第十六話 意地 -2

 池沢の車の後部座席に座った華はジェロームの世話を焼いた。

「自分が狙われたってのに俺の心配してくれて、ありがとな。お蔭で俺も卒倒せずに済んだよ」

 返事を返すことも出来ずにいるジェロームを会社に着くまで放ってはおかなかった。あの事件で自分は放っておいてほしかった。誰と喋るのも接するのもいやだった。けれど今回はレベルが違う。

(だめだ、黙らせちゃ。何とかしないと)

焦りが出る。

「キーボード、お前どうする? 右手だろ、お前のケガ。きっと俺より大変だぞ」

「……華さん、だって……」

「俺か? 何とかするって。こういう時に俺みたいな強情っ張りは強いんだよ。痛みより見栄張る方が大事なんだ」

「ごめん……なさい……俺のそばにいたからこんなことに……もう俺から離れてた方が……」

「なんだ? お前、ケンカ吹っ掛けてんのか? 相田は掴まったんだ、少しは喜べよ」

「華さんが……華さんがケガしたのに……どうして喜べるの? どうして!? なんで俺を助けたの!? 俺が刺されてたはずなのに……こんな……こんな……」

 ジェロームの喉がすぼまっていくような音に変わっていく。

「チーフ、車止めて!」

 慌てて池沢が車を止めた。

「どうした!」

「外の空気、吸わせます! 過呼吸起こしそうになってる!」

 自分には過呼吸の経験がある。あれから調べもした。

「なんか、袋ありますか!? なんでもいいです!」

「これなら……」

 コンビニで買い物をした袋があった。それを引っ掴んでジェロームを外に引きずり出した。池沢もすぐに下りてきた。

「吐きたいか? だったら吐いた方がいいんだぞ」

 首を横に振る顔からどんどん血の気が引いていく。呼吸が荒くなっていくのが分かる。華はすぐに袋をジェロームの口に押し当てた。

「いいか、袋の中だけで呼吸するんだ。なるべくゆっくりな。俺もチーフもそばにいる。何も考えるな、ゆっくり呼吸することだけ考えるんだ」

 引き攣ったような呼吸音が、しばらく経つと治まり始めた。顔に少しだが赤みが差してくる。

「少し楽になったか?」

 池沢は子どもの背中を撫でるように優しくジェロームを撫でていた。小さく頷くのを見てホッとした。

「いいんだ、お前は今は余計なこと考えるな。痛ければ俺も我慢しないから。俺はお前を助けることが出来て本当に嬉しいんだよ。俺のことで悩むな。むしろ何でも言ってほしい。お前は大事な友だちで弟なんだから」

ぽたりぽたりと涙が落ちる。袋を受け取って車に戻った。

「会社に戻ろうな。あそこ、好きだろ?」

「……うん……」

「俺もだ。最初はそうでもなかったけどさ、今は落ち着くんだ。だから一緒に戻ろう」

「うん……」


 オフィスに着くとすぐに課長が立ってきた。

「こっちに戻って良かったのか? 華」

 険しい表情がどんなに心配しているのかを物語っていた。

「俺も言ったんですがね、無理です、こいつを説得するのなんて」

「俺が仕事するって言ってんですからそれでいいじゃないですか」

「分かった、分かった。3人ともミーティングルームに入ってくれ」

 ミーティングルームで課長はジェロームと華を気づかわし気に見た。

「で、ケガはどうなんだ?」

「俺は8針縫って全治3週間。ジェロームは5日間。どっちも超大事を取ってっていう話で。俺はいいです。こいつのケアは必要です」

 課長は華に頷いた。

「後日改めて警察から呼び出しがあります」

「二人には会社から弁護士がつくそうだ。だから心配しなくていい」

「帰りに襲ってくりゃ良かったんだ。なまじ真昼間だから大騒ぎになって、何をとち狂ったんだか。課長、こいつ昨日も絡まれてるんです。それを袖にされ逆切れしたんですよ、きっと」

 課長から一気にビリっとした空気が伝わってきた。

「やっぱりそんなことだったのか……」

 ジェロームは、隠し事をするなと言う課長の言葉にも返事ができずにいる。

「よし、分かった。華、加減して帰れ。池沢、三途と上手いこと仕事を進めてくれ。後で俺も入る。ジェロームはちょっと俺と来い」

 課長はジェロームを連れてオフィスから出て行った。

 自席に戻ってパソコンを起ち上げる。その様子を何人かが遠目に見ていた。

「おい、仕事する気か?」

「当たり前でしょ、それ以外に会社に何しに来るってのさ!」

 取り付く島もない華の言葉に野瀬は黙ってしまった。他のみんなも話しかけるのをやめた。この状態の華に近づくとえらい目に遭うのを知っている。

 

「あんた、キーボード打てないでしょ」

「だから? メールくらい読めますよ」

「こら、そんなに喧々けんけんするんじゃないの。頭冷やしなさい」

「三途さん、俺、冷えてますよ。だから黙っててください」

 三途川にさえこの始末だ。池沢も口を出すのをやめた。今は何を言っても無駄だと知っている。


 しばらくして、突然イラっと来た。話しかけては来ないが、こっちをひっきりなしに誰かが見ている。とうとうキレた。立ち上がって机の上の資料を叩きつけた。一斉にみんなの視線が集まる。ギラギラした目でその視線を跳ね返した。

「あのさ! 俺をチラチラ見るより仕事してくんない? これでここの評価下がるの、堪まんないんだけど! 俺、プライドあるからさ、こんなんでケチつけられたくないんだよ!」

 ちょうど課長とジェロームが戻ってきた。

「どうした?」

「別に。みんなの目が鬱陶しかっただけ。あ、浜田さん!」

「な、なんだよ」

「あれこれ喋り回んないでくださいね! 俺そういうの嫌いだから」

「分かってるよ! 喋らないよ!」

「あんた、一番信用出来ないから」

 浜田も華を良く知っているから口をきっちり閉じた。課長が池沢に何かを話しているが華は見向きもしなかった。

 腕を吊っている三角巾が鬱陶しい。イライラとそれを外して脇に放り投げた。カッカしているせいなのか、ひどく暑くて上着も脱いだ。課長が声をかけて来る。

「おい、無理するな」

「あれ、ストレスになります。腕は自由じゃないと」

 課長を見もせずに返事をする。

「お前はピッチ上げなくていいから」

 池沢の言葉には口さえ利かなかった。

 その横に座ってジェロームもキーボードを叩き始めた。自分の苛立ちよりも今度はジェロームが気にかかる。


 終業時間が来た。課長がそばに来るのを無視する。

「華、仕事は終わりだ。もう帰れ」

「俺の今日の分、終わってません」

「残業は認めない。しっかり体を休めてほしい」

 その声に顔を上げた。課長の真剣な顔に怒りが治まってきた。

「俺が華を送ります」

「助かる。頼むよ、池沢」

 華は真っ直ぐ自分を見る課長に頷いて大人しく帰り支度を始めた。

「華、彼女のところに帰るんだろ?」

「そうですけど」

「池沢、悪いがお前から謝っておいてくれ。危険な目に遭わせて済まなかったと。本当は俺から言うのが筋なんだが」

 ちょっと慌てた。

「いいですよ、そんなの」

「そうは行かない。結婚前にお前を傷ものにしたんだ」

「傷ものって……」

 それでも真剣な顔にあれこれ言うのをやめた。

(課長はこういう人だよな……)

 今日は一日八つ当たりをして過ごしたと思う。改めて課長に申し訳なく思った。

 池沢も真面目に返事をする。

「分かりました。きちんと頭下げて来ます」

「頼む。華、日曜の結婚式、大丈夫か?」

「こんなんでドタキャンしたら殺されます」

「そうか。今日はありがとう。お前のお蔭で助かった」

「最近そう言われるの多くて……照れます」

 褒められるのは苦手だ。つい正直に答えてしまった。

「め、珍しい! 華が赤くなってる!」

「うるさいです、チーフ!」

 


 池沢がどうしても真理恵に会うと言うから、とうとう華は電話をした。

『お疲れさまぁ! なぁに? どこかで待ち合わせする?』

「ごめん……謝んなきゃなんないことがある」

『………華くん。結婚式直前の浮気なら許さないからね』

「ばか! そんなことするわけないだろ!」

 笑い声が返ってきた。

『分かってる。ごめんね、ちょっと言ってみたかったの。何かあったの?』

「俺、ちょっとケガした」

『え!?』

 息を呑むのが伝わってくる。

「驚かせてごめん。相田ってヤツの話、何回かしたろ? そいつがジェロームを包丁で刺そうとしてきたんだ」

『まさか……ジェロームくんはどうなったの!?』

 華がジェロームをどんなに大事に思っているか、真理恵はよく知っている。

「かすり傷で済んだよ」

『良かった! ……華くんが庇ったんだね。それでケガしたの? 自分で電話かけてきたんだからたいしたこと無いよね?』

 真理恵が怯えたような声になるのを感じた。

「うん、たいしたことないんだ。でも周りが大袈裟に騒いじゃって。今チーフが家まで送ってくれるって」

『そうしてもらって。私、華くんに無理してほしくない』

 きっぱりとした真理恵の声に、華は『分かった』と答えた。

「初めてお前の彼女に会うな。きれいな人なんだろう?」

「はい」

「ぬけぬけと……」

「だってきれいですから。最高の女性です」

「分かった! それ以上言うな。もうすぐ会えるし」

「チーフ、一目惚れしないでくださいよ」

 池沢は冗談と取ったが、華は半ば本気だ。本当は誰も真理恵に近づけたくない。


「どうぞ上がってください」

 真理恵の笑顔に、池沢が釣り込まれるように笑顔になった。

「チーフ、俺たち結婚するってこと忘れないでくださいね」

「バカ言うな」

 小さい声で言葉を返す。だが真理恵を見て池沢も納得していた。家に入った途端に華の緊張が解れたのが一目で分かる。

(なるほどな、華がこうなるわけだ……なんて穏やかであったかい人なんだ……こりゃ本当に似合いのカップルだ)

 華がこれほどに夢中になること自体が、彼女が希少価値だということを表している。

「結婚前だというのにこんなことになってしまって……課長からも、くれぐれもお詫び申し上げてくれと言いつかっています。本来なら自分が出向いて直接お詫びすべきことを、こういう形で申し訳ないと言っておりました」

 真理恵が困った顔をするから、華が付け加えた。

「課長はお前に悪いって、謝ってたんだ。今は職場も混乱しててさ」

「池沢さん。どうか謝らないでください。そこまでひどいケガじゃないですし。それよりもジェロームくんのことをよろしくお願いします」

「会われたことがあるんですか?」

「いいえ。でも毎日話を聞かされているので、もうお会いしたような気分なんです」

「ジェロームに友人が出来るのは会社のみんなも喜びます。華、俺の方こそお前に頼むよ。いつまでもいい友人でいてやってくれ」

「もちろん! あいつは俺にとって大事なヤツですから」

「華くん」

「あ、2番目にね」

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