思い出の空

ちえ。

第1話

「久しぶりじゃん」



 むしゃくしゃとした気分で何をするにも落ち着かず、頭を冷やすために出かけた夜の散歩。まだ風が冷たい深夜の公園は、おぼろげな街灯が出入口とトイレ脇のベンチをぽつぽつと照らすだけで、多くない遊具は影絵のようだった。

 ときどき吹き抜ける強い風が、塀の周囲に生えている木々の葉を揺らして、ざあっと肌寒さを感じさせる音を立てている。ベンチの裏で、アオキが一拍おいてから一緒にコソコソと葉擦れを鳴らす。だが、それ以外にはほとんど音がない。


 俺が住んでいる団地からは少し離れた、過疎化が進み周囲に民家が少なくなった地区。俺が昔通っていた古い小学校の近くにある公園だ。

 コンビニさえももう少し団地に近い大通り側にある。出歩く人は少なくて、街灯の明かりだけがこの世を照らす全てにすら見えた。


 そんなひなびた公園のベンチに座っていた俺に、不意に頭上から降ってきた声はいたく懐かしいものだった。


「どうした?俺のこと忘れちゃったか?大河たいが


「覚えてる、に、決まってるだろ?なんでアキがこんなところにいるんだよ!」


 ふわふわとした顔で笑ったアキは、最後に会った時の面影を残したままだった。



 あれは、小学校の高学年の頃だ。

 小さな頃からずっと仲が良くて、一番の親友の、幼馴染だったアキ。

 そんなアキがいなくなることなんて考えた事がなかった俺は、くだらないことで奴と大喧嘩した。それから四年ほど経ってしまった今になっては、その発端が何だったのかわからないくらい、本当に些細ささいなことから始まった喧嘩だった。


 そして、謝る機会を得ないまま、アキはこの町からいなくなった。

 突然聞かされた知らせは、俺の胸に罰のように突き刺さった。あれだけ仲の良かった親友を、くだらない喧嘩で一生なくしてしまった。そんな後悔を胸に抱えて生きていた。

 だが、日々過ぎ去っていく時間の中で、そんな後悔もすっかりと色褪せていた事実に俺は今気づいた。アキの顔を見るまでは、あの時の事を忘れ去り、思い出しもしなかったのだから。



 アキに謝りたい。

 だけど、喧嘩別れしてずいぶんと時間の経ってしまった相手へ、どう接していいのかわからない。

 ぐるぐると、様々な感情が胸の中を巡った。

 寂しかったこと。悲しかったこと。悔しかったこと。諦められなかったこと。悪かったと思ってること。それなのに、謝ることもできずに苦しかったこと。

 その想いは熱く熱く胸を震わせて、言葉なくじんわりと涙が浮かんだ。


「お前に、ひどい事言って、いじけて、ひどい態度で。でも、お前はいなくなって」


 涙をこぼさないように、言葉にならない感情を吐き出した。何も言えないままであることだけは、耐えられなかった。


 アキは懐かしそうに目を細めて、柔らかく微笑んだ。いつも柔和でおとなしく、でも芯が通った性格のアキは、思えばいつも笑っていた。


「そうだなあ。じゃ、アイスおごってよ。高いやつ。それでチャラにしよう」


「おい、こんな寒いのに?」


「いいじゃん、冬場のアイスも美味しいよ?」


 アキは俺の手を引っ張ると、ベンチから立たせて大通りの方に向かった。少し歩いた場所にあるコンビニへと久々に並んで向かう。

 なんだか不思議な感じがした。時を経て、また並んで歩くことができるなんて。それが嬉しくて仕方ないなんて。



「大河が俺の好きそうなやつ買ってきて、俺はここで待ってるから。値段見たら申し訳なくなって、美味しく食べられないかもしれないし。

 あ、でも俺はちゃんと安いアイスじゃないかチェックはします」


 人通りが多くない場所だから、深夜のコンビニは閑散としていて他の客の姿はなかった。それでもひときわ光る看板の元で、アキはそう言って俺を待っている。

 俺はアキが喜ぶアイスを探そうと真剣だった。だけど、早く戻らなければ、アイスよりも早くアキが融けるように消えてしまうかもしれない、なんて焦りも抱いていた。

 結局は昔アキが好きだったソフトクリームと、良い値段の苺味カップ入りアイスを買った。どちらかはきっと気に入るだろうし、昔みたいに半分ずつ交換、と言い出すかもしれない。そう思うと、少しだけあの頃のわくわくした気持ちを思い出した。



「おー、ありがと。それじゃ、公園にもどるかー」


 差し出したコンビニの袋をのぞき込み、アキは嬉しそうに笑った。それから、また俺の手を引いて深夜の公園へと折り返した。


「わざわざ公園に戻る?ちょっと遠いけど」


「いいだろ?久しぶりなんだから、一緒にアイス食べてくれてもさー。大河のアイスも食べたいよ?」


「それが本音か」


「二種類食べたら二度お得!」


「だったら両方食べてもいいよ」


「一緒に食べるからいいんだろー」


 他愛もなく言葉を交わす。そうだ、俺はアキと過ごすこんな時間が好きだった。なのに、俺の半歩先を歩くアキは、どこか不安そうに俺の手をぎゅっと握った。



 その時、対面から大通りをフラフラとした光が駆け抜けた。

 俺は嫌な予感がして、アキの手を握りしめて引っ張った。

 いつも車通りの少ない深夜の住宅街でめずらしく通りすがった乗用車は、明らかに走行がおかしくふらついていた。

 気が付けば俺はぎゅっとアキを引き寄せて、妙にドキドキと不安に曇った自分の心音を肌で感じながら息を詰めていた。


「あっぶね、何あれ」


 冷や汗がじっとりと厚手の上着の中で肌を湿らせた。ようやく吐き出せた息は震えていて、声までもが無様なほど揺らいだ言葉を連ねていた。

 バクバクと鳴る鼓動は、まるで全力疾走した後であるかのようだ。


「大河……」


 アキは、そんな俺をじっと見上げていた。

 大きく黒い瞳が、うっすらと濡れてきらめいたように見えたのは、見違いだろうか。


「早く、アイス食べよう」


 ぴょこんと跳ねるように公園へ向き直ったアキは、俺の気なんて知る余地もないように、上機嫌に足を進めた。



「それでさ、なんで夜中にこんな所にいたんだ?」


 さっきまで影絵だったブランコは、近づくときちんと形を持っていた。

 競い合ってこいでいた幼い頃に比べて、ずいぶんと古く小さく感じるが、大人に近いくらいの背丈になっても案外普通に座れるものなのだな、と思った。

 おとなしくブランコに腰かけてソフトクリームを頬張るアキが、何の気もないように聞いてくる。そこで、初めて俺はむしゃくしゃして家を出てきたことを思い出した。


「あー、なんか、うまくいかねーなって。高校、内定確実って言われてた推薦入試で落ちてさ、だいぶランクを下げられた第四志望を受験して。今まで頑張ってきたこととか、全部無駄だった気がして。周囲の奴らの吉報までねたましくて。何も楽しくないし、イライラするし、誰かが悪い訳じゃないのに、そんな心が狭い俺がどうしようもなくって」


 口に出せば、本当に単純なことだった。

 ただ、自分がみじめで、殻にとじこもって、八つ当たりをしてしまうことが情けなかった。そんな自分が嫌だっただけだ。

 それは、アキに覚えていた感情に似ている。だけど思い返せば、アキへの後悔に比べてもっと些細なことでしかなくて。いつの間にか温かなアキの前で、寒空のアイスが融け始める前にとうに霧散していた。


「そっかぁ。大河もたいへんだったんだねー。でも、それだけ頑張ってきたってことじゃん、悔しいの」


 アキの手の中で融けたソフトクリームの雫が、ぽたりと地面に影を落とした。

 ぽたり。ぽたり。

 後悔が全部融けるには、まだ足りない。


「ああ、でも本当に些細なことだったんだ。些細なことで取り返しがつかなくなるって、知ってたのにさ。俺はお前に謝りたかったんだ。ずっと、ずっと」


 ぽたり。ぽたり。

 俺の持つカップの縁をかすって、負けじと涙が暗い地面に影を落としてゆく。

 アキは笑った。暗がりの中、その表情は良く見えなかったけれど。

 きっと俺と同じような顔をしている気がした。


「お前は今、どうしてる?どこに住んでんの?」


 尋ねてはならない。そう思っているのに、どうしても口から言葉がこぼれた。

 アキはブランコから立ち上がって、空を見上げた。

 それから、ずいぶんと大きい、鈍く光った月を背に振り返って俺を見た。


「あそこ、かなぁ」


 真っ暗な闇の中に、温かい月の光。

 あの頃と同じはずの空の下で、アキは変わらない笑みを浮かべた。


「次に会う時は、もっといっぱい楽しい話を聞かせてくれよ?楽しみにしてる。ずっとずっと待ってるから」


 くしゃり、とアキの笑顔が歪んだ。ざぁ、と響いた葉擦れの音の中で、大河、と言葉にならない声が俺を呼んだ。


 そう、終わりはとうに始まって、とうに過ぎ去っていたのだ。俺は、それを知っていたはずなのに。


「大河は、謝ってくれたよ?覚えてないの?」


 ああ、思い出したくなんてなかった。

 病院のベッドの上で横たわる、顔色が失せたアキを。ほんの少しでも命を繋ぎ止めるために働くたくさんのチューブと、その瞬間を厳かに見守っているような機械の音を。

 だけどアキは、最期にうっすらと目を開いて、俺の名を口の中で呼んだ。眠る姿は、事故でずたずたになったのだなんて信じられないような、穏やかな笑顔だった。


 なんで、あんなくだらないことで喧嘩なんてしたんだろう。

 謝ることもできずに、俺は永遠にアキを失ってしまった。

 そんな自分がどうしようもなかった。もう後悔なんてしたくなかった。

 だけどまた、繰り返している。


「大河は謝ってくれたし、俺は喧嘩なんてしてたつもりもない。意地を張ったのは俺だって一緒だったし、謝りたかったのも一緒。

 大河はなにも悪くない。俺はずっと大河の友達だし、お前を応援したいし、できるなら救いたい。

 だから、お前は後悔なんかせずに生きて行けばいいんだ」


 俺は、アキの穏やかな笑顔があの頃と何も変わっていない事に気が付いた。そう、このどこか現実感のない再会に覚えていた違和感の一つは、きっとそれだった。

 アキはあの頃と同じ幼い姿をしていた。並んでいたはずの身長はずいぶんと差がついて、歩幅も手を掴む力だって、子どものように感じたんだ。

 見ないフリをしていたって感じずにいられないほど、時が経っていた。


「魔法なんて使えないから」


 アキがぼんやりとした月明かりの下で笑った。


「大河が俺の事、覚えてくれていてよかった」


 それは、悪戯を成功させた子どものような、満面の笑みだった。おとなしく穏やかだったアキが、時々俺の前で見せた悪友の笑み。

 そんな残像を俺の目に焼き付けて、アキはいなくなった。

 いつの間にかソフトクリームは全部融けて地面に染みを作り、俺の手のカップに半分残っていたはずの苺アイスはなくなっていた。

 まるで、最初から俺の他には誰もいなかったかのように。

 俺の記憶にだけ新しい思い出を残して。



 夢を見ているように、暗い道を歩いた。

 さっきまでアキと歩いていた大通りを経て、コンビニの明かりを眺め、それから家への道を進む。

 この夜が終わらなければいいと思う反面、この夜を終えなければならない。

 アキに楽しい報告をするためには、ただ進むのしかないのだから。


 団地が近づいてきたところで、やけに慌ただし雑音に気がついた。

 いつもは暗い路地なのに、今日はやけに眩しくて、白に交じって赤いランプがちらついていた。明らかな事件の予感を感じられるほどに。


 何事かと驚いて、少ないながらも人のたかるその場所を確認し、俺は、アキが残した言葉の意味を理解した。

 慌ただしく人が行きかう向こうで。俺とアキの横を通って行った乗用車が、団地の入り口近くの壁に激突し大破している。一帯には何か所も壁や電柱がへこんだ跡が残っていて、きっと運悪くこの時にこの場所に居合わせていたのならば、巻き込まれることは免れなかっただろう。


 アキと再会して、一緒にアイスを食べていなければ。

 俺はその頃、家路についていたのかもしれない。

 いや、……きっとそうだったのだ。


「魔法じゃねぇか」


 俺は、震える声で笑った。


 応援したい。救いたい。アキが言った台詞、そのままだ。

 だから、返せるものもきっと、そのままのものだけなのだろう。

 アキが楽しみにしていると言ったように、たくさんの楽しい話を、できるだけ多くの土産話を。あいつが笑っていられるような話を。

 後悔せずに胸を張り、生き続けてかき集めるんだ。いつかまたアキに会う日までに。

 うまくいかなくても。自分が嫌になっても。どこかでアキは見ていて、きっと俺を応援してくれているのだから。


 あの頃から続く空は、今もまだ俺と行く先を見守っている。

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