個の消失

トム・今本

鏡は悟りのもとに非ず

 鏡を割る。一枚、また一枚と割っていく。

この鏡は怒りを込めて。この鏡は悲しみを込めて。

鏡に映る景色はまた一つ、ひとつとひび割れ消えていく。

「これも違う……これも!! これも!!」

鏡の破片が散らばって、自分を傷付けていく。

今となってはこの痛みすら心地よく感じる。両の手を血で真っ赤に染め上げながらも男は鏡を割ることをやめない。

振り上げるキョウキは手に付いた血を部屋中に飛ばし、壁も床も血で覆われてしまい元の姿など見えなくなってしまっている。

「これも!! これも!! 消えろ、消えろ、消えてしまえ!!!!」

怒りとも恨みとも判別付かない咆哮を上げながらも男はまるで手を止める様子がない。

まさに狂気ともいえる所業。なぜ、そんなことを?

例え、理由を話しても誰にも理解はされないだろう。

男が抱える狂気も孤独もすべて男を一つの個として存在させている。否、これらしかないのだ。喜びもなければ、希望もない。

あるのは果てない孤独と怒り、恨み、狂気。もはや、男に残された感情はそれしかない。長き時を経て、狂気が怒りが孤独が身を蝕み、男をこのような凶行へと走らせたのだ。もはや、理性は残されていない。

ただ、怨嗟の声を上げ続けるだけの獣がそこにいた。

それでも、ifを願わずにはいられない。

幸せを手にしていれば、良き理解者がいれば。自分はこんな結末にはならずに済んだのではないかと。願いと同時に理解もしている。

そんな願いなど虚しく叶うはずもないと。

何度目か分からない咆哮のとき、ふと鏡に目をやると鏡に映る自分が笑っている気がした。楽しく笑っていた、今の自分を嘲笑っていたのだ。

どうして!! 同じ自分なのに!! 違う、違う。こんな自分など違う。

あってはならんのだ。消えろ、消えろ、消えてしまえ!!!!

そうして、男は鏡を割り始めた。割れた鏡をさらに砕く。

もはや、手は止まらない。このまま男の命尽きるそのときまで男の手は止まることはないのだろう。


鏡は悟りのもとに非ず。迷いのもとなり。

鏡を見れば見るほど男は迷い、狂い、墜ちていく。

どこまでも。どこまでも……。

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個の消失 トム・今本 @Y_Tom

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