐めちゃ駄目だよ!」と泣きそうな顔で言われて、「ついて来ないで」と言えなくなってしまった。犬みたいでほだされたともいう。氷の女でも、犬は可愛いのだ。
そんな怜介は、今日は早々に加藤に無理やり飲まされ、テーブルに突っ伏して寝ていた。酒が弱いのに、「これでお別れかもしれないのにお前は冷たい」と加藤に迫られてしまっていたのだ。押しに弱いところも、犬っぽい。
周りの同期は、加藤の王様気質で逆らうとすぐに切れる部分にうんざりしていたから、止めなかった。これでこいつと縁が切れると、誰しもが思っていたんじゃないかと春香は思う。
加藤はツーブロックの笑顔が人懐こいイケメンだ。愛想がよく、上からの受けはすこぶるいい。営業の成績もよかったから可愛がられていたけど、もっと給料がいい会社にスカウトされたからと辞めていくことになった。
切れたりする裏の顔は、一部の人間しか知らない。同期は、その顔を知っている数少ない仲間だった。
だから今日は皆、加藤を褒めて煽てる最後の日だと頑張ってヨイショしたのだ。
飲んでいた駅と社宅がある駅は、ひと駅の距離だ。外国人が多く眠る有名な墓地の横を通ることになるが、幽霊を見かけたとか聞いても、相手が外国人だからかあまり怖くはない。どちらかと言うと、老婆とか落ち武者の幽霊の方が怖かった。
だから、散歩がてら歩いて帰ることにしたのだ。
――怜介、大丈夫かな。
ふと、置いてきてしまった頼りのない護衛のことを考える。飲み会に行く前に、「僕が酔わされたら、早めに帰るんだよ。タクシー使うんだよ」と必死で言われたことを、今更ながらに思い出した。
まあ防犯グッズもあるし、と思い、ポケットを弄る。
「あ、しまった」
いつもならポケットに入れている防犯ブザーとスタンガンは、今日は怜介が一緒だからと持ってきていなかったのだ。
ふと霊園の方を見ると、格子の先に、外国風の墓標が並んでいる。思わずブルリと身体を震わせた。
そして気付く。普段全く怖くなかったのは、いつも横に大きな身体で「怖い怖い」と言っている怜介がいたからなのだと。
「……」
急に怖くなり、足を止める。スマホを取り出すと、怜介へ電話を掛けた。やっぱり一度戻って怜介と一緒に、と思ったのだ。
小さな呼び出し音が鳴り続ける。出ない。二杯目の途中でダウンしてたから、まだギリギリ起きられると思ったが、日頃の疲れが出たのかもしれない。
とりあえず戻ろう、と振り返ったその時。
「春香」
「うわっ!」
春香の真後ろに立っていたのは、ここにいる筈のない加藤だった。驚きで飛び跳ねた心臓が痛い。
「俺が家に送っていくよ」
加藤が、一歩近付いてくる。顔は笑ってるのに、目は笑っていなかった。春香が加藤を同期としても好きになれない理由のひとつが、この作った様な笑顔だった。
「え、いや、大丈夫」
「いいじゃん。送らせてよ」
加藤は春香にぴたりと肩をくっつけると、項と顎を掴みいきなり顔を近付ける。
「ちょっと!」
咄嗟に腕を間に挟むと、春香の肘が加藤の顔に当たった。途端、仮面の様な笑顔が般若みたいな顔に変わる。中国の伝統的な技とかであるような、と妙な既視感を覚えた。アレに似ている。名前は思い出せない。
「――調子に乗りやがって!」
「きゃっ!」
霊園の柵に向かって思い切り突き飛ばされた春香は、衝撃の勢いで地面に転がった。スマホは春香の手から離れ、壁にぶつかって止まる。呼び出し音は、もう聞こえていなかった。
そこに加藤が覆い被さってくる。酒臭い。
「お前さあ、この俺が散々優しくしても声かけてやっても、仕事仕事でよお!」
「仕事しに行ってるのに何言ってんの」
春香の正論に、加藤は顔を真っ赤にして怒り始めた。人間、図星を指されると怒るものらしい。
「うっせえ! 行きも帰りも佐伯と一緒で隙がねえし、夜中に散歩に出てるって聞いて見張ってりゃやっぱり佐伯と一緒だしよ!」
「……は?」
ゾッとした。見張ってた? それじゃあストーカーじゃないか。同期がストーカー。笑えない。退職してくれていてよかった。新聞に乗ったりしたら会社の損害だ。
春香には、愛社精神があった。
「あんな気弱な図体だけがでかい奴に、狙ってたお前を盗られるのがいっちばん腹立つんだよ!」
狙っていた。聞き捨てならないことを言っていたが、狙っていた相手を地面に突き飛ばして上に乗っている時点で、もう大分頭がおかしい。
加藤は、唾を撒き散らしながら怒鳴り続けた。酒に酔っているのもあるが、自分にも酔っているのかもしれない。
「あいつ、お前が犯されたって知ったらどういう顔するんだろうな。……ふふ、は、あはは!」
そして唐突に笑い出す加藤。やっぱりヤバい。
どうしていいか分からずに春香が固まっていると。
飛んでいったスマホから、割れた怒鳴り声が聞こえてきた。
『春香っ! 春香ーっ!!』
怜介の声だった。
加藤が、楽しそうな悪役の笑い声を上げる。
「わはははっ! ざまあみろ、あんなグズの癖に俺より成績いい奴がいけないんだあっ!」
こいつ、まさか怜介にプライドを刺激されてそれで自分を狙ったのか? と春香は疑問を
加藤が、狂った様に笑いながら続ける。
「聞こえてるか佐伯! てめえの大好きな春香ちゃんを、俺が今から奪ってやる! はは、わはははっ!」
最低だな、こいつ。春香は心の中で毒づいた。うちの犬をいじめる奴は、悪い奴。春香は加藤を敵認定した。
「てめえの部下になんかなってやるもんか! ばーかばーか!」
加藤の罵倒が、段々ガキっぽくなってくる。なるほど、怜介が昇進するかもなんて言ってたけどそれも原因か、と春香は納得した。春香を狙っていたのは、好きだからではない。道理でそんな感情を一切感じなかった筈だ。
『加藤、お前は許さないぞ!』
スマホから、聞いたことがないくらい怒っている怜介の声が聞こえてくる。お前がこれのそもそもの原因だと、あとで説教してやろう。きっとしょんぼりとするだろうから、それを慰めるのも醍醐味のひとつだ。
「ざんね~ん! 今から俺がいただきまーす!」
『てめえ! 絶対許さねえ!』
怜介にしては乱暴な口調は、普段のぬぼっとした雰囲気からは想像出来ないものだった。やる時はやる男らしい。説教して慰めた後は、褒めてあげよう。まあ、何事もなく終わればだが。
「お前は愛しの春香ちゃんのよがる声でも聞いてな!」
『ふざけんなー!!』
あれ。今の声、二箇所から聞こえたような、と春香が思った直後。
目が血走っている加藤が、春香の膝を掴んで足を開いた。
そして、春香の上から横に吹っ飛んで消えた。
「ぐえっ!」という声と同時に、激しくどこかにぶつかる音が遅れて聞こえてくる。その後静かになったので、多分気絶したんだろう。
よくやった。褒めてつかわそう、と春香は頷いた。
ハアッ、ハアッ、という荒い息遣いが、上から降ってくる。
「は、春香……っ」
「怜介」
春香がゆっくりと肘を立てて起き上がると、大きな身体が春香の横にどすんとしゃがみ込んだ。
「は、は、春香あ~っ!」
なんと、怜介が号泣している。顔が真っ赤なので、酔っ払って潰れているところに電話で起こされ全力疾走したので、更に酔いが回っているのかもしれない。そして、言った。
「……怖かったよおおーっ!」
お前がそれを言うなと思った春香だったが、まあ酔っ払いなのにここまで走ってきてくれた上に助けてくれたことは心から感謝している。なので春香は膝立ちすると、ぺたりと座り込んで泣きまくる怜介の頭を胸に抱き、「よしよし」と撫でた。
なんで襲われた方が慰めているのかは分からないが、これが春香と怜介の関係なんだろう、と小さく微笑む。今の笑顔が自然な笑顔であることに、春香は気付いていない。
日頃、この笑顔は怜介だけ見放題な状態になっていることも。
すると、怜介がうわんうわん泣きながら叫んだ。
「春香! 好きなんだ! 他の奴のものになっちゃ嫌だあ!」
「うん、それは分かったけど、これの原因あんただからね?」
「分かったってどういう意味だよー!」
「うんうん、とりあえずアイツを警察に付き出そうね、その後に話しようね?」
「うわーん! 春香ーっ!」
春香は怜介の頭を撫で撫でしながら、しがみついて離れない怜介のポケットからスマホを拝借すると、冷静に110番に電話を掛けたのだった。
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