第十七話 「見守る」ということ -2
部長室での藤野弁護士との面談ではほとんど華が喋った。
「藤野さん、ストーカー事件やレイプ事件を担当されたこと、ありますか?」
「残念ながら無いですね」
「今回の事件、ジェロームを守っていただけるんでしょうか」
「そのために来たつもりですが?」
「こんなことを言ったら失礼になると分かっています。藤野さんにも大滝部長にも。それでも言わせてください。こういう事件では勝つことに意味、無いです。被害者本人をどこまでも守っていただきたいんです。真実が必要なわけじゃないです」
藤野がピクリと太い眉を動かした。40過ぎ。やり手だ。若いのが何を言うか、という気持ちが顔に出ていた。
「裁判は勝つためにやるんです。真実を知らしめることによって相手の罪を明らかにするんです」
「それは違います。俺は知ってる、こういうのがどんなに被害者側を傷つけるか。俺も……同じ目に遭ったから」
華は譲らなかった。
「お願いします、藤野さんがどうとかいう、そんな話じゃないんです。こういうケースに慣れている人を推薦していただきたいんです」
真剣な華の言葉に藤野の顔が少しずつ和らいできた。
「分かりました。ちょっとお待ちください」
藤野は廊下に出て行った。
大滝部長は華の言う意味を分かってくれていた。
「宗田くん。こんな事件など起きてはいけない。だが起きてしまった今、シェパードくんのそばに君がいて良かったと思うよ。私はこういう形でしか手助けができない。藤野くんはもう分かってくれているからきっといい弁護士を紹介してくれる」
大滝部長の言った通り、藤野は最初の怒りをもう忘れていた。
「私のパートナーに、西崎紀子という女性がいます。言い方は変ですが、彼女はこういった事件を扱い慣れています。彼女になら君みたいなケースを安心して任せられると思う。それでいいですか?」
ジェロームは華の顔を見た。(良かったな)と華は笑って見せた。大滝部長が後のことを引き受けてくれた。
「華さん……俺、何から何まで助けてもらって……」
「たまたま同じような目に遭ってたからさ。あんなイヤな思い出だってこうやってお前の役に立てれば意味があったかもしれないって思える。礼を言いたいのは俺の方さ。やっとあのことに向かい合う自信がついたよ」
あのことを追体験することによって今度こそ自分も解放されるかもしれないと思う。今はあれが役に立っているのだと。ただ悪夢でしかないものを封じ込めるのではないと。
戻ってすぐにミーティングルームに課長に呼ばれた。
「大丈夫か、二人とも」
ジェロームの返事はない。
「ええ、いい弁護士さんがついてくれることになりました」
「良かった! この先のことは?」
「最初は経過について何度か話すことになると思います。俺とジェロームの話の整合性も問題になるだろうし」
「そうか……」
「結局はどう訴えるかと言うことに行きつくと思いますけどね」
「どう訴えるか?」
「ええ。事件の中身をどうするかってことです。相田があんなことをしたきっかけをどこに持って行くかで裁判の在り方が変わってしまうから」
しばらく考えた課長が真っ直ぐに華を見た。
「ただの傷害事件にするかもしれないと言っているのか?」
「はい」
「ジェロームは?」
「……よく分からなくて……」
「まだ実感が湧かないのは当然だよな。疲れてるのに悪かったな。ジェローム、休憩してこい。オフィスにいる方が落ち着くならソファを使って構わないから」
「はい……」
ジェロームと一緒に立とうとして華は課長に呼び止められた。
「華、ちょっと残れ」
後ろを振り返りながらジェロームが出て行った。
「華、もう帰っていい」
「はい?」
「帰るんだ。結婚式もすぐだ、ゆっくり体を休ませろ」
「なんともないですけど」
「そうか? 鏡を見て来い。見たら黙って帰れ。これ以上お前に何かあったら真理恵さんに会わせる顔が無い。ゴチャゴチャ言うなら上司命令だ。さっさと帰れ」
ミーティングルームから真っ直ぐトイレに行った。思ったより酷い…… 青い顔の中に頬だけが赤い。
(目が死んでる……)
自分の顔なのにそう思った。携帯を取る。
「マリエ?」
『どうしたの?』
「病院に行って帰る」
『迎えに行く!』
「ありがとう。運転やめてタクシーで行く。八坂総合病院、分かる?」
『分かる。すぐに行くから。先に診察受けててね』
オフィスに戻って池沢に早退を告げた。
「すみません、早退させてください。病院に寄って帰ります」
「良かった! そうしろ。おい! 誰か華を病院まで送ってくれないか?」
「いいですよ! 一人でいけます」
「俺が行く」
「課長! 一人で行けますって!」
不安な顔でジェロームが立ち上がろうとした。
「心配無いんだ。ほら、式の支度もあるから早退するんだ。病院はついで」
「ホントに? 華さん、顔色悪い……」
「おい、俺の顔は誰よりきれいだぞ」
その言葉にほんの少しジェロームが笑う。
「よし。今度会うのは披露宴だ。来てくれよ」
「もちろんです! 真理恵さんにお会いしたいです」
「惚れるなよ」
今度こそジェロームが笑った。
「じゃ、お先に失礼します」
「気をつけてな」
結局ジェロームの手前、送るという話は無くなった。エレベーターが締まる寸前に野瀬が滑り込んできた。
「大丈夫か?」
「ええ。さっきみんなに言った通りです。病院は……」
「ついでだって言うんだろ? この強情っ張り!」
くすっと笑う。
「野瀬さん、声は悪いけどいい人ですよね」
「お! お前からの賛辞だなんて気色悪いな」
1階に着いてドアが開く。
「じゃ、お先……」
野瀬が腕を掴んで『閉』を押した。
「なっ……!」
「一人で行かせるとでも思ってんのか? 病院の前で下ろしてやる。後は大丈夫だな?」
「野瀬さん……」
「ばか、泣くなよ」
「……まさか」
地下に着いた。車に引っ張って行かれる。すでに熱でふらついている体を支えて助手席に乗せてくれた。
「頑固だよなぁ、お前。課長と変わんないぞ。あの人も筋金入りの強情っ張りだからな」
「課長と一緒にしないでください。少なくとも俺は人間ですから」
野瀬が笑う。
「俺はなんだかんだ言いながらお前が気に入ってるよ。特にお前の仕事っぷり、池なんかにやるんじゃなかったって思ってる」
「……だって、声、嫌いだもん」
野瀬がげらげら笑う。
「いつもの調子が戻ってきたな。おい、結婚式にそんな顔で出るなよ」
「大丈夫です。俺は彼女のためなら頑張れるから」
「楽しみだ、彼女に会うのが」
「野瀬さん、祝儀袋だけ置いて帰ってもいいですよ」
心の中では野瀬に感謝した。お蔭で自分を保っていられる。
病院の前で下ろされて運転席の野瀬にしっかりと頭を下げた。
「感謝してます。いろいろ……俺を認めてくれた。野瀬さんがあの時俺を否定してたらここにいなかったと思う。今あるの、野瀬さんのお蔭だと……」
「ああ、もう行け。お前からこっ恥ずかしいこと言われたくない。相当熱が上がってるんだな、そんなうわ言口走るなんてさ。早く治せよ」
そのまま発進した野瀬の車が見えなくなるまで見送った。
「今日から仕事だなんて無茶だよ! この後は安静にして寝ていること。いいね」
「明後日はもういいですよね、動き回っても」
「来週もう一度来なさい。それで大丈夫なら……」
「すみません、明後日結婚式なんです」
「出席するのは控えた方がいいね」
「いや、俺の」
さすがに医者も黙ってしまった。
どちらにしろまた来るように言われて会計のある待合室に行った。少しすると真理恵が入って来た。
「華くんっ」
隣に座ってすぐに額を触られた。
「結婚式、無くていい。籍入れて終わりにしよう」
「ばか。そんなこと考えるな。気力で治す。約束だ、明日は熱が下がるから」
その夜は本当にうわ言を言うほどの高熱が出た。刺されてすぐに出勤したことが無茶だったのだ。
「……いや、だ……触る……な、感じて、なんかな……い……」
「マリエっ!! 逃げろっ! マリエっ!」
「ジェロームっ、逃げろっ!!」
「殺し、てやる……」
「マム、ダディ……行っちゃや…だ……」
「マリエ……愛してる……」
泣きながら真理恵は一晩中看病をした。
「華くん……華くんが大好きだよ。一生大切にする。約束、私たちもう離れない」
(いい匂いだな……)
夢の中にいるようだった…
(マフィン? 俺、嫌いなのに……でも懐かしい匂い……)
「起きた? 食べられそうかな、無理しなくていいけど」
「マリエ?」
「なに、変な顔して」
部屋の中を見回した。
「ああ……家だ。俺とマリエの」
「そうだよ、変なこと言わないで」
「いやな……夢見てた」
「そうだったの? どうする? 食べられる?」
「食べる……元気にならないと。約束だからな」
何とか座った。
「向こうで食べる」
「分かった。じゃ用意するね」
真理恵はあれこれ言わなかった。
思ったより食べられた。
(さっきの匂い、なんだったんだろう)
その時、ウバの紅茶とさっきの甘い匂いが漂った。
「はい。体が疲れてる時はね、少しは甘いものを摂らないとだめ。残したら怒るからね」
小さなマフィンが2個。リンゴのシャーベット。このシャーベットは華が唯一食べられるデザートだ。じっと見たが、文句も言わず小さなマフィンを口に入れた。
「……そんなに甘くない」
「ゆめさんが教えてくれたの。心配してたよ。華くんがいいって言ったら来るって」
「いい、呼ばなくて。今の俺を見たら帰らないって言い出すよ。どうせ明日会えるんだから」
「式……出られそう?」
「出られるんじゃない、出るんだ。俺たちの最初の大事な儀式だからな。それに特に女性には大切なものだから」
真理恵は泣かずに微笑んだ。
「ありがとう。うん、大切な儀式だからね。華くんからちゃんと指輪もらいたい」
「任せとけ」
「亭主関白だ」
「まぁね」
その後もまた華は眠った。もううわ言は無く、しっかりと汗をかいて、きちんと体を拭かれ着替えをし、食べやすいものを食べて薬。
劇的な回復を見せて夜には熱が下がっていた。
「有言実行」
「見栄があるからね」
「らしい」
微笑む真理恵の目からほろんと涙が落ちる。
「ごめん……心配、かけた」
「ううん。心配しないことにしたの。華くんが選ぶ通りに生きていいんだよ」
「俺の人生はマリエ込みだから」
夜は実家から電話があった。
『華、大丈夫?』
「大丈夫、明日はよろしく」
『無茶ばかりして……』
「マフィン……ありがとう。美味しかったよ、母さん」
電話の向こうで沈黙が生まれる。
「泣かないで。いつも素直じゃなくてごめん。父さんにもそう言って。でも電話でしか言わない。それも今回だけ」
『ありがとう……ありがとう、華』
電話が終わると真理恵が背中をそっと抱いてくれた。
「華くん、大好き!」
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