双曲線軌道の散歩道

凍龍(とうりゅう)

深夜の桜並木にて

「こうして二人でこの道を歩くのも久しぶりだよね」


 悠里ユーリが感慨深そうに言った。


「そうだな。高校の卒業式以来だから、もう七年になるのか」


 高校の同窓会を終えた後、ぼくらはほろ酔い機嫌でかつての通学路をのんびりと歩いていた。家路につくには少し遠回りだけど、三月の風は暖かく、酔い醒ましを兼ねた深夜の散歩にはぴったりだった。

 頭の真上にはこうこうと満月が輝き、満開の桜並木を明るく照らし出している。

 そろそろ散り始めたピンク色の花びらがはらりと彼女の髪に舞い降り、僕はつまみ上げた花びらを手のひらにのせてフッと闇に飛ばす。


「ねえ、覚えてる? あの日、君がここで月を見上げながら宣言したこと」

「……ああ、うん」


 ぼくはあの頃の自分の無謀さと無知さを思い出し、顔を赤くしながら頷いた。

 高校を卒業後、ぼくは故郷を離れ、国を離れ、公用語えいごもろくにしゃべれないまま月の土を踏んだ。一年間を環境順応と語学に費やし、宇宙機の設計者をめざして当時世界でただ一つの六年制専科学校に入学したのがその翌年のこと。


「でも、あれ以来、戻って来たのはたったの二回だけ……」


 悠里は少し不満そうに頬をふくらませる。


「ごめん。なかなか余裕がなくって」


 日本でも、北海道の日高に宇宙港が開設され、宇宙往還機シャトルの便数はずいぶん増えた。おかげで年々搭乗料金が下がってはいるものの、それでもなおバイト代の一年分に近い大金を投じてひんぱんに地球に戻るだけの経済力はぼくになかった。

 ただ、インターネットはすでに月軌道にまで広がっており、ネット経由でのチャットは(厳しいパケット制限はあるものの)不可能ではなかった。

 ぼくらは毎晩のようにメッセージをやりとりし、互いの近況を伝え合った。

 数ヶ月に一度、音声パケットの割り当てがあった時には、通信容量ぎりぎりまでたわいのないおしゃべりもした。

 多分、ごくありふれた遠距離恋愛だったと思う。


「でも、凄いじゃない。君はあの時の夢をちゃんとかなえたんだよ」

「悠里が応援してくれたおかげだよ。それに、やっと入り口にたどり着いたばかりって感じだし、まだまだこれからだよ」


 悠里の大げさな褒め言葉にぼくは苦笑いしながら頭をかく。

 大戦の傷が癒え、世界的にスペースコロニーの建築ラッシュが始まりつつあった。先進各国は先を争うようにコロニーの建造計画を発表し、日本もようやく昨年〝サンライズ〟と名付けられたコロニーの建設計画を正式に発表した。


「これから忙しくなるね。お仕事はもう決まったんでしょ? いつこっちに戻って来れるの?」

「……あ、うん」


 ぼくはつばを飲み込んで小さく咳払いする。


「実は、NaRDO宇宙資源開発機構の月面エンジニアリングオフィスに所属して、貨物用宇宙機の設計をやることになっているんだ」

「え?」


 その瞬間、悠里は不意に立ち止まった。そんな彼女の髪をなぶるように、桜色の風が吹き抜ける。


「……じゃあ、これからも月に住む、の? ずっと?」

「うん」

「……そう、なんだ」


 悠里は顔を伏せ、何かを自分に言い聞かせるように何度も小さく頷く。

 一方僕は彼女の正面に回り込み、汗ばむ手で、ポケットの中の小箱を握りしめるように確かめた。

 さあ、ここからが正念場だ。思わずごくりとつばを飲む。


「ここから見上げる月は本当にきれいだよね」


 プロポーズの言葉としてはちょっと遠回しすぎだろうか?

 やはり、月はこうして遠くから眺めたときが一番美しいと思う。荒涼とした月面に暮らし、ぼくはこうして地球から見上げる月の静謐なイメージとのギャップを身にしみて感じていた。


「でも、そろそろ悠里も実際に月面に立って……ん?」


 だが、悠里はいつまでたっても顔を上げようとはしなかった。

 唇を一文字に引き結んだまま、無言でほろほろと涙をこぼす。頬を伝う涙の粒に月光が反射し、真珠のようにキラキラと輝いた。


「悠里?」


 湧き上がる不安を押し殺し、ぼくは彼女の名前を呼んだ。


「ごめんなさい」

「え!?」

「私、宇宙線不耐症なんだ。生まれつき放射線への抵抗力がほとんどないの」

「え……」


 ぼくは絶句した。目の前が真っ暗になった。

 宇宙空間にはおびただしい量の宇宙放射線が飛び交っている。太陽や木星から飛来する荷電微粒子の群れ、超新星爆発を起こした星々から何億年もかけてはるばる飛来する原子核のかけら。

 地上にいる限り、これらがぼくらの身体に深刻な影響を受けることはまずない。大気のバリアがある上、強力な地球の磁場が飛んでくる宇宙線を捕らえ、地上に届く前に極地の空でオーロラの焚き付けにしてしまうからだ。

 だが、軌道上に地球磁場の加護はない。


「ちょっと日焼けしただけで、肌が真っ赤にただれちゃう人とかいるでしょ。それとおんなじ。生まれつき放射線への耐性がほとんどない体質の人がいるんだって。日焼け程度なら表面だけの反応だけど、宇宙線は身体を貫いていくから……」


 もちろん、そんなことはぼくだって学んでいた。

 宇宙線の攻撃をうまく修復することができす、傷ついた細胞は容易にガン化する。結果、体内に複数のガンが同時多発的に発生し、最後には命を奪う、と。

 本人がどれだけ望んでも、遺伝子に刻まれた体質を変えることはできない。


「……いつから」

「君が月に行ってすぐに調べた。私だって、君と一緒に宇宙で働きたいと思ったから。でも……」

「じゃあ、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。あれだけ何でも言い合えたのに——」

「そんな残酷なこと、言えるわけないでしょ!!」


 悠里は涙に濡れた瞳でキッとぼくを睨みつけた。


「ひとりぼっちで、何十万キロも離れたところで必死に頑張っている君に、そんな絶望させるようなこと、夢をあきらめさせるようなこと、言えるわけがない」


 その言葉を聞いた瞬間、ぼくの周囲から一切の音が消えた。


「私、職場の同僚にプロポーズされたの。君と違ってとても平凡で、抱いている夢もささやかで。でも、君と同じくらい優しい人」


 ぼくは必死に歯を食いしばる。

 月面での厳しい生活で、悠里とのたわいのないやりとりがぼくをどれほど勇気づけてくれたか。それは紛れもない事実だ。でも……


「もちろん断るつもりだったけど、受けようと思うの。だから……」

「そんなこと言うな! なあ悠里、ぼく、地球で別の仕事探すよ。だから——」

「ダメだよ」


 悠里はそう口走るぼくの唇ににそっと人差し指を当てた。


「君だけは、夢を諦めないで」


 そう言うと、ポケットから見覚えのある金色のボタンを取り出してぼくに差し出した。多分いつも持ち歩いていたのだろう。表面の模様は削れ、角が取れてピカピカに輝いている。


「これ、返すね。卒業式の日、君にもらった第二ボタン。私の一番大切なお守りだったんだ」

「え、そんな!」

「私、今でも君を愛してる。本当だよ。でも、もう……」


 ぼくはこらえきれずに悠里を抱きしめた。スプリングコートに包まれた柔らかな身体が一瞬こわばり、やがてゆっくりとぼくの背中に腕が回された。


「ごめんね。本当に、本当にごめんね」


 悠里は消え入りそうな声で、何度も、何度もつぶやいた。

 不意に強い風が吹き、視界を奪う桜吹雪がぼくらを包み込んだ。



 何年もかけてゆっくりと近づいたぼくらの距離は、この瞬間反転する。

 二度と戻ってこないほうき星のように、ぼくら二人は双曲線軌道を描いて遠ざかり、もう、二度と交わることはない。



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双曲線軌道の散歩道 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

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