第十七話 「見守る」ということ -1

  


 池沢が帰った途端に華はソファに倒れ込んだ。

「華くん!」

「ごめん……さすがにバテた……」

 目を閉じている華の顔が青かった。

「意地っ張り。我慢してたんでしょ」

「男は我慢してなんぼ」

「目を開けて」

「うん?」

 突然のことに華は目を見開いた。真理恵のふっさりした睫毛が目の前にある。押し当てられた柔らかい唇。それが蕾が華びらの奥を覗かせるように、ゆっくりと開いていく。

 真理恵からの初めての口づけに華は目を閉じて酔った。積極的に入ってくる舌を迎え入れ、互いに愛撫し合う。

 華の右手がそっと真理恵の胸をまさぐった。けれど真理恵は何も言わず身を任せてきた。

「マリエ……」

「はな……くん……」

 誰にも触らせてこなかった肌が自分の手の平にさざ波のような震えを伝えてくる。異常な一日の興奮の余韻が華を突き動かす。

「ああ……マリエ……」

 華はそのままソファに真理恵をゆっくり押し倒した……  

 ソファで愛し合い、その後真理恵が『もうだめ』と止めるのを聞かず、ベッドで愛し合った。

 しっとりとした真理恵の肌に手が馴染んでいく。ふわふわの長い髪を胸に漂わせてくる真理恵の髪に指を絡める。

「ごめんな」

「やだ、何回言うの?」

「お父さんにも念押されてたのに」

「私、大人だよ。華くんより年上なんだよ?」

「あれ……ホント? 俺のために誰にも触れさせなかったって」

「えぇ? 疑ってる、私のこと」

「そうじゃなくて! もし……俺がお前を好きだって気づかなかったら……」

「でもこうなれたから。それでいい」

 真理恵の額にキスをする。

「俺さ、マリエをうんと幸せにする。マリエが好きだ、誰よりも」

「私も。華くん、意外と疎いから一生だめかなぁって思ってたんだよ。けどもういいの」

「……う!」

 興奮していた分、『傷』が痛いと騒ぎ始めた。

「華くん! もう、無理するから。だから1回にしとけば良かったのに。痛み止めってバッグの中?」

 明け透けな言い方に華が圧されている。

「う、うん…… だってマリエが誘うから…」

「聞く耳持ちません。じゃ、まず何か食べようね。お腹空いたところに痛み止めって良くないから。簡単に食べられるものにするね。このままで待ってて」

 さっきまでの余韻は消え、すっと動いていく真理恵。

(女って逞しいよな)

 シャワーの音がして、あっという間に真理恵が出てきた。

「おい、ちゃんと洗った?」

「華くんのエッチー」

「な、なに言ってんの? カラスの行水みたいだって思ったんだよ」

「カラスの話よりツバメの話が先なの」

「どういう意味?」

「雛がね、口をパクパクさせてるの。早く餌ちょうだいって」

「俺はツバメの子かよ」

 ボソッと呟く。


(とうとうマリエを抱いた……)

さっきの真理恵の痴態を思い浮かべ、一人赤くなる。

(他のこと、考えよう!)

 今日の事件を順を追っていこうとした。そこに半開きになっていた真理恵の顔がぽわんと湧いて出る。

「華くん! 熱が出てるみたい!」

 泡を食う、すぐそばに真理恵が来ていた。手にはおにぎりの乗った皿と味噌汁のお椀。

 すぐにそれはサイドテーブルに置かれ、真理恵の額が自分の額にくっつく。頭が沸騰しそうで益々顔が赤くなる。

「おかゆが良かったかな、熱が出てる」

「え?」

(熱じゃなくてマリエの体を何度も抱きしめたから)

 けれどその後に真理恵に脇に突っ込まれた体温計が容赦なく38度1分という数字を突き付けてきた。

「ほら! 急いで食べて、一口でも二口でもいいから」

 バタバタと動き回る姿を目で追いながら、もう新しい生活が始まっていることを味わった。

 結局途中で気持ちが悪くなった華はおにぎりを1個しか食べられなかった。味噌汁は薄めたのを飲まされた。口に錠剤を放り込まれて体を拭かれてパジャマを着せられる。頭の下には氷枕。

(なんか……幸せだ)

そう思ったまま眠りに落ちた。


 朝は6時前に起きた。もうキッチンからいい匂いが漂っている。

「マリエ? 起きてたの?」

 ずるずると体に巻き付けた毛布を引き摺りながらキッチンに来た華に笑う。

「なにやってるの? もう!」

 そのまま回れ右をさせられてソファに横にされた。

「熱」

「下がった」

「嘘つき。頬っぺたが赤いよ」

「飯食ったらシャワー浴びる」

「仕事、行くの?」

「行くよ」

「ホントにもう頑固」

「男は仕事してなんぼ」

「はいはい。どうせ止めたって無駄だし。オートミールにしといた。後はオニオンスープね」

「さんきゅ。ちゃんと食べてちゃんと薬飲む」

 頬にちゅっとキスをもらって、大人しく朝食が並ぶのを待った。

 食べながら真理恵に聞く。

「あのさ、家事とか当番制にする?」

「またぁ、ばか言ってる」

「なんだよ、ばかって」

「男は威張ってなんぼ。家事のことなんか考えないでね。それよりジェロームくんのこと、ちゃんと見てあげて。華くん、ジェロームくんの話する時に目が柔らかくなってるって知ってた? それ、すごく嬉しいの。初めてのお友だちだよね」

 真理恵の言葉が嬉しい。真理恵以上に自分のことを理解してくれる人がいるだろうか。

 シャワーは真理恵が手伝ってくれた。手が濡れないようにとビニールとラップで包帯の上から封印されて、片手を体から離して頭を洗ってもらう。そのまま体もしっかり洗われてきちんと拭かれた。ドライヤーをかけてくれて髪を整えてもらう。

「俺、ダメ人間になりそう」

「ならないよ、華くんは。そういう人じゃないもん」

 認めてもらえることが嬉しい。

「お弁当食べたらお薬飲むこと。だるくなったら休憩させてもらうこと。結婚式までに元気になること」

「了解。行ってくる」

 玄関まで見送られて会社に向かった。


 

 ジェロームの顔を見た途端に具合の悪さを抑え込んだ。自分よりも酷い顔だ……

(昨日より変だ……何かあったのか?)

 自分を見て泣きながら謝るジェロームに、真理恵と話したことを少し脚色して面白く話した。周りも「のろけか?」「え、年上?」なんて乗っかってくる。けれど池沢も三途川もジェロームの様子を気にしながら自分を茶化しているのが分かる。みんな事件の話を避けているのだ。

 課長がチームミーティングに入って来た。トラブルのせいで進捗が心配な池沢チームにテコ入れする気だ。

(絶対仕事に影響なんか出さない!)

 自分の気概もある。そして、仕事に実際に支障を来たしたらジェロームはただ自分を責めるだろう。


 課長が指揮を執ったことによって業務が加速していく。本来なら華は課長の言う『業務の前倒し』というのが好きだ。性に合うのだ、スピードと完成度を追及していく過程が。だが今回はちょっと違う。正直に言うとしんどい。華自身、結婚を控えているしそこにケガもしてしまった。けれど今のこの流れを止めたくない。

 池沢が目配せをしてきた。

「ジェロームとブルーバードを進めてくれ」

「確か営業から昨日追加資料が来てましたよね」

「ジェロームに教えてやってくれ。お前、月曜は休むだろ?」

「さすがに結婚式の翌日くらいは休みほしいです」

 自然の流れでジェロームは責任ある立場に立たされる。

「おい、頼むぞ。この仕事、俺たち二人でこなすからな」

 真剣な顔から朝の鬱とした顔が消えていくのを見てホッとした。

 澤田が絡んでくる。

「お前覚え早いからなぁ。ウチのチームに欲しかったよ」

「ダメ、ジェロームは俺の相棒になるんだから」

 澤田の声が小さくなった。

「華、ジェロームと浜田、トレードしないか?」

「冗談!」

 二人の話を聞いていたジェロームからいい緊張感が伝わってきた。ざっと仕事の流れを説明して、ジェロームにスケジュールを任せ、やるべきことを指示した。


 ふっと目が眩んで椅子に腰を落とした。ちょっと目を閉じてからちょうど届いたメールを読んだ。

「華、いらっしゃい」

 三途川に呼ばれて4階に行く。

「なに? あそこじゃ話せないこと?」

「あんた、帰んなさい」

「帰るって、どうして?」

「鏡見れば分かるわ。今日無茶して出てきたのね?」

 途端に天邪鬼が飛び出す。

「だからって仕事は待ってくれないですよ」

「そんなことより自分の体大事にしなさい。彼女にも申し訳ないわ。どうせ自分から具合悪いって言う気ないんでしょ? 私が言うわ」

「放っといてよ。今日はそんなことしたくない」

「ジェロームのためにでしょ? それは私が引き受けるから」

 有無を言わせないような三途川の言葉に、自分を心配してくれていることは充分分かっていた。

「俺は今自分がどう動くべきか分かってるんです。確かに調子は悪いけど今はそんなこと言ってらんない」

「華、あんたがジェロームを大事にしてるの、見てて分かる。けどどうしてそこまで頑張るの? 非難してるんじゃなくて、最近のあんたが変わったから聞くの。答えたくないなら構わないわよ」

 ジェロームが三途川にも気を許しているのは知っている。

(味方が多い方がいい)

 華は初めて三途川に自分の過去を全て話した。


「あんたも……辛い目に遭ってきたのね」

「俺、分かるんだ、あいつの気持ち。そりゃ全部分かるなんて言わないよ。俺の方がもっと楽だったんだって、今のあいつを見てるとそう思う。でもこういうのを理解するのって同じ傷を負った人間じゃなきゃ無理なんだ」

「そうか……でも、今日だけは早退したら? 式だって近いんだし」

「どっちにしろ帰れないよ。1時半に部長にジェロームと一緒に呼ばれてる。弁護士と会うんです」

「日延べ、出来ないかな」

「したくない。早くあいつを楽にしてやりたい」

 三途川が小さく「しょうがないわね」と呟いた。

「じゃ、今日のあんたの仕事、私に回しなさい。あ、ぐだぐだ言うんじゃないわよ。私を本気で怒らせないでちょうだいね」

「三途さん……」

「なに? 感謝の言葉なら聞くわよ」

「……ありがとう」

「いい子ね。薬は持ってきてるんでしょ?」

「マリエに念を押されてる」

「あんたには過ぎた人よねぇ。大事になさい」

「もちろん。俺の宝物だから」

 三途川がにやっと笑った。

「あんたが入社した頃を思い出すわ。小憎ったらしいだけのガキだったのにいい面構えになったわ」


 4階の隅っこで弁当を食べて薬を飲んだ。体が火照っているのは熱のせいだ。じくじくと痛みが左腕から染み出してくる。このまま横になってしまいたい……

(そうは行かないんだ)

 午後は弁護士に会う。また記憶が鮮明に浮かぶ。この頃はそうだ。何かにつけ這い上がってくる記憶。

(やっぱり解放される時って来ないのかな……)

 それでも、『あの時』を知っている真理恵が自分にはいる。ずっと変わらず支えてくれる人が。

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