前を歩く女

押見五六三

全1話

皆様は男性でしょうか?

それとも女性でしょうか?

あるいは中性派でしょうか?

もしかしてロボットでしょうか?

人外の方も中には読んでおられるかも知れませんから、今から言う事が必ず当てはまるとは言い切れません。

ですがもし、あなたの容姿が人間の男性の姿をしているのなら、こんな体験を一度はしていませんか?

真夜中、自分の前を歩いていた女性が、急に走り出した事が……。



あれは自分がまだ20歳ぐらい(曖昧)の時でした。

当時、色んな事が原因で社会に馴染めなかった自分は場末のスナックで働き初めました。

そのスナックは、いつも夜中4時ぐらいまで開いており、ママとお客様の『ノリ』が営業時間を決めるような店で、朝7時までやってる時もしばしば。

男性スタッフは自分1人で、女の子は全員自分より歳上ですから色々と可愛いがって貰い、精神的にも居心地は良かったです。

その店の常連のお客様は年配者の方が多く、お金払いもよくて毎日入客が絶えなかったほどです。

そして働きだして数ヶ月した頃、ママが自分に「日曜日に営業したかったら開けて良いよ」と言って来ました。店はママが休みたいから日曜は休日だったのですが、売り上げの六割を入れてくれたら自分に任せるとの事でした。言葉にあまえ、自分は自分と年代が近い女の子達と一緒に日曜営業する事にしました。日曜営業は評判も良く、多い時は日給3万ぐらいに成る時も有ったぐらいです。

勿論、水商売ですからデメリットも多いですが、自分には貴重な日々に成りました。


あれは、そんな日曜営業のある日の出来事です。

その日は珍しくお客様が少ないので、早目に店を閉める事にしました。

通常、自分は店が終わるとママや女の子をタクシーで送るのが日課なのですが、その日一緒に働いていた女の子はアフターが有るとの事で自分は1人で帰る事にしました。

でも時間はまだ夜の1時。常に遅くまで起きている自分にとっては宵の口です。

そこで常連のお客様が経営している店がまだ開いてる事を思い出し、飲みに行く事に。

その店は一駅分ぐらい離れていましたが、タクシーを使わずに散歩がてら歩いて行く事にしました。酔い覚ましを兼ねたのです。


真夜中の場末の住宅街は、虫の鳴く声しか聞こえず、とても静まり返っていました。日曜の夜という事も有り、家の明かりはほとんど消えています。街灯は有るので真っ暗ではないですが、人や車の気配は意識しないと感じないぐらい澄んだ空間でした。

そんな夜道を少し急ぎ気味で歩いていると、前方にスーツを着た女性が歩いているのに気づきました。

自分は気に留めて無かったので、いつから前を歩いてたのか分かりません。自分の方が歩く速度が早いので、前の女性との距離はどんどん縮まって行きます。そして、気づいてから2、3分ぐらいしてからの事です。前の女性が急に小走りに成りました。

それを見た瞬間、自分は「しまった!」と思いました。

そうです。

その女性に対して恐怖感を与えてしまったと悟ったのです。

真夜中に後ろから早足で男性に近づいて来られたら、そりゃ勘違いしますよね。

どうしようか悩みましたが、自分は覚悟を決めました。

自分は曲がりなりにもプロです。

お客様を持ち上げ、女の子のモチベーションを上げるのがスナックのチーフの仕事です。

このまま何もしないという事は、女性に恐怖心を植え付けただけに成り、プロ失格です(なんでやねん)。

かと言って「違います。変質者じゃないです」と言うのは、「自惚れんな!お前みたいな女襲わないよ!」と同意語に取られ、女性の自尊心を傷付ける恐れが有ります(だから、なんでやねん)。

ではどうすれば良いか。

そう。答えは一つ。

それは、『真夜中の徒競走大会』を勝手に初める事です。このまま追いかけっこを続け、そして前の女性を追い抜いた瞬間、「ヤッター!勝ったー!」とグリコポーズをしながら戯ける。こうして道化に成る事で、たとえスベっても女性の恐怖心は拭われ、「こいつ馬鹿じゃない。これで軟派のつもり?」と女性の自尊心も保つ事が出来ます。

恐怖心を拭い、自尊心を傷付けない。どちらもやらないといけないのが、スナックのチーフの辛いところです。

これは自分の不注意が招いた事だから仕方ない。

覚悟を決め、自分は早足を更に加速する。

足音が近づいたのに気付いたか、前の女性も更に加速した。

しかし、自分はギアを上げ、更に更に加速する。

女性は中々のスピードだった。

だがこの勝負、負けるわけにはいかない。

夜の商売を務める者として、追いかけっこで負けるわけにはいかないのだ(完全に目的を見失い中)。

女性の長い後ろ髪がすぐ横まで迫る。

そして遂に自分は女性に追いつき、追い越した。

女性を追い越して十歩ほどしてから「ヤッター!この徒競走大会に勝ったぞー!」と戯けながら叫び、後ろを振り向いた。

だが……。


「あれ?」


そこには誰も居なかった。

スーツ姿の女性は消えていたのだ。

途中曲がる道も、隠れる場所も無い。

近くの家に入った様子も無い。

忽然と女性は消えた。

辺りは靴音も無く、場末の真夜中の住宅街には、ただ虫の声だけが静かに響く。


そういえば不可解な点が有った。

日曜日なのに女性は何故スーツ姿だったのだろう?

もし、日曜出勤だったとしても、終電が無くなる時間まで働いたのならタクシーを使うはずだ。その場合は自宅の近くまでタクシーに行ってもらうだろう。

スーツ姿の女性が、日曜日の終電の無いこの時間を歩いているのは妙なのである。


あの女性はなんだったのだろうか?

自分の頭の中で作り出した幻影だったのだろうか?

それとも……。


あなたの容姿が人間の男性の姿なら、こんな体験を一度はしていませんか?

真夜中、自分の前を歩いていた女性が、急に走り出し、追い抜くと消えてしまった事が……。


〈おしまい〉


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