18杯目 一度きりのシルバー・ブレット


計画を立ててから2日後。

わたしたちはフェトゥム・ポルタと呼ばれる門の前に集まっていた。


妖精の国の一角にあるというのに、そこだけが別空間のようにおぞましい。


「アスミさん……これを渡しておくです……ほんとなら……ワタシが……」

「いいんです、わがままを聞いてくれて、ありがとう」

「アしゅミしゃん……」


妖精のひとりであるユメミさんはこの門を通ることができず、妖精のみが通れる別ルートでアウローラ・アニマを目指すとのことだった。

お互いの道を、お互いが通ることはできないけど。

前も使ったキャリーケースに、大量の荷物と大きな決心を詰めて。


「まず初めに、これを飲むです」

「ん、お酒?」

「これはシルバー・ブレット……ひとりの人生につき、一度だけ、どんなことからも身を守るです……これで、アスミさんが死者になることはないです……」


ユメミさんは、ボロボロと涙を零して見送ってくれた。

いつの間に、こんなに愛されていたんだろう。

深い友情を確かなものにするように、わたしたちは固く握手をした。

王子様と、お姫様とも。わたしに駆け寄ろうとしてじたばたと暴れるユメミさんを、ふたりが押さえてくれていた。


「アしゅみじゃん!!」

「じゃあ…………行ってきます」



身体の内側から、何かを抜かれるような風が吹いた。


わたしはぶるっと身震いして、深呼吸をした。


大丈夫、彼を見つけるまでひたすら歩くだけ。


「えっと、まずゼノヴィアを目指す……」


そこへ着くまでは、決して、振り返ってはいけない。

よくある話だ。オルフェウスとか……日本にもなんかなかったっけか。

まあいい、前だけ見て、しっかり歩く。


「よしっ」


おそらく、既に見えているアレがゼノヴィアの入り口だ。

刑罰のためにあるものじゃないのだからそこまで厳しい制約はない、と大臣のテントウムシさんが言っていた。


わたしは振り向かずに、その境目を超えた。


「………………ワオ、人がいる」


えっと、ここで気を付けることは、「うつろ人」と呼ばれるその辺の人と、レーテーとムネーモシネーか。

通りでそれっぽい人が立ってると思った。立ちふさがってると言ってもいい。


「肉体を持ったまま来ちゃってどうしたの?お嬢ちゃん」

「ここは……魂を洗い流すための道……」

「忘却を」

「記憶を……」


横につつつ、と避けてみるが、ふたりもついてくる。通せんぼだ。

貰った紙を眺め、キャリーケースから瓶を取り出した。

いくつかのお茶を持って行くにあたり、ユメミさんが用意してくれたもの。

光の国で見たような、コルクで栓のしてある……。


「忘れじのアールグレイ」とラベルが貼ってある。これだ。

ぐいっと飲み干し、ふたりに向き直った。なんて言ったらいいのかは書いてない。


「……で」

「で?」

「で……?」

「ですよね~……」


沈黙が痛かった。


「あー、つまり先に行きたいってことね?」

「そうですそうです」

「じゃあアタシが司る川の水を飲みなさい」

「いただきます」

「変な子ォ~……」


ごくり。


途端に、今までの人生でのすべての記憶が下から上へと流れ、次に上から下へと戻ってきた。一瞬、すべてを忘れた気がした。冷や汗をかく。


「ん~……?」

「な、なにか」

「まあいいや、どーせ転生すんだし」

「レーテー……」

「じゃ、ばいば~い」


ようやくどいてくれたようだ。

申し訳なさそうな顔をしているのがムネーモシネーだろう。

レーテーに見えないように、小瓶を持たされた。

そして聞こえないくらい微かな声で教えられた。


「……無駄かもしれないけど……次の場所に着いたら飲みなさい……あなたは……たぶん転生しに来たんじゃないから……」

「……」

「行きなさい……」


怪しまれるといけないから、お礼は言わなかった。

頭を下げることもしない。ただゆっくりと、その横顔を見つめて瞬きしただけ。


「ケケケッ!アンタ今回出番なかったじゃん」

「いいのよレーテー……わたしは人間に……関与しない……」


背後でそんな会話を聞きながら、次の境目を超えた。



「テネブラエ・ノクス……死を恐れることがないように……すべての……希望を……取り上げられる場所?」


真っ暗闇だった。


光の国の闇なんて生易しかった。


そりゃそうだ。今は自分の輝きもない。


「あ……手紙も見えない……」


背中に嫌な汗をかいた。

どこへ進めばいいのか、わからない。確かめたはずなのに。


自分の両手すら見えず、何の音も聞こえない。


身体から、何かが抜き取られていく感覚がする。


「希望があるから、絶望なんてするのです」


小さい女の子の声だ。


「そんなものを忘れてしまえば、誰も死を恐れず受け入れる」


男の子の声もする。


「ぼくはエレボス」

「わたくしはニュクス」

「あ、わたし…………」


門を超えたら決して名前を口にするな、と言われたことを思い出す。


「こ、こんにちは……」

「……」

「……なにこの子、なんかヘン」

「レーテーがまたサボったんだろう」

「それだとこの先が辛くなるのですけど」

「それはぼくらのせいじゃないから」


それきり、黙ってしまう。


「……行っていいってこと?」

「後悔するわよ」

「それでもいいなら」

「行きなさい」


見えないけど、声の方にペコリとお辞儀をする。

なんだか長居したくない場所だ。


ふたりいたことが幸いしたと言えるだろう。

声が同じ角度で聞こえることをこっそり確認した。

後は転びさえしなければ……たぶん……まっすぐ歩ける……。


「あの……」


返事はなかった。


長く、浅い呼吸をした。

上手く深呼吸ができなかったのだ。


ここで、荷物を開くわけにはいかない。

落としたりしても気付けない。


でも、道がない。


わたし、どこにいる?


そもそも、進んでる?


足を止めた気がしたの。


わたし、どうして、こんなところに。


「わたし……って……」


ふと、何かがどこかの感覚器官を刺激した。


「あ、そうだった、わたし、進まなきゃ……」


何かが見えた。でも、まず嗅いでいた気がする。

親しみのある。懐かしい。新しい。


白く流れるそれを、わたしはふらふらと追いかけた。


「これは……用意してくれてた、お茶……?」


甘い香りだ。ほんの少し、スパイシーな香りもする。


足が勝手に湯気を追いかける。


道だ。道がある。それがわかる。


わたしはいつの間にか駆け出して、灯りの見える場所へ踏み出していた。



「えっと、手紙……次はモルスヴィア、ここでシルバー・ブレットの効果を……使うかもしれない……?何があるの?」


荷物から、指定された瓶を取り出す。

「気力持続のアッサム・ミルクティー」。これだ。

さっきは何を飲んでいたら良かったのかと確認すると、「道を示すチャイ」と書かれていた。飲んでないけど、効果はあったようだ。

甘くなじみ深いミルクティを飲み干すと、なんだかやる気が出てきた。


「よし、走り抜けちゃお」

「そーゆーわけにも、いかないんだよね……」


暗く、気だるげな女性が道端に座り込んでいた。


「ど、どうして……?」

「モルスヴィアはさー……魂以外のすべてを取り上げなきゃいけなくてさー……」

「それは、困るかな、なんて……」


空洞のような目がこちらを捕らえる。


「……シルバー・ブレットか」

「え、なんで……」

「いま使う?」

「どうやって?」

「私がシルバー・ブレットの効果を抜き取る代わりに、アンタをこのままで通してあげるかー……効果は残して魂だけで通るか選びなー……?」


究極の問いだ。手紙を確認する。

危険があるのはここで最後のはずだ。


次に通るのはアエテルニタス・アリクアンドという死者の国。

最終ではなく、中間目的地のような場所だ。直感を信じよう。


「効果をあなたに渡します」

「けんめーな判断だねー……じゃ、またー……会うかはわかんないけど」


背中をトン、と押され、わたしはまた暗闇という境目を通った。



「アエテルニタス・アリクアンドへようこそ~!!」

「きゃ~!!ぱちぱちぱち」

「……えっ?」


鳥の羽を生やした人や、人魚に見えなくもない人たちがいた。


「大変だったでしょ~?休みな~?」

「いや、それは困る」

「ほらほらこっち~!おいしいお茶もお菓子もあるから!」

「あー……いえ、すぐ去ります」


連続でお茶を飲んだせいか、おなかがちゃぽちゃぽだ。

すこし休みたかったが、そうもいかない。


「え~……」

「大事な人を、追いかけてるんです」

「……ま、大事ならしゃーない!」

「私たちは引き留めないわ、去る者追わず、来るものは拒まず」

「えっと、わたしどこへ行ったらいいですか?」


道筋的には、ここで行き止まりになる。

手紙には、炎の国を通ると書いてあるが、行き方を知らない。


「私たちがご案内しましょ~!」

「……いいの?」

「魂は魚の姿でやってきて、鳥の姿で去っていく……ジョーシキっしょ!!」

「ここじゃ逆だけどね!わはは!」

「じゃ、行っくよー!」

「炎の国まで1名様ごあんな~い!!」


死者の国とは、随分気軽で賑やかなところらしい。


「ゴンドラ!」

「私たちのことは魂のゴンドリエとお呼び」

「ありがとうございます、魂のゴンドリエさん」

「初めて呼んでくれた~!!うれし~から全速力!!ヨーソロー!!」

「ヨーソロー!!」


わたしひとりを乗せた渡し舟に、ものすごい数のゴンドリエがついてくれた。

祖父母の地でもこんなゴンドラには乗ったことがない。



「ここが……イグニス・イラ……炎の国?」

「私たちが送れるのはここまで」

「ホントはもっと喋りたかったけどねー!!」

「死んだらいっぱいはなそ!!」

「でも長生きしろよー!!」


賑やかな女子たちが帰ると、急に寂しくなった。


炎の国とは言うものの、そこかしこで木枯らしが吹いている。

冷え切った荒野にしかみえない。


「まさか……彼が通ったんじゃ……」


大きな声で呼んでみるものの、返事はない。

先に行ってしまったのかもしれない。


「たすけて……」

「…………」

「たすけてください……」

「あー、もう……どうしたの?」


足元で岩人間のようなこどもが蹲っていた。

こどもにそう弱々しい声で縋られて、無視できるわけがない。


「炎の山に……永遠に冷たい水晶の蓋が……」

「待ってて、すぐに助ける」


とにかく、あの水晶を抜けばいいのね。

そう高い山でもなく、わたしは簡単に登ることができた。


ユメミさんの身長くらいの大きな水晶だ。触るとものすごく冷たい。

はやくこれを抜かないと、炎の国の子たちが死んじゃう。


「よい、しょっ……と」


国が小さいから油断していたのかもしれない。


わたしはシルバー・ブレットの効果を手放したことを後悔した。


目の前に溶岩が迫る。


熱気を含んだ風に煽られ、わたしは吹き飛ばされてしまった。


暗転。



絶対死んだ。


死んでなくても、わたしの身体はどろどろになったに違いない。


熱いものに触った時は、逆に冷たく感じることがあるもの。


だからもう終わり。わたしはここにいない。


だってこんなに冷たい……冷たい?


「あれっ!?」

「わ、起きた!」

「あ、あなたもしかしてさっきの?」

「うん!助けてくれてありがとう!」


炎のこどもだったのだ。

オレンジ色の、ちいさい炎。触っても不思議と熱くない。

そっと抱きしめると、背中を軽くさすられた。


「逆に、よかったかもしれない」

「なにが?」

「水晶で冷えて死んじゃうと思ったけど、水晶がなかったら、きみがここを通るときにもえてしまったはずだもの」

「あ……そっか、そうなんだ……」

「その水晶持って行ってくれる?また困っちゃうもん」

「ありがと、貰っていく」


炎のこどもに別れを言い、赤々と燃える国土を歩き続ける。

キャリーケースは燃え、瓶の中身は蒸発し、ラベルは焼けてしまった。

幸い、念のために持たされたいくらかの茶葉は無事だ。

先はまだ長い。この氷で、何とかしてみろということだろう。


「手紙も燃えちゃったか……ま、あとは一本道だもの、大丈夫」


何の茶葉が残っているのだろう。混ざってしまっているように見えるが。

嗅いでみても、焦げや煤が邪魔をしてわからない。

脱力感。どうしたらいいかわからないが、どうにかなる。


「お茶さん、あなたに少しでも魔法の力が残っているなら、わたしに炎の国を歩く力をちょうだい……燃えずに歩ける力を」


瓶に水晶から零れる水と茶葉を入れる。


「……アスミのスペシャルブレンド、なんてね」


よくわからないお茶をぐびっと飲むと、先程のように木枯らしが吹いた気がした。

慌てて周りを見てみるが、相も変わらずごうごうと燃えている。


「よかった……効いたんだ、魔法」


重い足を叱咤し、前へ進む。

ぺちんと自分の脚を叩こうとして、ポケットに何か入っていることに気付いた。


「…………水?」


炎の国でも蒸発しない、不思議な水。


「……あっ!ムネーモシネーさんから渡された……」


そういえば、次で飲みなさいと言われたのに忘れていた。

まだ間に合うだろうか。無駄だろうとも言われたけど。


きゅぽっと蓋を外すと、ものすごい蒸気が吹き出した。

だめだ。やっぱりこれも蒸発して……。


「遅いわ……開けるの……」

「ムネーモシネーさん!」

「いい……?一度しか言えないからよく聞いて……」

「……はい」

「高い塔を目印に……プレクス・ヒエムスへ行きなさい……」

「プレクス・ヒエムス……塔を目指してプレクス・ヒエムス……覚えました」

「結構賢い子ね……立場が違ったら……ともだちになりたかった……」


ふっ、とさいごの蒸気が掻き消える。


ここからは、本当にひとりで行かなければならない。

もう、なにも持っていなかった。



リリリ……と虫の歌が聞こえた。

おとぎの国にも、普通の虫がいるのだろうか。


「高い塔……プレクス・ヒエムス……」


それはすぐに見えた。

ラク・ラクリマにいてもわかるくらい高く聳える塔。

ふと、バベルの話を思い出す。


「高い高い塔は……なんのために建てるのかな……」


喋るのって、意外と体力を使うんだな。


心なしか、体が重い。


「アルス……」


待っててね。


「すぐ……行くから……」


すぐ……。



§


スポイトで青い液体を吸い上げ、アスミの口に数滴落とす。

するとみるみる傷が癒え、アスミは安らかな寝息を立て始めた。


「…………」


アルスは愛おし気にアスミを見つめ、顔を逸らす。


「きみの知らない、話をしよう……」


遥か昔。

人類の幻想の祖である蝶がひとり。1頭じゃない。ひとりだったんだ。


それは濡らした紙にインクを垂らすように広がって、国になり、幻想が増え、やがてひとつの世界になった……おとぎの国だ。


人々が幻想を生むたび、おとぎの国にもそれらが生まれた……。


僕と姉さん……ドルミーレは、そんな幻想の祖の子孫だった。

妖精と称しているものの、妖精とはまた違う種族。

昔ほど強い力はなく、なんでもできるわけじゃない。

それでも、どの幻想よりも強い力を持っていた。


同じ種族が足りなさすぎたんだね、世界の統治を妖精たちに任せ、僕ら姉弟はある意味隠居したんだ。アヤカシの森に籠って、好きなことを好きなだけした。

僕は森をお茶に使う植物だらけにして、よく姉さんにどつかれてた。


お茶を極めると……欲が出たんだ、幽世に店を構えて、人間に関わってみようと思った……ある意味、遠い生みの親だったしさ。


僕は人間が大好きになった。


これは知ってるだろうね、そう、きみがいたからさ。

きみと生きるために、僕は幻想であることを捨てようとした。

人間だと思ってもらうために、随分きみを幻術で騙してしまったね……。


出張と称しておとぎの国や茶店で仕事をし、お金を稼ぐ。

おとぎの国にいたころほど豊かな暮らしではなかったけど、僕には何より大切で大好きな時間だった。


人生で一番の過ちを犯すまでは。


「…………もう、追ってこないでくれ……どうにもならないんだ……これしか……」

「もういいだろアルス、アスミから離れろ」

「……わかってる、お前にさえ出会わなければと思うよ、アンブラ」

「お前が僕からすべてを奪ったんだろ……」

「……わかったよ」


プレクス・ヒエムスの海岸へ引き上げ、アスミを見つめ続ける。


どろどろとした闇に包まれ、アルスも、アンブラと呼ばれた少年も消えてしまった。


§



「あ、起きました?」

「だ、だれ?」

「祈りの塔の管理者、ペンナです、どうも」

「……わたし、どのくらい寝てた?」

「2、3時間といったところでしょうか」

「わたし行かなきゃ!!」

「お待ちください、どこへ行くのです!?」


ぴたり、と足が止まる。


「……わたし、どこに行けばいい?」

「とりあえず、祈ります?」

「祈る……?」

「この国には、祈りの塔しかありませんから」

「そう……じゃあ…………祈ろうかな……」

「エレベーターと階段、どちらを使います?」

「……それ、階段を選ぶ人、いるの?」

「結構選ばれますよ、一段一段登って自分の祈りを数えるのです」


おしゃべりな鳥人だ。

ゴンドリエたちといい、鳥の羽が生えてるとみんなおしゃべりなのかな。

あ、でもあの子は大人しかったな。光の国で助けてくれた……。


「……あれ?あの子どこか、アルスに似てる、ような……」


上へと駆ける箱の中で、既視感を必死に整理しようとした。

こんな時、ミントティーがあればすぐに片付きそうなのに。

いや、真実を見極める高山茶を常飲すればいいのかな?


「チュン」

「チュン?」


エレベーター到着のベルらしい……絶対チュンって言った。


「うわ、高い……」


鐘塔だったのかな。頭上に、金色の大きなベルがある。


展望台くらい広い……。


「あ……」

「………………アスミ」

「アルス!!」

「あぶない!!ストップ!!」


駆け寄ろうとしたら止められてしまった。

一定の距離を保つようにじりじりと見合い、ホッと息を吐く。


「なんで止めるの……?」

「抱きつこうとした」

「……あたりまえでしょ!?あなた、どれだけ心配かけたら気が済むの!?なんでわたしに嘘つくの!?どうして急にいなくなったの!!!!」


ゼエ、ゼエ、と肩で息をする。自分でもびっくりするくらい大きい怒鳴り声だった。

唇を噛みしめる。枯れたはずの涙が次々とあふれ出てきた。


「……はい」

「……なによ」

「いいから」


片手を差し出され、握手を促される。

無性に腹が立って、思いっきり握りしめてやろうと思った。


「……わっ、と」

「…………わかったろ?」


手はアルスの手をすり抜け、空を掴んだ。


「……あのまま抱き着いてたら、アスミ、こっから真っ逆さま」

「……あの、……あのねぇ!!」

「しーっ、アンブラに気付かれる」

「アンブラぁ?」


彼は困ったように眉を下げて笑い、人差し指を唇に押し当てた。

生きてるように見える。生きてた頃と何も変わらない。仕草も、声も。

それなのに、手は彼をすり抜けてしまった。何度やっても。


「追って来るなって言ったのに」

「理由も聞かずに言うこときくと思う!?アンブラって誰!?全部話して……」

「だから、しーーー……っ」


アルスはキョロキョロと辺りを見回して、胸を撫で下ろした。

涙は止まらないけど、なんだかおかしくって笑いがこみ上げる。


「わたし、あなたのお姉さんと、あなたがやってたお店で働いてるのよ」

「えぇ!?」

「それも、フルタイムで」

「ふっ……え、マジ?」

「わたし……ふふ、それ聞いて……あはは、びっくりして……!」


カスタードクリームを出す牛の話を聞いた時くらい笑えた。


彼があんまりにも変わらなかったから。


「言われて、こうしてよくみれば……ユメミさんに似てなくもない」

「ユメミ?」

「あれ?お姉さんの名前」

「あー、人間名を作ったのか、いいな僕もそうするんだった」

「本名じゃないの!?」

「姉さんの本名はドルミーレ・ファビュラ……夢物語みたいな意味」


それから今までのことを話して、すり抜けたり、笑ったりした。


「何を祈ったの?」

「まえとおんなじ」

「前?」

「スペス・フォン」

「あ……」

「やっぱりあなただったのね」

「だって、魂だけのこんな姿じゃ……」


手を組み、目を閉じる。


「アルスが今までしてきたことの理由が知れますように」

「…………」

「あの時もわたし、こう祈ったのよ」

「……それは、契約違反だから」

「は?契約?」

「…………ねえ、アスミ……一緒に逃げようか」


彼の目から、流れ星が落ちる。


「そうねぇ……とりあえず、ユメミさんと合流したいな」

「その前に、ふたりだけで寄り道しよう」


ふたりだけで、という甘い言葉につられ、わたしは頷いてしまった。



「おいアルス……アルス?」


1時間だけ祈りを捧げたい、というから許してやったらこれだ。


「逃げられちゃったの~?」

「黙れ」

「そんなこと言ったって……あたしが必要でしょ?」


アンブラの後ろから現れた誰かが、にんまりと猫みたいに笑った。

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